hiroshi5 さんの感想・評価
3.5
物語 : 4.0
作画 : 3.0
声優 : 3.5
音楽 : 4.0
キャラ : 3.0
状態:観終わった
カルヴァンの予定説を紐解くと、羽の色、グリの街の存在理由、壁の向こうに行く意味が一つの可能性として理解できるかもしれない。
物語に関する情報があまりにも少なく、らっかの苦悩に共感しにくかったです。
ただ、それ以外の部分では非常に楽しませて貰いました。
OPを含め、初めの5話ぐらいは「人類は衰退しました」のような緩い感じですが、後半からは抽象的なメッセージを全体的に染み込ませて見ている人に思考させる作品です。
生と死に関するテーマを掲げていると書いている方がいましたが、本当にそうだと思います。
詳細にどういったシーンやセリフがテーマに関係してくるのかは他のレビューアーの方々が書いて下さっています。
それを参考にして、宗教的観点からどうしてこの様な作品が作られたかを吟味したいと思います。
この作品はキリスト教の予定説が基盤になっていると思います。
キリスト教といっても長い歴史の中で政治的都合などから、その中身は改変され続けて来ました。特に中世のローマ教会が教養したキリスト教は本来のキリスト教とは似ても似つかないものだったとされています。
ローマ教会はキリスト教の聖典である聖書を信者に読ませず、サクラメントと呼ばれる儀式を行っていました。生まれてからすぐに受ける洗礼の儀式から始まり、死ぬときに受ける終油の儀式まで、全部で7種類の儀式を受けさえすれば天国に行くことができるというものです。
ですが、聖書のどこにもサクラメントなる儀式は記載されていません。当時のローマ教会は創始者とされる聖ペテロを始めとする歴代の聖人たちがたいへんな善行を施してきたお陰で、教会の中には膨大な「救済財」と呼ばれる、見えない財産が積み上がっていると考えられていました。教会がサクラメントを行えば、信者は救済財の一部を分け与えられることになるので、聖書なんて読まなくても救われるという理屈です。
こうしたローマ教会の腐敗堕落に真っ向から反対したのがルターであり、カルヴァンです。
カルヴァンがローマ教会を批判した理由に挙げたのが「予定説」です。
「予定説」を語るには、まずキリスト教の根源を語らなければなりません。
私達がよく知る仏教は「法前仏後」とされています。宇宙には法則があり、私達人間や釈迦でさえその法則は変えることができない。つまり法則が先で、仏はその次なのです。
しかし、キリスト教は「神前法後」です。つまり、神様が先にあって、その神様が法を作ったと考えられています。
旧約聖書「創世記」の冒頭には『神は「最初に光あれ」と言った。そうしたら、光が生まれた。』とされています。聖書の教えによれば、神こそがこの宇宙を作り、そして宇宙の法則を作った。
つまり、神は全知全能にして絶対の存在なのです。
では、ここからが本題です。
もし、あなたがキリスト教に目覚めて、信仰を持ったとします。毎日善行を積んで、清く正しく生活を送るようにした。あなたは1つの悪いこともしなくなった、そうすれば、絶対の力を持った神様が救ってくれると思いますか?
答えは否です。
あなたが善行をして、神様が「ああ、こいつは正しいことをしている。救ってやろう」と思ったとする。それは神様があなたの行動に左右されたことを意味しています。あなたの行動が神様に決断に影響を与えたことになってしまうのです。
絶対神である神様が人間ごときの行動で決断を左右する筈もない、と考えるのが本来のキリスト教だとされています。
そして、キリスト教を理解する上でもう一つ重要なポイントがあります。それは「1人の例外もなく、人間は堕落した存在である」という教義です。
エデンの園に住んでいたアダムとイブは神の命令に逆らって禁断の木の実を食べたために楽園を追放されます。その際に、神の命令を逆らった罰として「死」が与えられることになりました。そして連帯責任として、以後生まれた人間すべてに同じ罪が与えられた。これをキリスト教では「原罪」と言います。
つまり、すべての人間には死が与えられることになったのですが、ここからが肝心です。私たちが知っている「死」、原罪の「死」はキリスト教では本当の「死」だとは考えません。
心臓が止まり、肉体は朽ち果てても、それは「仮の死」であるというのが聖書の教えるところです。
だから、死んですぐに天国や地獄に行くということはありません。
そもそも、天国や地獄といった言葉は、本来のキリスト教にはないそうです。
では、人間はいつ死ぬのか?
それはやがて来るとされる「最後の審判」のときです。
世界の終わりに人々の前に神が現れる。このときに、それまで死んでいた人々にも肉体がいったん与えられて、生前の姿に戻る。そこで神様は人間に対して本当の死を与えるというのです。
ところが、そこには例外があります。「最後の審判」において、神は一部の人たちに対して「永遠の生」を与える、これがキリスト教でいう「救済」の本質です。神に救われた人たちは、神の国で永遠に生きることができると聖書には記されています。
さて、人間が二度死ぬというキリスト教の考えを知った上で、今度はどういった人間が最後の審判で救済されるのかについて知らなければいけません。
ここでカルヴァンは「どんな人間が救われるかは誰にも分からない。」と言っています。
どんなに善行を積んでも、絶対神には関係ありません。そもそも私達が「善」と思っている行動が神様にとって「善」なのかも分からないのです。
そしてカルヴァンはこうも言っています。「私たちが生まれる前から誰が救済されるかは予定されている」と。これが予定説の由来です。
こういわれると、一見救いのない宗教に見えます。イギリスの大文豪ジョン・ミルトンも「たとい地獄に堕されようと、私はこのような神はどうしても尊敬することはできない」と批判しています。
ですが、実際このカルヴァンの思想は燎原の火のごとくヨーロッパに普及しました。ドイツ、フランス、イギリス、さらにはアメリカにまでこの思想は広がったのです。
その理由は、どういう基準で救済されるかは分からないとしても。「結果として」、どのような人が救われているかは推定できるからです。
神様から救われるほどの人だったら、きっとキリスト教を信仰するに違いない。そもそも、その人物は最後の審判において、永遠の命を手に入れて、神の国に入るわけですから、神様のことを深く深く尊敬していなければ困る。
考えてみれば、神様は万能なのですから、その人間がキリスト教を信仰するように導くことなど、簡単にできます。となれば、神は救済を予定すると同時に、その人がキリスト教を信じ、神を信じる様に予定するに違いないという結論が出てくる。
さて、ここで話を灰羽連盟に戻します。
灰羽たちは現世で一度死んでからグリの街に生まれます。これはキリスト教でいう「仮の死」と考えられます。
羽が白色ではなく灰色なのは誰もが罪を持っている、つまり「原罪」を表している。そして、更なる罪(この作品では自殺)を犯した者には黒い羽「罪憑き」が与えられることになる。
それから、時が来たら羽とリングを捨てて壁の向こうに行くというのは、「最後の審判」として捉えることができるのではないでしょうか。壁の向こうは神の国というわけです。
話師についても聖書に該当する存在がいます。預言者です。聖書では彼らを「神の言葉を預かる人」と記しています。神のお告げを預言者は彼ら自身を通して人間に伝えるのです。
しかし、ここからが問題。予定説を信じるなら、レキやラッカが何をしても予定された運命からは逃れられないことになっています。グリの街でいくら善行をしても、救済されない者は最後まで救済されない。
ここで一つ考えられるのはレキは予め救済されることが決まっていたということです。
予定説の信者が信仰すればするほど熱くなるのには理由があります。予定説の極意は誰が救われるかがまったく分からないからこそ、自分にも可能性があるのではないか、と思うところにあります。
灰羽の壁を超える時もそうです。どういう基準で、どういうタイミングで最後の審判が下されるのかが灰羽には分からない。だけど、良い判決が下されたら壁を超えることができるのは分かっている。
だったら、できるだけ善行(予定説の信仰)をして救済を得ようとする。
こう考えると、この灰羽連盟という作品は救われる人物は既に決まっているが、灰羽たちには誰が救済されるか分からないから必死に試行錯誤する様を描いているようにも思えるわけです。
これはあくまでも私が勝手に妄想して関連づけただけなんですけど、一度死んでからグリの街に来る理由、羽の色、壁と設定の意味が解決するので説得力はそれなりにあると思います。
ですが、なんとも報われない話になってしまいますので、こうして書いている自分自身があまり信じたくない気持ちですね(汗
*参考にした資料:痛快!憲法学