「Fate/stay night[フェイト/ステイナイト][スタジオディーン版](TVアニメ動画)」

総合得点
85.7
感想・評価
3134
棚に入れた
15768
ランキング
230
★★★★☆ 3.8 (3134)
物語
3.9
作画
3.6
声優
3.8
音楽
3.7
キャラ
4.0

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ネタバレ

イシカワ(辻斬り) さんの感想・評価

★★★☆☆ 3.0
物語 : 3.0 作画 : 3.0 声優 : 3.0 音楽 : 3.0 キャラ : 3.0 状態:観終わった

様々な対比で綴るfate

 記載されているレビューに対する反論・論戦を行いたい人は、メッセージ欄やメールで送りつけるのではなく、正しいと思う主張を自らのレビューに記載する形で行ってもらいたい。

 主人公の高校生、衛宮士郎(えみやしろう)は元弓道部員だ。弓道部の整備を手伝って夜半過ぎてしまい、人のいなくなった学校からの帰宅途中、校庭で奇妙な人影を見かけた。青と赤の人影は人外魔境ともいえる戦いを繰り広げていた。
「見たな?」
 青い槍使いから、理屈もわからず追い回される士郎は、逃げた校内で心臓を赤い槍で貫かれ……た夢を見た。目を覚まして起き上がる。血塗れのシャツや胸の痛みは本物だ。気持ちの悪さと、すぐそばで誰かが介護してくれていたような感覚。そこには赤い宝石のはまったペンダントが落ちていた。拾った士郎は帰宅の途に着きながらも、先ほどのことを思い返していた。あれは夢ではなかったのか。悪夢はよく見る。士郎は十年ほど前に冬木市で起きた大火災で唯一生き残った経験がある。
 そのせいでよく悪夢を見るのだ。
 独り生き残った士郎を育ててくれた養父の衛宮切嗣(えみやきりつぐ)には、秘密があった。養父は魔術師だったのだ。異様な何かの力に蝕まれて養父は亡くなり、今は広い屋敷で独り身である。
 ひょっとするとあれは魔術的な何かだったのかもしれない。士郎も養父から魔術の基礎を学んでいた。
 ようやく帰り着いて居間でくつろいだ矢先、天井から槍使いの男が落ちてきたのだ。
「殺したはずなんだがな?」
 逃げまどう士郎は、屋敷の離れにあった古い蔵に逃げ込んだ。
 その瞬間、魔方陣が突如として作動した。魔方陣からは、少女騎士が蒼い月のような、玲瓏とした輝きを放ちながら現れていた。養父は何か仕掛けをしていたのだろうか。
「問おう、貴方が私のマスターか」
 衛宮士郎は巻き込まれていたのである。養父が関わった聖杯戦争というものに。七人の魔術師たちがサーヴァントと呼ばれる英雄の霊、英霊を呼び出し、使い魔として戦わせ、勝ち残った者がいかなる望みでも叶えるという伝説の聖杯を勝ち取る儀式。それが聖杯戦争。そして、少女騎士の正体は伝説の騎士王アーサーだった。アーサーは男ではなかったのだ。使い魔の主・マスターの資格ともいえる絶対命令権を行使できる令呪(れいじゅ)の魔術刻印が、そのとき、士郎の手の甲に刻まれていた。

 ケルトとアーサー王の関係は深い。アーサー王の物語は一般的にキリスト教徒の書いた物語だと知られているが、実際の下地になっているものはケルト神話だからである。原型になった世界観の深みを楽しみ、そこからアニメとしての世界観も楽しむ。つまり二重の意味で楽しめるのだ。fateをより理解するための一環として、歴史的な資料・文献、神話などを紐解いていこうと思う。その楽しみを共有してもらえるのなら、さいわいだ。


『アーサー王を知るためには、そして聖杯を知るためには切っても切れない原型
 それがケルトだ』
『ヨーロッパの先史時代で屈指の一大民族である。ケルト人はブリテン島やアイルランドだけでなく、スペインやフランスからドイツ南部、アルプス地方、ボヘミアまで、のちにはイタリア、バルカン半島、そしてトルコ中部にも住んでいた』※1
 彼らは個人的な武勲を重んじ、極度に戦闘的なため、特にローマなどから恐れられた。一度はローマに侵攻し、征服後に多大な身代金を要求している。以降、ローマ市民の心底にはケルト民族の一種、ガリア人への恐怖が濃厚に残留した。それが遠縁でローマのガリア侵攻が始まり、ヨーロッパ全体へとローマが領地を求めたことから、結果としてケルトは滅んだとされる。日本でも読める詳細な記述の書物に、ガリア戦記がある。
 政治的には、呪術的な僧侶であるドルイドに強力な法の権限を与えている。アーサー王の原型とされるケルトの様式には、中世のキリスト教的様式とは異なる部分が現存し、キリスト教の鍍金がされていようとも、物語の原型としてケルトが残される形となった。
 図説ケルトという書物の説明を調べたところ、ケルト民族には貴族という制度がないため、上層階級という表現が用いられている他、ブリテン島にはキュノブリン王(ブリテン王列伝にキュノブリン王の記載が無いので、資料の著者であるサイモン・ジェームズ氏による独自の研究資料からの転載であると思われる)以前にはkingという言葉は用いられていない。図説ケルトには王のかわりに首長という表現を使っている。
 首長・上級階級である戦士等・織物や鍛冶屋などの製作階級、ドルイド・吟遊詩人の大きな四つと、他の大多数である農民で構成されている。非常に好戦的な思想であり、名誉を重んじ、客人を優遇し、横のつながりを大事にする。生贄の儀式を頻繁に行い、呪術的な殺人が異様な上あまりにも多かったため、キリスト教徒による迫害の口実には事欠かなかった。奴隷の売買や首狩りも行われている。

 非常に好戦的な思想/その姿。
「血縁者が殺されたら報復しなくてはならない。復讐せざるは臆病者の証だ。一族をけなした者は敵として許すべからず」(あちこち調べてきた資料の中からそれらしい言葉を伐採した)
 ケルトの戦いぶりは、鍛え上げられた裸体にトルクという黄金製の腕環や首飾りを身に着け、武器を構えるといったいでだちで戦っていた。
 また、石灰を含んだ水で洗い、オールバック、さらには後ろ髪が尖る形にしていた。金髪の髪型の者などは、スーパーサイヤ人カットである。
 髪の毛を染色する場合は、ブナの木を燃やした灰と山羊の脂肪を混ぜ合わせた染料で赤く染め上げることがあった。ケルト人=オールバックというくらい、基本的に男はオールバックなのではないかという疑念が出てくる。そういう記述ばかりしか出てこないからだ。
 刺青をしている者も大勢いた。己の力を増大させるための魔術的な文様が描かれたボディ・ペイントは、ケルト美術的なものと相まって美しい。青い色で染色されていることが多かったという。
 アイルランドの伝説に登場するクー・フランは魔術的な加護により、戦闘の際は醜悪な怪物の姿になって敵を圧倒したという。
 ケルトの上層市民の間では、色彩鮮やかなチェックの衣服が用いられていた。男性にはパンツルックが一般的であったようである。北欧なのに裸体で戦いに挑むあたり、よほど鍛えられていないとやっていられない。ケルト神話が好きな人が旅行に出た記述をみつけたが、現地人だとマイナス25度でもあたたかいという台詞が出てくるのだ。相当寒さに強い。中年以降でも、腹が出ていると刑罰に処せられるといった記述があることから、特に気を使っていた。また肉体に自信があったと思われる。

 名誉を重んじる/首狩りの記述。
『敵が倒れると、彼らはその首を切り落とし、相場の首にくくりつける。敵の血塗れになった武具を従者に手渡し、勝利を感謝する歌をうたい、勝利の歌を朗々とうたいながら、敵の首を戦利品として運び去る。そして、この戦いの初収穫を、狩りで手に入れた獲物の頭と同じように、自宅に釘で打ちつけるのだ。とりわけ高名な敵の首は、シーダー樹脂に浸して防腐処理をしてから、箱に大切にしまっておく。それを客人に披露して、先祖の誰それ、父親、あるいは自分がこの首と引き換えに大金を積まれたが断ったのだと、おごそかにいうのである』※1

 どう思われるかを特に気にする一面あり/客人を優遇。
『ロッドファーヴニル、お前に忠告する。わしの忠告をいれよ。いれれば役に立つ。聞けばお前のためになる。客を嘲笑するな。垣根の外に追い出すな。みじめな人間には親切にせよ』
 オーディンの箴言より。
 好戦的である反面、とても客人を優遇した。まず見知らぬ客人を招いた時などは、宴を披露し、食事を取らせる。それまで客人がどこの誰であるか、何をしているのかは尋ねないのである。和やかな雰囲気に包まれたとき、はじめて尋ねるのがケルトのやり方のようだ。立派な人物と思われるかどうかを常に気にするところがあった。

 勢力の拡大/横のつながりを大事にする。
 ケルト民族は複数にして雑多な集団に分かれている。なので、それを統率する、またはいざとなった時に参戦してもらう、共闘してもらうために、日常から大きな集団が小集団を庇護していた。多数の指導者が群れを為す形は、民主主義的な合議制に近い政治方法となり、奇しくもギリシアの合議制に近い形となっていた。アーサー王も、小部族の首長の中でもやり手で、当時の人々がアーサーの名を勇猛な将と位置づけていたのだろうことは想像に難くない。実際にいたであろうアーサーは、王という表現があまりふさわしくない存在だったろう。ケルトの物語などを読んでいた時、百人の王の中の王、とかいう表現があった。現代風に表現しているのだと思う。

『アルトリウスがアーサーに
 アーサー王の虚像と実像』
 アーサーはその頃ブリトン人の王たちと供に戦った指揮官の名だ。
 侵略者サクソン人(ドイツの民族。ブリトンを植民地化し、地元の者たちと混血してアングロ・サクソン人になる)と戦い、いくつかの王国の連合軍を率いて、名を成したと最近まで考えられていた。
  アーサーは五世紀から六世紀ごろの人物で、ローマ人の血を引くアンブロシウス・アウレリアヌスを父とするアルトリウスという名のブリトン人であったという。アルトリウスはアーサーのラテン読みで、彼がローマ人の末裔であったことからアーサーと呼ばれるようになったらしい。ベイドンの丘でサクソン人の侵入を打ち破り平和をもたらすものの、内乱の勃発により、アルトリウスは殺され、王国は崩壊してしまう。この説は、学者によっては反論の的になることもあり、はっきりしない。
 筆者が幾つか書物を読んだ中で、最もわかりやすく、そして最新の研究資料を基に記載しているのではないかと思われる『アーサー王と中世騎士団』という本がある。時代の変遷によって描かれる幾つかのアーサー像をきちんと表記している。
 アーサー王の竜にまつわる起源を調べてみた。
『当初のローマ軍旗は紫のドラゴンであったともされる。西暦5世紀初頭、ローマ軍がブリテン島から撤退して以降、ブリトン人がこれを軍旗として使用したことからケルトのドラゴン、すなわち国の象徴として用いられた』赤い竜 (ウェールズの伝承より)
 軍旗の旗もそうだが、当時サクソン人の象徴が白の竜だったことも対比の原因と見られている。アーサー王伝説には赤竜と白竜が戦い、赤い竜が勝つといったストーリーが組まれているが、これは自らの国が勝ったということの意味を物語にしたということだろう。
 ノルマンディにいた征服王が11世紀に侵略を始めたが、このときウィリアムはブルターニュの血も私には混じっている。アーサー王の子孫であると表明した。いってみれば政治喧伝のためにアーサー王の名は利用されたのだ。赤い竜はこれ以降、国民の象徴とされるようになった。この後もテューダー朝の祖ヘンリー7世あたりが王権ほしさの正当化のためにアーサー王の名を引き合いに出している。
 政治喧伝と国民の象徴の二つが、アーサー王とレッドドラゴンの名を不滅にしたのだろう。
 アーサーのいたであろうイングランドは当時、半ばローマの植民地となっていた。そのようなとき他国勢力の侵略に対して、ローマはそのころ別の強敵が現れており、援軍を出せなかったというのが、前年の資料の記載だった。新資料の本では異なっている。407年属州司令官コンスタンティヌス(3世)が留まっていた軍団からの説得を受け、皇帝の称号をかたっていた大陸のガリアに出兵した。結果的にこれは失敗に終わる。ビデンティン帝国の歴史家プロコピオスが後世に明言したように、その後、「ブリタニアは二度とローマ帝国に支配されることはなく、独裁者の統治するところとなった」とある。兵士たちの中には地元に残り土地をもらって農民となる者や先住民族の支配層の中にもローマの流儀を取り入れる者がいたという話である。
 ケルトの戦いの首長とか、ローマ化された騎兵部隊の指揮官とか、見方はさまざまだが、アーサー自身も独立した、現代的に言い表せば小王だったと考えられる。
 アーサーという語源自体、『熊のような大男』という意味もあり、毛深く巨体であったのではないかという考えもできる。生まれてから名前を変えないでいたのなら、小男でもアーサーかもしれないので当てにはならないが。円卓の騎士ガウェインと緑の騎士の原型に、クー・ホリンの逸話が使われている。実体は虚々実々といったところで何を根拠に挙げても、それに反論できるところがあり、ほとんどはっきりしない。実在などしないという説もまた幅を利かせている。実在したと仮定するとして、ケルトの民族的なことをいえば首長であっても王とは表現されず、アーサー指揮官が実情らしい。fateのアーサー王の実名はアルトリア・ペンドラゴンというそうだ。

『当時の戦い方とエクスカリバーの関連について
 伝説の剣の形状を探求する』
 焼きが悪く、構造的なもろさを抱えていたケルトの剣は、頑強な鎧に身を包んだローマ軍を攻めるのには向かなかった。
 この時代の刀剣は、まだ、青銅製で鋼が使えなかったため金属硬化の処理を施している。しかし芯の部分はただの鉄で、戦闘をするごとに焼入れした皮膜がはがれ、だんだんと強度が落ちていった。こうした剣は折れるのではなく戦闘中に曲がってしまうことがあったため、幅広い刃となっている。当時の戦法が激しい切り合いであった。強度の関係から、突き刺しに向かない形状であったので、自然と闘い方も武器に合致した切り合いオンリーなっていた。ケルト人の武器はほとんど槍だけが突き刺し系の武器だったといっても過言ではないだろう。ローマ人との戦いあたりから、グラディウスがケルト人の間で製作・使用されるようになったが、好みの関係からか、あまり一般化しなかったようだ。
 樽や鎖帷子などを作る技術があったことから、器用ではあったものの、精錬技術はローマに劣っていた。ケルト神話に登場する神々は、武器を小人に作らせて自分で作らない。ケルト人の体格は大きく、他の人種は小人と称していた可能性はある。鋼製の武器の製作は、ケルト人以外の民族に頼らねばならなかったということなのかもしれないのだ。
 ケルト人を相手にしたローマ軍の記録の中には、曲がってしまった剣を持ったまま後ろに引っ込んでしまったので様子を見ていると、なんと足で踏んづけて元に戻して再びやってきたという記述がある。
 また、ケルト人はローマ人より体格が大きかったため、武器そのものが大きかった。味方を誤って傷つけないように、散開して戦う癖がついていた。個人の武勇を競う習性もあった。
 対するローマ軍の武装はしっかりとしていて、みな鎧兜を着込み、そして大きめの盾を装備していた。
 密集隊形を組む戦い方で、盾を左手に構えると右半分は自分の体を覆うことができる。しかし左半分ははみ出してしまう。このはみ出した部分は密集隊形を組んだとき、左にいる兵士の右半分を守る。このように「盾の壁」を作ることを前提にしていた。隊列を崩すことは自分だけでなく、その周りの人間にも多大な迷惑をかけるので、自分だけ逃げ出すことは非常に不名誉なこととされていた。
 共和制ローマ時代の戦い方の基本として、まずピルムという槍がある。鉄製で、投げるとかなりの打撃を与えることができたものの、その重さから飛距離が限られていた。まずピルムを一斉に投げ、敵の出鼻を挫く。そこからグラディウスの出番となるのだ。
 70cm程度と、グラディウスは短い。しかし囲うようにして戦うにはむしろ短い武器で戦ったほうが同士討ちの危険を避けられた。集団戦だと剣を振るうだけで同士討ちの可能性が高くなることから、刺し殺したほうが効率も良い。盾の隙間からなら突き易くもなるのだ。戦い方も武装もローマ軍は集団戦闘用にきちんとカスタマイズされていた。ケルト人は体格や武装から個人プレーが主で大規模な戦争に向いていなかった。
 ガリア戦記には、ケルト人の能力は傑出している者が多くいて、驚異的な力を発揮したという記述があった。個人プレーや武装の違いなどによりローマ軍に敗れたのであって、ケルト人の戦闘能力は決してローマ人に劣っていなかった。
 スクラマサクスに代表される刀剣類がちょうどアーサー王の時代のブームであったことから、異様に幅の広い、突きにむかず、切るに適した剣である可能性は高い。
 ガウェインと緑の騎士の対決を描いた古い押絵には、アーサーとその部下が片刃の剣を持っているのを見いだすことができる。
 また、剣を毒蛇に見立てる描写なども多く見受けられるが、模様鍛接という処理により、剣の表面に浮かび上がる模様がまるで蛇のようだという理由がある。これはエクスカリバーの記述にもみられることから、かなりの高い可能性で模様鍛接で鍛錬された剣であろうと推察できる。模様鍛接は芯棒を二つの鉄で絡め合わせて作る。その形状が剣に浮き出て蛇のように見えるらしいのだ。それが呪術的に思えたり、神秘的に見えたりする。
 エクスカリバーの原型は、ケルト神話に登場するカラドボルグであるらしい。カラドボルグは硬い刃の意味がある。よく考えると、ゲイボルグが突き刺すのなら、カラドボルグは切るということである意味わかりやすい。ケルト人製作型のカラドボルグは突き刺す用途がほとんどなく切ることを主とする武器だろう。
 カラドボルグはアーチャーが用いているが、アニメ版やゲームに登場するあの形状はどう確認しても、突き刺す武器にしか見えないのが難点だ。突き刺すのに向いていない武器であろうことは調べると察しがつきそうなものである。偽、とついているのはそのためだろうか。硬い稲光という意味もあるので、そちらの扱いでアーチャーは使用していたのだとすると、納得できる。
 当時のキリスト教徒たちが集めたケルト神話にある「レンスターの書」や、「赤牛の書」にはカラドボルグについての記載がある。妖精の宮殿にあったとかいうもので、振り回すと虹のように長くなるらしい。超絶する広範囲攻撃が可能な横薙ぎによって効果を発揮する剣であり、突き刺し系の武器ではない。
 ラテン語を知っていた人がこれを鋼鉄という意味合いでchalybs(カリュブス)にしたのではないかという説がある。訳された人によって置き換えされた名前である可能性は高い。結構致命的な問題は、どうもエクスカリバーのエクスは、固有名詞ではなく、そして、とか、~と、という意味の部分まで名前に入れてしまったからこうなったのだという説がある……そういわれてしまうとかなりいい加減だ。
 伝承には石から引き抜くというのと湖の妖精から借り受けるという内容をうまく一つにできず、両方ともエクスカリバーとしてみたり、一つをカリバーンとしてみたり、カリバーンが壊れたあとにエクスカリバーが登場するいった工夫……いってみれば後付の理由であったりする。
 こうしてみるとアーサー王の武器やアーチャーの武器、クー・フランの武器などには文化や伝承などによる接点があった。元は一つの伝承からなる武器でも分岐して別の武器という名称になっていく。これは神話にも共通することで、さまざまな神々が性別や容姿や性格を変えつつ伝播していくのだ。

『傷など受けない!?
 全て遠き理想郷・アヴァロン。謎の結界宝具はエクスカリバーの鞘』
 宮廷魔術師マリーンとアーサー王との問答で、エクスカリバーの剣と鞘のどちらが気に入ったかと聞かれたアーサーは、剣のほうだと答える。マリーンはアーサーに、エクスカリバーの九倍は価値があると言い放った。
 よくわからない謎の鞘。その鞘があると傷など受けないとか、傷を受けても血が流れていかないとか、とにかく以ってとんでもない代物である。当然そんな鞘など持っていては敵側は困るので、盗まれてしまった。結果、カムランの戦いでは不死ともいわれたアーサーに死が訪れることになるのだ。
 fateではアーサーが死ぬ間際に旅立ったとされる妖精郷アヴァロンの名が鞘の名前になっている。
 どのような物理攻撃でも干渉を受け付けず、平行世界からのトランスライナー、多次元からの交信(六次元まで)をもシャットアウトするとんでも宝具である。即死級の打撃を受けても回復するらしい。所有者の傷を癒し老化を停滞させる。滅茶苦茶な宝具だ。
 
『約束された勝利の剣・エクスカリバー返還の原型
 それはドルイドの祭儀のによるものだった』
 アーサー王は死ぬ間際に、エクスカリバーを魔法の湖に投げ入れるよう騎士ベディヴィエールに命じるシーンがある。原型となっているのは、湖や川などに奉納した事例からだろう。その数は非常に多かった。何千点ものトルクや首飾り、祭儀用にわざと折られた剣などの貴金属などがあった。さらには、食事を与えられたあと、後頭部を斧で殴られ、首を絞められ、沈められた人間の生贄などが発見されている。
 非常に多かったと記載したが、現実的にどれくらいの規模なのか。ローマ軍が遠征をするにあたり、莫大な予算は借金となり、苦しめられることになった。しかし湖から引き上げられた貴金属によって借金はなくなり、さらには遠征する採算がとれたというほど儀式が盛んであったという話である。


『聖杯の原型であるケルトに伝わる魔法の大釜
 キリスト教発祥の経緯
 そして錬金術たちのいうところの宇宙釜である聖杯』

 アーサーの船プリドゥエン号での旅物語に、魔力を持つ大釜を盗み出すために異界の王国アンヌーンへ向かうという話がある。
 豊穣の女神ケリドウェンが持っていたとされる魔法の大釜をアーサーら七人の騎士たちが捜し求める冒険譚。精霊の大釜、またはアウェインと呼ばれる大釜。聖杯伝説には語られない物語だが……それは聖杯の原型だった。
「お前には一個の釜をやろう。その釜は縁起のいいものだ。もしも今日お前の戦士の一人が死んだなら、その釜に投げ込んでみるがよい。あすには戦士はよみがえってすっかり元気になるはずだ。ただし、二度としゃべることはできないが」(「マビノギの第二の枝」より)
『初期アイルランドおよびウェールズの神話伝承では、大釜は豊饒と再生の二重の象徴的な意味を持ち、水は生命を維持させ、癒しの力をもつものとして古代ケルト人にとって聖なるものであった』※2
 大釜はさまざまな場所から発見されているが、たいていは湖や川など、水がある場所だ。それは水が生命や癒しと関連性があると考えられていたからかもしれない。
 生贄の血を受けた容器として使用していたことを示唆させる絵柄がみつかるなどしていることから、単なる容器ではなく、種類によっては祭器であった可能性もある。
 
 幾つもの変遷をたどってキリスト教へたどり着く、その経緯。
 ゾロアスター教からミトラ教出現。
 紀元前539年にバビロンを滅ぼしたキュロス大王がペルシア帝国を建国し、オリエント全土を席巻した際、アフラ・マズダーは無量の光とされ、インドの太陽神ミトラと同一の神格の太陽明神にして「主の御子」ミトラ(ミスラ)として崇拝されるようになる。つまり、別個の神を同一視するところがあった。
 当時のゾロアスター教は、世界宗教といっても過言ではなく、王の宗教と呼ばれた。
 このあたりの影響を強く受けた民族が、当時、バビロンに捕らわれていたユダヤとイスラエルの民だった。辛い立場に追いやられた彼らは、ヤハウェイの代理者として民の前にたつ王の意味があった救世主信仰を、ザラスシュトラ(ゾロアスター)にならって処女神の息子がやがて天から降りてくる、という形で改造した。自らを救ってくれる神を欲して自ら神を創造したのだ。
 なぜこんなことをしたのかというと、アフラ・マズダーの「再来の神の子」たるミトラに対応するためだ。処女創造神テァアマトの息子太陽神シャマシュを下敷きする形とするためだろう。
 ヤハウェイの手助けする者の意味がなぜかヨシャアと呼ばれるようになる。しかし、この名称は本来バビロニアの魔術に使われた呼び名で、東アジアの鬼祓いと同様の儀礼の際に唱えられた名前だった。
 いってみれば、光の御子ミトラと同一視した存在の名前をどうするかというところで、神の代理人が魔術に使われていた名前であるヨシュアということになったのだろう。そして、いつしかその太陽神ミトラを継ぐ者が現れると予言した。予言というより、自分たちを解放する人がいつか現れて助けてくれる、そう信じたい、強い願いであったのだろう。
 太陽神が再来の神の子、つまり現人神(あらひとがみ)なのに、その手助けされるほうのヤハウェイはというと、単なる地方神である。自分たちが本来拝んでいたヤハウェイは格下の地方神に過ぎない。
 結果的に、ヤハウェイは全知全能の神様として格上げされた。 その信仰をしている僧侶たちは偉いということになっていく。そして最後には、教皇という形で、神の代理人として人を支配するまでに巨大化し、唯一神化していくのである。支配力を強めるには、崇める神が地方神であるより、他の神より偉い立場で、宗教論争で言い負かされない存在になったほうが有利である。
 何より唯一神なら他の神は自動的に劣るものという形で、言い負かされることがなくなる。
 十字架の本来の意味は、天体観測の指標として捉えられた形だそうで、太古の新年であった春の日に、太陽の軌道が天の黄道を横切るとき、星座の下方〔冬の部分〕から光が上方〔夏の部分〕へ昇ってくることによって十字が描かれるからだそうだ。
 太陽神を継ぐ者であるヨシャアは春祭りの過越節(すぎこしのいわい)〔祝〕の神であることから、春分の牡牛座にちなんで小羊の贄を供えて食べるのである。
 イエス・キリストの時代、ローマ市民の多くは太陽光明神ミトラを崇拝していた。前一世紀にペルシアからローマに入ったミトラ信仰は、アフラ・マズダーから独立して、「ミトラ教」となり、紀元274年に皇帝アウレリアヌスは「太陽教の唯一神のみが皇帝の至高の権利を付与する」と宣言し、国教に定めて、冬至の日である12月25日を「不敗太陽神の誕生日」の祭日としたとある。

 ミトラ教指導者である最有力候補マクセンティウスが敗れ、
 勝者コンタンティヌスの手によりミトラ教はキリスト教・ユダヤ教の苗床となる。
 317年12月27日。六人の貴族が皇帝の座を争って、皇帝最有力候補のマクセンティウスとテーヴェレ河畔で対決したとき、陣には「太陽神ミトラ」の軍旗が数多く、はためいていたという。
 対していたコンタンティヌスが思わず天を仰ぐと、燃えている十字架の影と、「この標により汝は勝つ」の四語が空中に浮かんだ……らしい。さらに、その夜、眠っている彼の眠っているコンタンティヌスの耳に、「全軍の盾に十字架を描け」という声が聞こえたという。お告げに従ってコンタンティヌスは軍旗を十字架の旗に変えて押し立てて攻め込み、この宗教戦争がキリスト教の勝利に結びついたのである。
 敗れた宗教は衰退し、勝利した宗教は敗れた宗教を取り込んで都合のよいように改ざんする。キリスト教は冬至に当たるミトラの誕生日をそのまま奪い取ってイエス・キリストの降誕祭としたのである。太陽神ミトラとキリスト教に類似点があるのは当然のことだった。
 コンスタンティヌス帝が死ぬ直前の337年復活祭の日に洗礼を受けたヨシャアはキリスト教の基になった、キリスト教が国から認められたのである。

 この話の中の十字架の部分、どこをどう考えても、キリスト教信者が作ったものだとわかる内容だ。歴史上確認しようとすると、たいてい妖精や古い神々などに行き着いたりする。そのとき必ずこのようにしてキリスト教徒による記載が入ってくる。巨人の神々はトロールとなり、ヴァリキュリーは醜い三人の魔女となる。可愛らしい妖精の類でさえグレムリンのような小悪魔にしてしまう。勝利した側は敗者に対して、いつもこのような態度で接することを筆者は思い知らされるのである。
 ちなみにケルト人は……奪うわりにあまり気にせず何でも拝むようである。いいのか悪いのか。
 そんな都合よくヨシャアという人が生まれてくるのかという突っ込みに対しては、当時ありふれた名前で、たくさんヨシャアはいたし、俺が予言にいわれていたヨシャアだ、と宣言する男が後を絶たなかったということなので、いささかの心配もいらなかったろう。12月25日生まれのヨシャアが選ばれた可能性も当然ありえる……自称で実は少しずれていたとしても問題なかっただろうし。
 歴史的なミトラ教のあり方、論じられ方は、キリスト教とかけ離れている、類似点はほとんどなく認められるところもない、とされている。勝者の理論は敗者の宗教の下地であったことを認めるものではないだろう。宗教とは幾つものパーツの寄せ集めなので、たった一つの宗教だけでできているわけではないし、時代によって常に変質していくのだから批判や否定も自然のことなのだろう。

 アーサー王の聖杯伝説とキリスト教はどこで繋がったのか?
 現在伝わっている聖杯は、キリストが最後の晩餐で使用したとされるもので、彼の血が注がれた注がれないと論議される代物である。
 このキリスト教から生まれた聖杯を捜し求める騎士の物語や奇跡譚を聖杯伝説というようになる。
 ケルト神話からキリスト教への鍍金がなされる段階は何時だったのかを調べてみた。聖杯の物語を書いたのはクレチアン・ド・トロワという人物がフランドル伯の要請によって執筆したものであったらしい。しかし、第三回十字軍の出立した1181年5月14日に記載をはじめたこの物語は、要請した伯が戦死したりして、結局完結しなかった。続編をジュエルベールという人物が描き、その後は様々な人物によって補足され矛盾を孕みながらも完成していく。
 アーサー王伝説に登場する聖杯の物語のあらすじはどんなものだったのか。
 漁夫の王という人がいて、昔ロンギヌスの槍で刺されたら傷が癒えないままになってしまい、不具の王と呼ばれるようになったという。釣りをして暮らすというのは、これまた釣り馬鹿にはいいのか悪いのかわからない。王様が病んだら、事もあろうに国も荒れてしまい、肥沃な国土は荒野になってしまった。それを回復させるためには聖杯が必要なのだという。アーサー王と騎士たちは様々な場所に聖杯を求めて冒険の旅に出る。
 これがあらすじだ。

 錬金術師たちは聖杯を何でも作り出せる究極の存在と見立てた。
 しかし当然ながらそれは手に入らない。
 そこからfateは始まった。
 
 聖杯とキリスト教の二つの項目の原型は説明した。fateはここで魔術の話を持ち出してくる。
 やがて錬金術といった魔術的なものに話が及ぶようになると、あらゆるものを作り出すことができる宇宙釜と呼ばれるものに変形していく。宇宙釜の言葉は、原型の錬金術そのものの内容でfate特有の設定ではない。
 fateでは、聖杯を手に入れることができなかった魔術師たちが、自らの技術によって聖杯=宇宙釜そのものを作り出し、英霊が“座”に戻る力を利用して一気に根源の渦への穴を穿つ、根源にあるとされる、手付かずの莫大な魔力の行使を目的に編み出した魔術礼装……魔術の儀礼に際し使用される装備・道具である。座や根源の説明はあまりなされていないが、魔力の溢れた空間であるという。
 遠坂家とアインツベルン家とマキリ家による合同の魔術式製作の結果がこの魔術礼装である。
 主人公・衛宮士郎が拾ったペンダント……あの赤い宝石のはまったペンダントの持ち主は遠坂家の娘、凛だ。彼女は聖杯戦争に参加していた魔術師の一人だが、巻き込まれた士郎を助けた際、魔力の篭っていたペンダントを置き忘れたのだ。父親が前回の戦争で敗死した。魔術師として聖杯を手にするという悲願を達成するため、聖杯戦争に参加していたのである。
 遠坂家はゼルレッチと呼ばれる宝石を使う魔術師の子孫で、宝石を使う魔術に長けている。ゼルレリッチ本人が使っていたという、その名も宝石剣ゼルレッチは平行世界、いってしまえばもう一人の別の自分がいる似たような別世界・幾つもあるパラレルワールドから魔力を取り出すことができるというとんでもない代物だ。何しろ、一箇所に魔力のある場所があるのなら、ほとんど無限に広がる平行世界のどこからでも魔力を引き出せるので、その魔力は無限に限りなく近いといえる。
 アインツベルン家やマキリ家はどうやら不老不死を求めていたようだ。
 各家の目標はそれなりに異なっていたようだが、聖杯の性質から共同する価値を見出していたと思われる。事情を知っている者は願望器と発言しており、本当の聖杯であるかどうかは別として願いが叶えられるという事実のみに着目した魔術師が戦いに挑んだという。実際は、サーヴァントの霊体を生贄とし、動力源として作動させるものだった。サーヴァントを呼び出すため儀式的に魔術師が必要だったに過ぎない。戦争をせずとも、共通する目的があるのなら、魔術師たちが揃って英霊を生贄にして願望を叶えることすら可能だろう。戦争という形になったのは、魔術師たちの利己主義から発生したもので、必ずしも戦争をしなくては魔術式が完成しないものでもなかった。そのうち、原型となっている事実が有名無実化され、利己的な魔術師たちによる聖杯戦争となり、本来あったとされる儀式としての意味合いを語る者がほとんどいなくなった。
 聖杯戦争で用いられる聖杯そのものは、どのような形状をしていようとかまわないのだという。
 これは原作ゲーム、fateで説明がなされいた記憶をたよりに筆者が記載していることなので、不正確だ、より正確に内容を知りたいと思う方は原作のプレイをおすすめする。
 雑記として少し気になるところがある。fateでは、英雄は生前、世界と契約して個人的な願いを叶えることを条件に、英霊になるのだという。英霊は世界を守護する霊魂として昇格する。英霊には守護しないタイプも多いらしいが……今回は詳細を割愛する。fateの世界には意思があるのだ。聖杯戦争という儀式で、英霊にこのような扱いをして、なぜ世界は黙認しているのだろうか。
 もう一つは、英霊そのものが、抹殺されることで聖杯を満たし、願いを叶える触媒とされている事実をどの程度把握しているのかである。七人すべてのサーヴァントが抹殺されることによって、根源への孔が穿たれる。生贄の数が六人でもある程度の願いは叶うという。サーヴァントも聖杯に願うから呼ばれてくるのだろうが……本来の儀式と戦争と呼ばれる意味合いのずれをどこまで理解しているのか不明である。
 最後に、赤い人影の正体・アーチャーについては、別系統の作品アンリミテッドブレイドワークスで明らかになる。赤い宝石のはまったペンダントは伏線なのだ。

『fate考察
サーヴァントたちの記憶はどこの記憶なのか、どこから来ているのか』
 ごく普通に考えると彼らは過去からやってきたということになる。たまたま未来から来た英霊も混じっているが、過去ということでなんとなく理解できたつもりになっている。
 しかし、よくよく考えてみるとおかしいのである。エクスカリバーが最初に登場した物語には、剣が岩から引き抜かれたシーンも、湖に返還されるシーンもない。あちこちの物語を付け足し、あるいは削り、わかりやすく変更され、それらしくなるまでに六百年から七百年近くかかっている。あちこちに矛盾のある物語の記憶にしても、実在しないサーヴァントたちの過去の記憶はどこから出てきたというのか。
 fateの世界のサーヴァントは「世界」と契約してサーヴァントとなる。いってみれば世界そのものが意思を所有している。そうやって願い事と引き換えにサーヴァントとなる英雄たち。fateの物語の舞台である冬木市のある世界には存在していないはずの歴史なのだろう。
 凛と士郎が結ばれた世界から独り者の凛との電話のシーンや、宝石剣ゼルレッチに関する台詞にも並行世界は語られている。
 アーサー王の騎士物語は、原型からほぼ完成に至るまで大雑把に見積もって千年程度はある。その虚構の世界の記憶がどこから出てきたのか。それは虚構でない世界が他にある、と筆者は考えてみた。世界と契約する以前のアーサー王はサーヴァントとしての役目を負っておらず、したがって聖杯の力も行使・影響を受けていない。虚構の英霊でも呼び出せるのは佐々木小次郎の件で判明している。擬似的な記憶すら備えたサーヴァントを、聖杯が人の思念を基にして生み出したと考えるのは些か飛躍した想像になる。佐々木小次郎は平行世界のどこにも存在していない英霊だったのではないだろうか。
 そして、もう一つの奇妙な点がある。召還というより現実的な意味合いからすれば、目上の者を呼ぶということでは招来という表現が正しいだろう。その招来には、サーヴァントゆかりの品物が必要であるという。では冬木市のある世界とサーヴァントの原型となった人物たちは同じ世界だったということになる。それはそれで矛盾点が出てくるのだ。単に筆者が作者の理論の矛盾を暴いてしまった可能性もあるが、そこまで作者が考えていたとすると、整合性を持つ新たな認識が必要になってくるだろう。遠坂凛が所有していた赤い宝石のはまったペンダントと、アーチャーが所有していたペンダントは同じものでありながら二つある。一つは霊体で擬似的に作り出されている。もう一つは冬木市の世界にあったものだ。
 二つは別の近似値の世界なのか、それとも同じ世界なのか。さらにいえば、アヴァロンを発見してアーサー王を呼び出す触媒に使われた事例からすると、それだけ強大な代物が現存できる世界が、実は冬木市ということになる。サーヴァントは英霊が生前所有していたりした品を触媒に呼び出されることがあることを付け加えておこう。
 そこまで思考を積み上げると、近似値の平行世界なのは視聴者のいる世界と冬木市なのだろう。
 聖杯の原型のことをアルトリア自身が語っているのシーンがある。それを筆者は理解している。どこまでが世界の事実で、どこまでが虚構なのか、平行世界なのか、明暗がはっきりしない。
 しかし、思考はこれまでの仮定を破砕し、新たな仮説へと導いた。
 太古の昔、伝説にあった世界がある程度存在していたと設定されているのが冬木市のある世界なのだと結論づけた。視聴者との世界観は現代において双方同じだが、その過去はまったく異なるのだろう。これは筆者の結論であって、いま読んでいる方々の結論ではない。
 読者の方々は、この問いにどのような解答を出すのだろうか。

『fateの戦闘シーンや構成について。
肯定的なレビューと否定的なレビューの双方を記載する』
 アクションシーンと戦闘シーンは同じように表現している人がいるが、筆者としてはまったく異なっていると考えている。アクションシーンというのは、モータースポーツのようなものでもアクションと表現することができるし、アニメーションならではの動きがよくできてさえいればいいという評価基準もある。いってみれば、よく耳にするぬるぬると綺麗に格好よく動いているのが良いアクションという評価基準なのではないだろうか。
  アニメというのは当然虚構の部分によって構成されている。しかし、全てを作り物にしてしまうと、薄っぺらくなってしまうのも事実だ。どこを虚構的に、どこを現実的にしていくか。一見するとこの内容を無理矢理区分けしようとすること、そのものが荒唐無稽ではないのかとも思える。
 しかし、散々考えた結果、手抜きであるのか、それとも不必要であるのかの絶対的な基準のようなものを感じるようになった。当然ながら、これは個人の志向なのであって、真に絶対的で揺ぎないものではない。個人の中での決定的な基準である。
 
1.ストーリー上の理論的な矛盾があることにより、ストーリーそのものが成り立つとき、それはお約束として看過されるべきものである。
 ハーレムアニメで、主人公が特定の女性と何らかの関係を持ったとしても、一斉に噂が広まって女子全員から徹底的な非難を浴びたりするようなことがない。男の都合の良いように、そういうところにヒロインたちは無関心であったりする。いじめや自殺にまず発展していかない。(無論わざとそれを踏まえていて、おこなうのが見どころな作品もある)それはハーレムもののアニメの中ではお約束だろう。

2.お約束破りとは何か。
 名探偵コナンで犯行のされ方がナルトの忍術でおこなわれたらアウトだろう。
 ナルトの決戦で灼眼のシャナの自在法・封絶(相手の時間を止めてしまう)を使って簡単に勝ってもアウトなはずだ。
 戦争主題のガンダムあたりで、ラストの決戦をしているとき、モビルスーツが爆発したら主人公が真っ黒焦げで現れて
「頭がパンチパーマになっちまった」
 といったら台無しだ。
 ブリーチの死神たちの戦いを終わらせるのに、デスノートに名前を書きまくって終わらせたら、番組終了だ。
 つまり、過去の築き上げてきた設定そのものを台無しにしてしまう状況だとアウトではないだろうか?

 fateで築き上げたものとは何なのかということを考えてみる。英雄同士の戦いという重要性が挙げられる。ある意味最も重要な部分ともいっていい。聖杯戦争が主題であるからだ。見せ場としての戦闘シーンは無視できないだろうし、それを根拠に見ている人が大多数だろう。重要度が高いほど、荒唐無稽では済まされなくなっていくところがある。列挙したお約束破りを今一度さらりと確認してみてほしい。服装や行動にある程度の歴史的な設定や言動に民族性を取り入れてもよかったのではないか。
 筆者からすると台無しやアウトと同じ領域のことをやってしまっているのである。重要度の高いところ、いや最重要事項だからこそ、綿密に資料をかき集め、よく煮詰めて製作する。もちろん虚構の部分は虚構の部分できちんと確認する。これがストーリー内で看過されるべき、見せ場とはかけ離れているところであるのならば、看過されても特にどうということではない。
 世界観をきちんとすることによって全体像が決まってくる、いわゆるハイ・ファンタジーなどには細部の設定が深みを与えることくらい自明の理だろう。ただ、製作の都合でそこまで設定しきれないといった面もあるが、最重要事項が格闘ゲーム以上の考えで作られていないということになれば、個人的にいって十分非難の的になりえる内容だ。アニメはゲームとは異なるもので、両方さして代わり映えがなければ、ムービーゲームと揶揄されるものや、格闘ゲームとさして変わらなくなってくる。
 動体移動のいい加減さや、構えや戦術面など、眉をひそめるシーンが多かった。騎士は騎士が行う独自の戦い方があるし、槍使いにしても独自の方法があったろう。そのあたりをまったく踏まえていなかった。アニメという分野はそのようなところをきちんとしなくてもいいという不文律があるわけでもなく、きちんと考えて製作されているアニメーションの例を挙げる程度のことは可能だ。伝説の英雄の戦いという壮大なことをやる割りに竜頭蛇尾な展開になっている。手抜きの格闘ゲーム的な小さいスケールのアニメにおさまっていた。
 講釈師、見てきたような嘘をいい、という言葉がある。江戸時代、辻などで講釈師が剣客同士の切り合いなど、武勇伝をネタに小銭を稼いでいたとき、武術を知らないものだから、「弁慶が薙刀を振り回し」という一節を「弁慶がな、ぎなたを振り回し」と誤読したらしい。そういうのを、ぎなた読みという。
 散々設定を作り倒しておいて、いざアニメで見てみると、武術を知らない講釈師が作った、ぎなた読みな戦闘シーンになっていたようで残念だ、いい設定が台無しになっていないか?

 自らの意見を反証する、肯定的なレビュー。
 ケルト神話の物語の話をしていたところ、ベイオウルフとニーベルゲンの歌の内容を記憶違いで間違えて話していたことがあった。途中で気づいて自らの誤りを謝罪したが、ベイオウルフのように理路整然とした模範的な物語より、多少無茶というか、荒唐無稽のほうが面白いという話があった。ニーベルゲンの歌のように、いきなり主人公がやってきて、お客として宴会を開いてもてなしているのに、侵略に来た、今からここは俺の領土だといってみたり、暴走するような凶悪で強靭な美女の噂を聞くといきなり求婚したり、その美女もまた無茶なことを言い出すが、主人公も無茶な性格をしているのでそのままストーリーが進行してしまうといった展開のほうが面白いというのである。
 アレキサンダー大王の史実歴史本とアレキサンダー遠征記という二つのものがある。一つはかなり正確で、大王の身辺から性格などを忠実に記載した書物だったが、仲間うちからは西遊記的・山海経的ともいえる荒唐無稽な遠征記のほうが面白そうだといわれたのである。
 つまり、英雄をそのまま出しても面白みがないということである。アーサー王の写実的なものがしっかりと載っている資料など存在しないが、もしそれがあったとしても、そのままの性格で物語を描いても、はっきりいえば面白くもなんともならないのではないか。脚色すべきところは脚色したほうが面白くなるということだ。萌えがほしいのなら、アーサー王を女の子にしてもいいのである。
 戦闘シーンについても意見があった、当事者意識が無いのだから、そこまでして考えなくてもいいという話である。つまりリアリティの問題だ。これはアニメ全般にもいえることだが、昔のSF関連のアニメは視聴者の知識も、製作側の知識も、それほど科学において先見性を持っていなかった。その分荒唐無稽ながらも、自由な発想によって描かれた斬新なアニメが多く出た。空想科学読本といった本の登場などは、それらの製作物に対してまじめに科学的検証するとどうなるかといった、斜め上から見た楽しみ方をするためのものだと認識している。もし仮に、この空想科学読本並に十人が十人すべてを科学的に理解していたら、自由な発想もなく、したがってヒットしていた幾つものアニメや特撮物の作品も放映されると同時に粗探しのせいですぐ中止に追い込まれてしまっていたかもしれない。
 そのような意味合いで、知識のなさから来る豊かな創造性によって生まれた作品なのだから、そこまで厳しく審査する必要もないという考えはできるのだ。
 何よりこの原作は、俗に言うエロゲーと呼ばれるものである。いってしまうと大半中身などなくても当然、中身の濃さを期待するほうがおかしいといった作品群の中にあって、皆無よりよほどいいといった作りである。そこまでして期待してみたり、粗探しするのは酷というものだ。何より、科学的な知識がなかったからこそ神話が生まれた部分は大きい。
 英雄もまた偶像的な存在である。実像ではなく、飽くまで偶像的な存在ならば、史実的なことや戦い方において言及するまでもないことだといえるのかもしれない。

『アニメとゲーム、どちらがよりfateという作品に適しているか
何故ヒットしたかを検証する』
 よく原作のほうがよかった、原作を超えていたという話を聞く。それはつまり、作品としてアニメ化したほうがより完成度が高くなるか、それとも逆に劣ってしまうのかという話である。
 個人的にいうと、fateという作品はまさにゲームのほうが適正だったと思っている。その理由として、設定がかなり多くあること。それを理解するのに時間がかかることである。アニメのように見流しをしてしまうと、何をしたいのか、どういう意味なのかを理解できなくなってしまう。
 サウンドノベルとしてのゲームの場合、理解できない場合は思考する時間を作ることができる。さらには、個人個人で思考時間が異なる点も、カバーできてしまうのだ。アニメの場合は、何度も静止させ、考察が終わるまで停止した状態である。ゲームでは音楽が鳴り続け、停止しているイメージはない。
 ゲームは音楽や声優さんに文章が助けられている部分もあり、静止画もまた、動画としない点で手抜きにならない上に、文章付なので想像力が働いて違和感をかなり少なくしている部分がある。つまり、小説の文章とすると表現力で足りない部分を補うことができるという利点があるのだ。
 ラノベでいうところの、扉絵や挿絵に表現力のなさを救われているのである。
 感情の盛り上げが音楽と声優さんとストーリーの展開を一つにすることによって、非常に効果的に働く。それがゲームとしてのfateの最大の利点だったと思っている。
 ユーザーの感情の推移と、ゲームの展開の流れが常に一致していくからヒットしたのだろう。
 それがアニメ版では変わってきてしまう。
 他のアニメとイーブンな環境になると、どうしても詰め込み過ぎのため、展開が駆け足になる他、説明もまた尺の関係で限られてくる。アニメ化は不利な点が多い作品だった。読み流しはしずらくとも、見流しは簡単にできてしまうのだ。
 ユーザーの感情の推移と、アニメの展開の流れが一致しなくなるということも起こりえるのだ。
 それでもヒットした理由はいくつか考えられる。まず、英雄というキーワードである。神話や英雄の話を楽しんだ中世ヨーロッパの人々にしても、アーサー王伝説の物語は面白かったろう。いってみれば、想像上の人物たちが眼前に現れるという物語そのものが興味をひいたのだというのが見解である。
 RPGの影響も大きい。ゲームとラノベとアニメが現代学生の三種の神器のようになってきている昨今において、ゲームに登場する武器の由来を調べた人もいたと思う。つまり、その由来を調べるという事柄が、設定好きに繋がっていたのではないかと思えるのだ。最後に、プレーステーション版になると、エロゲーからギャルゲーとなり、色気でユーザーを釣ろうというのではなく、萌えや可愛いで釣る形になった。これはまず売らなければならないという考えが浮き彫りになっていないだろうか。
 話が論及するが、人気を博すようになると、fate-zeroでは萌えでも可愛いでもない方向性が出てきたようだ。それは個人的には良い展開になったと思っている。

 最後に、個人的にアルトリア・ペンドラゴンへ
 アーサー王へ言いたいこと。
 国が滅んだという理屈から、もう一度王の選定をしなおしてほしい。他の人を王に選んでほしい。そういう願いだったが……個人的にいわせてもらうと、それは責任放棄というものではないだろうか。
 やるからには最後までやる。出来がよいとか悪いとか、そういう問題なのか。剣がアルトリアを選んだのだし、抜けなかった人に選択権はなかった。
 騎士たる者が誓いを立てたのだから、最後までやりとおさねばならないのではないかな。
 最高責任者としての責務をまっとうできなかったという悔いがあるにせよ、終わりまでやるのも責任をまっとうすることにつながると思うのだ。
 何より、国は王一人で運営するものではない。国民一人一人がいて、それではじめて国家だ。連帯行動するものなのだから、すべてを王が背負うという考えは過剰な悲壮感ではないか。
 国が滅んだという認識も誤りだ。国とはその土地と国民の双方があって初めて国だ。国民がいなければ、そこは廃墟か遺跡だ。海に沈んでしまった町があるのは知っている。土地がなくなってしまうのならば、国が滅ぶといっても差し支えないだろう。
 しかし、アルトリアが住んでいたブリテン島はどうだ?
 土地もなくなっていない。人も住んでいる。ケルト人は確かにずっと迫害を受けてきた歴史がある。しかしその原因は、ローマを襲撃したガリア人がしたことであってアルトリアが命じたことではない。何よりアルトリアが生まれる前のことなのだ。
 国が滅んだのではなく、王朝が消滅した、政権が打倒されたのだ。しかし、政権が打倒されるのはごく普通にあったことだ。どの国の歴史を見ても延々と続いている王権は存在しない。
 何よりモードレッドに王権を譲ってやる機会があるのなら、敢えてやらせてみてもよかったのではないか。もし駄目なら、やはりアーサー王でなくてはという声が出てくるだろう。できるかできないか、まずはやらせてみることも必要だったのではないだろうか。すべてを独りで背負い込み、後継者育成を考えなかったのは問題ではないか。責任を考えるというのなら、後継者育成を考えるべきであって、やりなおしではなかっただろう。
 19世紀には辛すぎて移民が絶えなかったが、ケルト人迫害の歴史は終わりを告げ、ブリテン島は落ち着きを取り戻している。今では、国民は辛かった時期も乗り越えた。すべては終わったことだ。
 EUが経済危機に直面しつつあることにしてみても、騎士たるアルトリアのなすべきことはもう残っていない。国民は長い苦難を乗り越えたのだ。国民の努力と成果を王として評価してほしい。
 聖杯の力で王が歴史を変えてしまえば、その努力も成果もなくなってしまうのだ。
 なによりブリテン島の人々は、アルトリアを憎からず思っている。それを忘れないように。みなアーサー王のいた島であることを誇りに思っているであろうから。

-終-

 引用文献
 ※1図説ドルイド ミランダ・J. グリーン 東京書籍
 ※2図説ケルト サイモン ジェームズ 東京書籍

投稿 : 2013/01/07
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サンキュー:

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