みかみ(みみかき) さんの感想・評価
2.9
物語 : 2.5
作画 : 3.0
声優 : 3.0
音楽 : 3.0
キャラ : 3.0
状態:観終わった
ゲーマーだけれども、擁護できません。
ネタバレ前提なので、よろしく。
*
とりあえず、この作者の人はオンラインゲームというモチーフが非常に好きなのだ、ということがよくわかった。
オンラインゲームのなかの世界の友情やら人間関係やらは、しばしば濃厚になりがちで、その濃厚さというのは、オンラインゲームをやっていない人にとってはまったくもって、わけのわからないもの、に見える。オンラインゲームそのものをやっていない人にとっては、「こいつ、こんなものにそこまで必至になって、馬鹿なんじゃねーの」とすら思わせるような真剣さをオンラインゲームのプレイヤーたちはしばしば漂わせる。オンラインゲーム上のちょっとした仕様変更や、特定のオンラインゲームにかかわるファミ通などのメディア上での議論に対して、しばしば「炎上」や「祭り」を起こし、オンラインゲームに関わってない人にとっては実にどうでもいいようなことを「事件」として認定する。そして、その祭りに関わっている人の少なくない数が「ネトゲ廃人」と呼ばれる人だったりする。
馬鹿なんじゃないか。
オンラインゲームを遊んでいない人はしばしばそう思う。
しかし、傍からそのように思われていることを頭の片隅では理解しつつも、オンラインゲームのなかでのことを真剣に、必至に、とても重要なものとして語ってしまう。
それがオンラインゲーム、という体験である。
Sword Art Onlineと、アクセル・ワールドの作者である、川原礫は、おそらく、このオンラインゲームという世界のなかの「真剣さ」を自然なものとして演出しようと苦心した末の表現を、二作にわたって試みている…わけだ。
で、その手法は、ごく単純。
「これは、オンラインゲームの話はしているが、現実の世界にダイレクトに影響するのだ」
と。
そういう世界観を描くことだった。
実際の世界の精神/身体/社会的地位に直接影響を及ぼすもの、としてオンラインゲームを描くことで、オンラインゲーム、の地位を上昇させようとする。
このような試みをしようとする作者の気持ちは、わからなくはない。わたしもゲーマーだし。
しかし。しかし、だ…
中高生向けにこういうわかりやすい設定を作るのはいいとは思う。
ただ、わかりやすい話に仕上げすぎてしまった結果として、作者の意図とは、うらがえって、この作品は「あほっぽい」にしか見えなくなってしまっている。
アクセル・ワールドの世界の力は現実に大きな影響を及ぼす。それゆえに、主人公たちは「Birst Linker」としてのモラルなるものをもちだすことで、アクセル・ワールドの世界の力が、現実世界に影響を与え過ぎないようにしようというモラルを持ちだす。そして、そのモラルに寄って立つことことが、ラスボスである「能美」を、敵と認定する理由の一つになっている。
だが、この設定は、はっきりと言って、不要だと思う。能美くんが剣道つよくなるぐらい、別にいいんじゃね?と、素朴に思う。まあ、一種のドーピングといえばドーピングなわけだが、スポーツにおける「ドーピング」の可否というのは、ドーピングが認識された瞬間に、<社会的合意>なる類の概念が召喚されたということになり、わけのわからない意思決定プロセスを経て、禁止される類のものだ。ドーピングという<不公正>の概念が導入されない限り、不公正は、不公正にならないわけで、それは、別に認識されない限り、少なくとも一般社会的には問題はない。Birst Linkerの間の、規範意識だと問題は起こるかもしれないが…。
たぶん、ここらへんの話は、「RMT禁止」のはなしとかで、ワイワイガヤガヤやってるオンラインゲーマーの子どもたちの倫理観とかをそのまま引き継いでいて、わたしはしょーじき、しょーもないなー、と思ってしまう。
この話をどうしてしょーもないと、と思うかというと、結局、この手のオンラインゲーマーたちの倫理観は、当該の規範が、道徳的に許されない行為だから許されない、というよりもオンラインゲーマーたちの、「真剣さ」が成立する構造によって捏造されたものにすぎない、とわたしは思うからだ。その、真剣さ、が成立する構想がなぜありえてしまうのか。どうしてこういった倫理観めいたものが、自然発生的に沸き起こってしまうのか。この問題が、おそらく、作者の川原礫さんは、たぶん、ほとんど理解できていない。理解できていないからこそ、SAOやアクセル・ワールドのような設定を描いてしまうのだろう。
言っておくが、わたしは、ゲーマーなので、どちらかと言えばゲーム擁護派だし、ゲーム好きが、ゲームの世界のリアリティを描きたいという心情そのものはわかる。だけれども、やはり、こういう書き方をしてしまっては、やはり馬鹿なのだ。
オンラインゲーマーの「真剣さ」は、なにゆえに成立してしまうのか?その問を、理解していない人が描く限り、この主題は、とにかくわたしには、馬鹿げたものにしかみえない。
*
なぜ、オンラインゲーマーの「真剣さ」が成立してしまうのか?
その答えは、難しくない。オンラインゲームが、SAOやアクセル・ワールドのように、現実に巨大な影響を与える存在だから…ではなく、オンラインゲームのなかに現実の人間関係が在るからだ。オンラインゲームが死に直結しなくとも、オンラインゲームが現実世界の名誉や社会的地位に直結しなくとも、オンラインゲームの中で繰り広げられる人間関係は、間違いなく、生身の人間のそれだから、だ。
オンライゲーマーたちの「真剣さ」は、ゲームそのものが重要だからではなく、ゲームそのものが、人と人をつなぐ役割を担っているからだ。向こう側に、生身の人間をそなえたものであることによって、オンラインゲームという場所は、ただの「ゲーム」から、コミュニケーションの装置として機能しはじめることになる。
オンラインゲームというものが、そもそもにおいて強烈なものなのではなく、「人間」という強烈なもの同士を繋ぐ、役割を担う道路の役割をはたすから、結果的に、重要なものになってしまうのだ。
だから、オンラインゲームの世界の切実さを描くために、ゲーム自体がSAOやアクセルワールドのように奇怪なものであるという設定は不要だとわたしは思う。
SAOや、アクセル・ワールドのように、「現実世界にとって直接に大きな役割を果たすものだからこそ、オンラインゲームが切実」なのだとすれば、「現実世界にとって直接に大きな役割を果たさない、オンラインゲームは切実ではない」ものにしかならない。(だからこそ、SAOの後半の展開は、いささか馬鹿っぽくみえる)
オンラインゲームは、現実に大きな影響を及ぼそうが、及ぼすまいが、関係ないのに。どっちにしたって切実なものになってしまうのに、とわたしは思う。
だから、わたしは、この作品が残念だったな、と思う。
もちろん、わざわざ、こんなわかりにくいことを長く言わなくとも、単にラスボス役の子があまりにしょぼい…とか、荒谷くんいくらなんでも恨みすぎで頭悪すぎだろ……とか、突っ込みどろこ満載なプロットはそこかしこに、どんと来いウェルカム状態で、わっさわっさしているわけだが、そういう点を除いたとしても、川原礫の一貫した問題意識(と思われるポイント)が、「残念」だとわたしは思ってしまう。
オンラインゲームについて描くならば、人間関係についてだけ描けば、それで充分切実なのだ。
しかも、それは、少年マンガや、ライトノベルといった文脈でやってみせることは不可能ではない。
たとえば、この点について篠房六郎は、抜群の距離感で描くことができていた。デビュー作『空談師』、そしてそれに続く『ナツノクモ』でも、オンラインゲームに関する一貫した視点を保ち、延々と、人間関係こそが最大の問題点なるように、うまく物語を運んでいる。#さすがに、篠房六郎のような逸材と比べるというのは、非道い高望みをしてしまっているのかもしれないが…。
*
それと、SAOと違って、アクセル・ワールドが少しだけよかったな、と思うのが、主人公のコンプレックス展開。
SAOよりは、少し物語を見る上でのフックにはなった。