Tuna560 さんの感想・評価
4.7
物語 : 4.5
作画 : 4.5
声優 : 5.0
音楽 : 5.0
キャラ : 4.5
状態:観終わった
『GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊』作品紹介と総評+考察「心と身体の観念①」
士郎正宗の原作漫画のアニメ化作品。
押井守監督の代表作であり、世界を驚かせた作品でもあります。
アニメ好きなら、一度は通らざる終えない作品ですね。
”サイバーパンク”と呼ばれるジャンルに含まれる作品で、電脳化・義体化(アンドロイド化)するのが一般的になった近未来を舞台に、以上犯罪やサイバー犯罪の対策を行う「公安9課」の物語です。
(あらすじ)
他人の電脳をゴーストハックして人形のように操る国際手配中の凄腕ハッカー、通称「人形使い」が入国したとの情報を受け、公安9課は捜査を開始するが、人形使い本人の正体はつかむことが出来ない。
そんな中、政府御用達である義体メーカー「メガテク・ボディ社」の製造ラインが突如稼動し、女性型の義体を一体作りだした。義体はひとりでに動き出して逃走するが、交通事故に遭い公安9課に運び込まれる。調べてみると、生身の脳が入っていないはずの義体の補助電脳にはゴーストのようなものが宿っていた。(wikipedia参照)
”サイバー犯罪追跡”の側面と同時に草薙素子の”義体化故の葛藤”が描かれており、ストーリーは非常に難解な物となっています。それ故に1回の視聴だけだと展開に置いてけぼりになってしまうことが多いと思われます…。設定やストーリーが難解すぎるという点で、敷居が高い様に思われがちですが、作品視聴前にある程度用語や設定の予備知識を持っておけば問題ないと思われます。
作画に関しては細部まで細かく書き込まれ、非常に美麗です。個人的な好みなのですが、押井監督の陰影の使い方がとても好きです。暗がりに光が差し込まれる描写がとても綺麗なんですよね。
また、本作はハリウッドにも多大な影響を与え、ウォシャウスキー兄弟の『マトリックス』は本作を元に作られたと言われています。
さて、ストーリーが難解なこの作品ですが、ここで少し哲学的な解釈を展開したいと思います。
テーマは「人間と機械の境界線」についてです。
{netabare}本作で描かれている素子の葛藤とは、「自分は本当に人間なのか、それを証明する物がない」という物です。脳と脊髄の一部以外を電脳化・義体化を施した素子の身体は、言うならばほとんどアンドロイドも同然。”自分が人間なのか、または機械なのか”ということが非常に曖昧な状態に陥っています。それを証明する物は”ゴースト”と呼ばれる「心・魂」の類いの概念で、残念ながらそれを実感または知覚する事は出来ないのです。
この”心と身体”については、哲学的な観点でとらえると”心身問題”と重なる部分が非常に多い。
この”心身問題”には大きく分けて2つの視点があります。
1.”二元論”=心と身体はそれぞれ存在し、それらの相互作用によって人間の行動は為される(心≠身体)
2.”一元論”=心と身体が存在論的に異なるものだという主張を認めない(心=身体)
本作において、心(ゴースト)と身体(電脳・義体)は別の存在として描かれているため、”二元論”的な観点で考えていきたいと思います。
・”二元論”とは
フランスの哲学者ルイ・デカルトによって「心と身体それぞれが実体として区別される」という”実体二元論”が提唱されています。これは「心と身体の本質はそれぞれ異なり、相互に影響し合う」という考え方です。つまり、心と身体はそれぞれ存在し、それらの相互作用によって人間の行動は為されるという物です。しかし、この実体二元論には「性質の異なる心と身体がどう作用し合っているのか」という事が解明されず、その後の哲学において重要となりました。(イギリスの哲学者ギルバート・ライルはこれを”機械の中の幽霊(GHOST IN THE MACHINE)”と批判しており、これは本作の題名『GHOST IN THE SHELL』の元ネタに思われるます。)
では、その批判の内容とは何か?
簡単に言えば、”心と身体”の相互作用(因果性)は単一ではないということ。それらの因果性には、機械的(行動)なものと心的(感情・知覚)なものと二つがあるからです。つまり、心的状態(心)はある行動を引き起こす傾向に過ぎず、心的状態に因果的関係を認めてはならないということですね。この先は”一元論”の話になってきますので、この辺りにしておきましょうか…。
・素子の葛藤
さて、本題に戻りましょうか。素子の本当の葛藤とはなんだったのでしょうか?
私の考えでは、上記の批判内容が非常に重要に思います。
身体のほとんどを電脳化・義体化した素子にとって、一番の懸念要因は自身の”ゴースト”の存在です。魂は身体と結びつくという二元論的観点からすると、機械の身体に果たして魂は宿るのかということですね。
自身の行動によって”機械的因果性(身体を動かす事)”は実感できても、認識や知覚などの”心的因果性”は実感出来ない。このため、自身がプログラムによって構築された人格である可能性を否定出来ないわけです。このことから、素子は自身の”心的因果性”を模索し、知覚しようと試みます。
その事が露になっている有名なセリフがあります。
「そう囁くのよ…私のゴーストが。」
この”ゴーストの囁き(直感)”こそが魂の存在を自身で実感出来る物であり、自身が”人間”である拠り所となっています。つまり、”心的因果性”への固執ですね。
これは、自身が”人ならざる物”という事を知覚してこその葛藤だと言えるでしょう。その点でも、やはり”人間と機械の境界線”が曖昧になった事が元の発端だとも言えます。
・曖昧になった”人間と機械の境界線”
人間と機械というのは本来は別の存在で、相容れない物だと私は思います。
心臓ペースメーカーを例にとって考えてみましょうか。これは不整脈疾患や心不全治療の為に体内に埋め込むのが通常ですが、”体の一部”とは言えません。如何に生きる上で必要な物であって一心同体であっても、ペースメーカーを自身の意識で作動させる事が出来ないからです。
しかし、本作の世界では自身の意識によって自由に操作・動作出来る”義体”が存在します。果してこの場合の義体は、”自身の一部”なのか?こう聞かれると、非常に曖昧に感じますよね。
しかし、これが曖昧になってしまう理由というのは、ただ単に身体に機械を組み込む事だけが理由ではないと思います。と言いますのも、もともと人間の身体が曖昧な部分が多分にあるからです。
例えば、”伸び縮みする身体”という現象があります。
これは、熟練したドライバーの車幅感覚や経験と実績によって生まれた職人技の様な、所謂”名人技”に見られる現象のことをいいます。人間の身体(主に感覚)は、個人の能力や意識の在り方によって拡張・収縮されるという物です。
いくら形がハッキリとした物であっても、曖昧な物と掛け合わせると、最終的には曖昧な物しか生まれないという事でしょうか。”科学技術が発達したとしても、人体に手を加えてはならない”という警告に近いもの感じました。
人間と機械の境界線が曖昧になって、もう一つ曖昧になったことがあるのですが…この事は続編の『INNOCENCE』に通じる内容になりますので、そちらのレビューにて記述したいと思います。(続く) {/netabare}
(2/10:改稿)