Tuna560 さんの感想・評価
4.5
物語 : 4.0
作画 : 4.5
声優 : 5.0
音楽 : 4.5
キャラ : 4.5
状態:観終わった
『PSYCHO-PASS』作品紹介と総評+考察「ディストピア作品のススメ①:”個”の消失」
実写ドラマ『踊る大捜査線』の監督として知られる本広克行が総監督を務め、“近未来SF”、“警察もの”、“群像劇”の3つを基本的なコンセプトに作られたアニメ作品。
(あらすじ)
人間のあらゆる心理状態や性格傾向を計測する値、通称「PSYCHO-PASS」(サイコパス)が導入された未来世界(2112年)。大衆は「理想的な人生」の指標としてその数値を実現すべく躍起になっていた。犯罪に関する数値も「犯罪係数」として計測されており、犯罪者はもちろんたとえ罪を犯していない者も、規定値を超えれば「潜在犯」として裁かれていく。そのような世界の或る都市で治安維持のために働く、公安局刑事課一係所属メンバーたちの活動と葛藤を描く。(wikipedia参照)
本広監督は押井作品の大ファンということもあり、『踊る大捜査線』では、押井監督が警察内部のドラマを描いた『機動警察パトレイバー』からの影響が随所に散りばめられていました。本作でも「現代版『パトレイバー』を作ろう」という構想を元に作られており、この点で私のアニメ観(好みのアニメ)と合致する気配がプンプンしてました。
個人的感想としては、非常に楽しめました!
ストーリーに関しては前半の導入が長いようにも感じましたが、後半への布石作りがしっかり出来ていたので、後半は納得の盛り上がりですね。特に、槙島の陰謀とシビュラシステムの全容が明らかになったあたりから、面白さが急加速したのを感じました。
作画も全体的に安定しており、音楽もラテン調なメインテーマが非常にマッチしていて、安定感の高い作品という印象が最終話まで消えませんでしたね。
ノイタミナ枠のシリアス作品は私のツボをよく突いてくれます。
作品の出来を『パトレーバー』と比較されるのは勿論、”IG作品+警察もの”ということで『攻殻機動隊SAC』とも比較されていますね。しかし、本作は上記作品のような”ロボット活劇”や”サイバーパンク”とは一線を画するものとなっています。ジャンルで区分するなら”ディストピア”が一番妥当でしょうね。
本作が『パトレイバー』のような構想から”ディストピア”作品にシフトチェンジしたきっかけとして、『ブレードランナー』の存在がインタビュー記事で挙げられていました。反乱分子を”処刑する”設定や主人公が捜査官であるなどの共通点も見られますし、本作中に登場する特徴的な銃「ドミネーター」は間違いなく「デッカードブラスター」から連想されたものでしょう。
しかし、ディストピア作品としての世界観や設定に関して言えば、『ブレードランナー』よりもTRPGの『パラノイア』の方が近いように思います。ディストピア社会を舞台にしたゲームで、「幸福は義務です」というセリフが有名ですね。また、初音ミクの曲『こちら、幸福安心委員会です。/作曲:うたたP』の元ネタとしても有名になりましたね。”コンピューターによる超管理社会”、”市民を色相別に分類”、”厳格な基準や規則を犯した者の処刑”と共通する点が非常に多いです。
さて、ここらで本作の内容を絡めながら”ディストピア”作品についての考察を展開したいと思います。
考察テーマとしては「”個”の消失」としておきましょう。
{netabare}・ユートピアとディストピア
”ディストピア(反理想郷)”とは、”ユートピア(理想郷)”の真反対の性質を持った社会の事を指します。
外見上では秩序が保たれ、そこに暮らしている人は皆平等で争いの起こらない”理想郷”に見えるが、その内面では徹底的な監視や管理が行われ、人間の尊厳よりも秩序の維持しか頭にないシステムや習慣が蔓延っている社会のことです。つまり、住んでいる人にとってはとても住み心地の良い社会だが、その裏では人間を人間として扱っていない連中が社会を管理している、という世界です。いわゆる、”全体主義”的な社会体制ですね。
しかしながら、文学的な観点から言えば、トマス・モアの『ユートピア』を始め、16世紀世紀以降の「ユートピア文学」において、ユートピア=全体主義社会として描かれてきました。真反対の性質の社会を意味する言葉ですが、描かれていた社会はほぼ同じなのです。
では、なぜ理想郷として描かれていた”全体主義社会”が、反理想郷として描かれるようになったのか?
その答えは、実際に全体主義国家が現れ、その実体に恐怖を感じたからです。「ディストピア文学」が西欧やアメリカで盛んになったのは20世紀の前半で、その時に登場したのがナチスのファシズムやソ連の共産主義などの全体主義国家です。今まで理想郷と信じていた全体主義は”世界の脅威”へと変貌したのです。そこに”科学技術の発展とその脅威”が加わり、現在のような「近未来社会を描くディストピア文学」へと派生したのです。
つまり、ユートピアとディストピアの関係性は一義的ではなく、下記の様な多義的なものになります。
①ユートピア⇄ディストピア:社会の性質
②ユートピア=ディストピア:社会の外見
③ユートピア→ディストピア:思想の派生
個人的見解としては、ディストピア作品は反理想郷を描いていながら、”理想郷という幻想”を同時に描いているのだと思います。
・パーソナルデータ化される個人
では、話を『PSYCHO-PASS』に戻しましょう。
本作に登場する”シビュラシステム”は、まさに上記で記したディストピア社会と合致しますね。”犯罪係数”や”サイコパス色相”によって市民は管理・監視され、安全の保証された社会に疑問を抱く事なく平穏に生活しています。
シビュラシステムとは簡単に言えば、「人の脳を並列化した超高性能スーパーコンピューター」による市民のデータベス化と犯罪予防に特化したシステム。つまり、個人の情報を数値化し、「犯罪者予備軍かそうでないか」を判断するシステムです。また、その”数値化された個人データ”は社会の秩序を保つ為にも使われ、職業選択などの”市民の生活”にも根付いた役割も果しています。しかしその反面、市民の過激的な思想や表現を抑える為に、芸能活動の免許制、言論統制なども行われています。安全かもしれませんが、自由は制限されているのです。
・社会に潰される”無機質な個人”
コンピューターが市民を一括統治をするには、”個人のデータベース化”はどうしても必要不可欠です。そして、そのデータ化された個人は統治者であるコンピューターにとっては、ただの「数値化されたデータ」に成り下がります。システムにとって個人は”社会の秩序を保つ為の参考数値”でしかなく、人間の尊厳などそこには存在しません。機械が社会を統治するのですから、その構成員である”個人”も必然的に”無機質な物(データ)”として扱われると言った所でしょうか。だからこそ、その中でもし反乱分子が出たとしても、”バグをフィックスする”かのように人間を処刑出来るのです。
また、個人の自由を制限する事は市民の社会への依存度を高め、”自主性の喪失”にも繋がります。特に、その社会でしか生活をしていない世代(本作における「シビュラ世代」)にとっては、その生活が”当たり前のもの”となっており、その範疇を超えたものに対しては咄嗟に対応出来なくなると思われます。「サイマティックスキャン妨害ヘルメット」による暴行事件が起きた際、目の前で犯行で行われているにも関わらず「どうすればいいかわからない」と傍観してしまったのはこの為でしょう。自主性をなくした市民はさらに社会に依存し、そして社会はより細かい監視・管理を行わなければならない。いわゆる、”社会組織の巨大化”という悪循環に見舞われるのです。
本作のキーパーソンである槙島はその疎外されている”人間の尊厳や自由”を尊重する人物です。
劇中でも槙島が引用したマックス・ヴェーバーの『官僚制』の観点で言えば、「優れた機械のような合理的な規則に基づいた官僚組織は、個人の自由を抑圧し、組織の巨大化によって統制が困難になる恐れがある」。だからこそ、槙島は”個の消失”を危惧し、”市民の自主性”を取り戻す為に、シビュラシステムという”合理的規則に凝り固まった組織”を打倒しようとしたのだと思います。
自由や人間の尊厳が薄くなった社会にとって、”個人”という概念は”社会”(集団)に潰されてしまう。これが本作のディストピア作品としてのメインテーマであると考察しました。
・それでも失われない”個人”
本作の結末としては「社会は簡単には変わらない、変えられない」というものです。市民にとってシビュラシステム抜きの生活は現状では考えられず、朱もシステムの疑問を抱えながらもそのことを飲み込み、事件後も監視官として活動を続けます。
しかし、「このままではダメだ」という意識がある限り、”個人”は消失しない。社会を変える為には、その構成員である”個人の意識”を変える必要がある。その為に監視官として働き続ける、という事を最終話の朱から感じ取れました。
”社会”というものは無数の個人が集まって構成されるもの、だからこそ他者との軋轢が生じるし、またそれを完全に防ごうとするならば行き過ぎた管理や統制が必要となる。
やはり、理想郷なんてものは幻想にすぎない。それは”上手い話には必ず裏がある”と通じるものではないかなと思います。 {/netabare}
また、本作同時期に放送されていた『新世界より』のレビューでも、ディストピア作品の系譜の話を絡めながら考察して行きたいと思います。(続く)
(4/3:改稿)