Etzali さんの感想・評価
4.5
物語 : 4.5
作画 : 5.0
声優 : 3.0
音楽 : 5.0
キャラ : 5.0
状態:観終わった
人と情報
(2012.8/3 1週目)
{netabare}この作品は98年に制作されたものですが、数年後に普及率約50%に達するネットや同年から昨今における自殺率の増加を予測してたかのような感じです。
「自己」とは肉体(現実世界)ありきなのか?
(主我:○ 客我:○)
それともワイヤード(ネット)にのみ存在するのか?
(主我:☓ 客我:△)
あるいはネットと現実世界双方に存在するのか?
(主我:○ 客我:○)
人それぞれの定義によって変わってくるものだと思います。
1話にあったように自殺して肉体を無き者とし自己の存在をワイヤードに求める事も間違いではないのかと。しかし私は具体的な媒体があってこその「自己」だと思います。
冒頭に「プレゼント・デイ」「プレゼント・タイム」という言い回しがありましたが個人的な考えとして「日時をあげる=生まれた日をあげる」自己が生まれた日を・・・
ってめちゃめちゃ、そのままな感じですが(^^ゞ
一度観ただけでは理解できない部分もあったのでもう一度観ます。(6話のKIDSなど・・・)
(追記11/15 視聴回数1)
W・ジェームズの自己論
• 知る側の自己(主我、主体としての自己)
• 知られる側の自己(客我、客体としての自己)
①自分自身の観察、評価
②周囲の人々からの言動や態度、評価を通して、自己概念が形成される
上記のジェームズの理論ではワイヤードでは「自己」は存在しない事になるが… どうなのだろう?^^;{/netabare}
(2013.3/28 2週目)
事故死や病死が科学の発展によって減少した時代。人は欲望を満たすだけの存在となってしまった。欲望を持つから人なのか、欲望以外のものを持っているのが人なのか。
欲望を満たすだけの存在、それは身勝手な機械でしかない。それを制御するのも人の役割であり、その為のワイヤード?
無神教徒が多い日本だから、制作できた作品のような気もする。だからこそ、作品の陰鬱な雰囲気と相まって分かりづらさを増してるのだと思う。
それはそうと、別の階層からへの移動ワイヤードでの人格を現実の人格と直結させる。主我の喪失にも近い新たな概念。
攻殻機動隊で言う電脳化とは、逆の方法。(電脳化は実体・主我を保ったままでネットから大量の情報を得て、自分というフィルタリングを通して情報を得る)
しかし、lainで用いられるのは実体を喪失しワイヤードで主我を維持したまま情報を得るもの。
果たして肉体を失い、存在が意識(主我)のみの状態で自身を捉え情報の取捨選択は可能なのか?
自分という存在(視認できる)があって初めて自分は他人とは違う事を知ることができるのだから、そのフィルター(肉体)無くして主体的な判断や思考はできない。
また、バークリーのように物体の実在性を否定した非物質論だと、人の存在理由は肉体を前提としたものではないともとれる(wiki参照)
昨今、ネットの普及によって誰でも比較的簡単に情報を得る事ができるようになったのは良いが掲示板などでの誹謗・中傷、犯罪のキッカケにもなっているので一長一短な面もある。
そういった意味でもネットが普及する少し前に造られたこの作品は、ネットを利用するにあたっての注意喚起をしたものだろう…
{netabare}死んだ千沙が玲音の存在と引き換えにリアルワールドで甦ったのは、玲音が過ごした学校生活はリアルワールドではなくワイヤードでの出来事だったのかも。{/netabare}
玲音の選択は、「まどマギ」のまどかが選んだ結果と似ているようにも思えます。
人は大量の情報を得た時、人でいられるのか?