hiroshi5 さんの感想・評価
4.0
物語 : 3.5
作画 : 4.5
声優 : 4.0
音楽 : 4.0
キャラ : 4.0
状態:今観てる
日本
実はこの作品見終わっている訳ではない。
ただ、あまりに時間が無いので書きたいことだけここに綴っておこうと考え、ここにこうして執筆している所存だ。
物語はいたって平和的。日常アニメの部類に入る。物語というほどの大きなストーリー上に起こらない。このアニメは「ほのぼの」とした流れを楽しむものなのだろう。
音楽や作画もその「ほのぼの」に適したものになっている。一貫性という視点からは統一感が良く出ていて視聴しやすいカタチになっているが、エンターテイメント性という観点からはやはり十分な満足感は得られないだろう。
今作品の魅力は時代と設定だ。江戸時代、その中で描かれる異文化。当時のことは私も良く知らない為なんの指摘もできないが、上手く文化の差異を表現して笑いをとっていると感じた。
◆日本人の「空気」
ここからは余談である。これは海外経験のある私の意見なのだが、日本を訪れた殆どに外人は日本を独特の文化を持っていると言う。これは日本国内でも共通の認識だろう。
「日本は独特な文化を持っている」
日本人はこのフレーズを使いまわしすぎて、その本当に意味を理解していない。
日本の何が一番特徴的か。それは「空気」の存在だ。日本における「空気」とは非常に強固でほぼ絶対的な「判断の基準」であり、それを破ることは世間から反感を買うことになる、いわば異質な共通理念だ。
この「空気」の存在が海外にはないほどの「世間体」を気にする日本人という人種を生み出している。
では、「空気」とはなんなのか?
それを理解するにはまず欧米の「個人主義の倫理」を理解する必要がある。
欧州は世界で始めて正統な法律を制定して社会という組織を作った文化を持つ。彼らの「法化された社会」の倫理には日本とは違う「責任」の概念が存在する。
「責任」とは「応答可能性」の意味だ。
応答可能性、それを順序立てて説明すると(A)誰が(B)誰に対して(C)何に関して、あるいはどの範囲まで答えなければいけないのか。「責任」があるとは、このABCのすべてについて応答する準備と心構えができているということである。
特に(B)は、「うち」=身内=部下や上司などの所属共同体のメンバーというより、むしろ、共同体の「そと」、すなわち公共圏に存在する、「他者」を意味する。
他者までが責任の応答範囲内に入る、これが欧米の責任概念の特徴だ。
理由を説明しよう。社会が法化するというのは、己の権利を「みんな」で制定するという意味だ。つまり、法の対象は「他者」を含む「みんな」であり、「わたし」だ。
結論:己の権利を守ることは必然的に法一般を守ることに繫がる。
これが欧米人が些細なことでも「抗議」する理由だ。つまり、「空気」は存在するが、それが如何なる力を持っていても法に勝るものはない。むしろ、「空気」に流されることは法に反し、結果「みんな」の権利を汚してしまうことに繫がってしまう。
では、日本にはどんな倫理が働き、法ではなく「空気」を重視する世の中になっているのか。
日本の理念は「みんなの平和のために自分が我慢する」というものだ。
欧米の「自己中心的な抗議(自己主張)をすることで法一般を守る」という概念とは真逆ではないとしても、共通点がない。
日本における「責任」とは、「みんな」できめたことや、「みんな」が醸しだす「空気」に対するコンプライアンス(承諾、従順)を意味する。なぜなら、「みんな」は常に「正しい」ことになっているからである。ここでの「正しさ」とは、「みんな」と同じことをやっているのだから「個人的に責められる」道理がないという倫理的「正しさ」と、「みんな」と同じことをしていればとりあえず大きな失敗はしないだろうという状況判断上の「正しさ」である。
つまり、日本において一番に重視されるのは「法」ではなく、世間的「正しさ」であると言っても良いだろう。
しかし、世界は日々グローバル化している。もはや、「みんな」は常に正しいという多数派が正義みたいな安直な思考で乗り切れる時代ではなくなってきている。
いや、むしろ日本人の「世間体」を守ろうと他者を尊敬する国民性は己の首をしめていると言っても過言ではない。
事実、東日本大震災で被害を受けた人や東京の人たちは政府を恨んだり、お互いを非難したりしない。なぜなら、そういった抗議は他人を配慮しない「恥」ずべき行動だと判断されるからだ。結果、日本人は「我慢」する道を選ぶのだが、それは深刻な状況が際立たず、醜い本質はそのままさらけ出さないので、問題解決どころか、自分の首を絞めることにつながっている。
いじめ問題でもそうだ。東電の問題も。そして捕鯨問題にも繫がるだろう。日本人は海外から「礼儀正しい民族」だと評価されるが、今となってはそれはすべてポジティブの働いてるわけではないことを日本人は理解するべきだ。
◆文化相対主義
日本が欧米の責任概念を取り入れ始めていることは明らかだ。国際化が進む今の時代、世界の基準である先進国や新興国が取り入れている「個人主義の倫理」を無視して世界と渡り合えないからだ。
では、そもそも欧米がどういった歴史を経て現在にいたったのか、それを理解しておく必要があると私は考える。
まず、前述した「日本が独特な文化を持っている」所以を説明しておこう。
一般的に「ほぼ単一民族」「島国」という回答をするだろうが、それは間違っている。日本は他国との交流はあったし、単一民族ではあるが、単一だからといって「独創性」に富んでいるとは限らない。
1、農漁民
日本の始まりは農民や漁民が共同体を形成するところから始まる。農漁民の共同体は個人主義では成り立たない。田植えや稲刈りなどの一連の作業は集団で行われなければいけない。その共同作業から人間関係が作られ、意識も形成される。生産形態・生産様式から生活形態が規定され、さらにその生活形式から人々の生活意識が作られる。
共同体から離脱せず、共同体的な文化を共有することが個人の生存にとっても、不可欠なものだった。
2、欧米では都市が人々を自由にする
共同体の外側で生活している異文化の人々と交流する。そのため、そのときそのときに様々な人々と交流できるネットワークと、「商業」「居住」「移動」の自由が大切である。結果、人々は共同体、領主、国王のルールを嫌う傾向になる。だから、自分達のルールを作りたがる。「自治意識」の形成である。
都市は流動的で開放的な人間関係、人的ネットワークの結節点として機能する。従って、自分たちのことは自分たちが管理するという、自治意識・自主管理の思想が形成される。
3、上からの近代化・天皇制
日本の近代化は、ヨーロッパのような自由な市民による「下から」のものではなく、政治権力による「上から」の近代化であった。欧米列強の外圧に負けない統一国家をつくることが最優先の課題だった。
自由な商工業者の意思ではなく、外圧に屈しないための「上から」の近代化が「殖産興業」と「富国強兵」の二大スローガンの下推し進めされた。その時利用されたのが天皇だ。
江戸時代はばらばらだった国民性というものを統一するには「天皇」という存在の象徴が必要になった。
4、家族的な経営
1945年に日本が敗戦する。日本国民はまず、アメリカのような物の豊かな国と戦うこと自体が間違いだったと反省する。そして、次なる目標は「アメリカンドリーム」を日本人が掴むことだ。資源で負けるなら、技術で勝負しよう。これが、敗戦後の日本の国全体のスローガンになった。
新しいアイディアや独創性よりも、模倣が上手で集団的規律を守れる平均的な労働者を育てることが最優先になった日本は個人別カリキュラムよりクラス単位のカリキュラムと集団行動、先輩後輩の厳しい掟によって離脱するのが難しい部活動などの集団主義的な学校形成が成形される。
6、官僚の「行政指導」による擬似社会主義体制
官僚の本来の役割は行政府の歯車として大臣の指示に忠実に従う僕だ。しかし、実際には彼らが政治の実権を握って大臣をコントロールしている。大臣の殆どは国会議員であり、終身雇用の官僚とは違う。つまり、政治に関しては官僚の方が力量が上だ。
そんな官僚は経済成長をスローガンを達成するために企業の自由な競争に任せるのではなく、行政が企業活動をコントロールするべきであるという考え方が強かった。当時のその役割は大蔵省であり通産省であった。
かくして、日本の自由な商業という発展は高度成長期にも達成されなかった。
7、「絶対者」信仰なくして個人主義なし
日本人が共同体意識を持ち続けたもう一つの理由が宗教の不在が挙げられる。
それぞれが信じる神は絶対であるとすると、激しい争いも生まれる。しかし、そんな争いを続けていても埒が明かない。
だから、教訓として共生のルールが、個人の内面の自由やプライバシーを尊重しながら、お互いに権利を侵害しない範囲で自由勝手に生きるという思想、すなわち自由主義が生まれる。
日本は個人の信ずる神や信念よりも、周りの人間関係の方が大事になる。だから、お上の人の目を気にし、所属共同体の権利が大事で、よその共同体のことはどうでもよくなる。
◆これからの日本
前述したとおり、これらの段階を踏んで、日本人は異様な集団主義というものを形成してきた。しかし、近年この主義は崩壊の道を辿っている。
過度に依存していた共同体は解体し空洞化が進んでいる。農村共同体は都市部への人口流出によって過疎化が進行。
また、公共圏の構成要素として不可欠な、自立した市民によるボランティア・NPOは十分に形成されず、また、地方議会も事実上国政の下請け、国会議員の養成所、マイナーリーグ化していくことによって、「民主主義の学校」としての地方自治は全く形成されなかった。
現在日本は利己主義ではなく、「自分だけ個人」主義でもなく、異質な「個の相互尊重という意味での個人主義」、すなわち他者の権利を侵害せず、自分と「違う」相手への想像力と関心を働かせつつ、共生の空間としての公共空間と「参加と自治」のコミュニティの形成することを目指すのか、液状化するアノミーとして、英雄を願望するポピュリズムに堕するのか。それが問われている。