「あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。(TVアニメ動画)」

総合得点
91.2
感想・評価
14889
棚に入れた
49364
ランキング
39
ネタバレ

トロール夢民 さんの感想・評価

★★☆☆☆ 1.8
物語 : 1.0 作画 : 4.0 声優 : 2.0 音楽 : 1.0 キャラ : 1.0 状態:観終わった

つまらない

最後まで、何一つ面白くない作品だった
それどころか、観ていて不快になる場面ばかりが描かれていた
先ず、何が「アナル」だ
こんなものは大方、作り手が女性キャストに「アナル」という卑猥な言葉を連呼させたかっただけだろう
それで話題になれば儲けもの、といったところか
視聴者も安く見られたものだ
作中で最も正常で魅力的な女性を、こともあろうに糞便をひり出す排泄器官に喩えるとは、なんと邪悪極まりないネーミングだろう
安城"アナル"鳴子のような魅力的な女性を、作中で徹底的に辱める脚本には悪意が感じられる
アナル女史は、街中でゴミのような野郎に襲われ、乱暴に腕を掴まれることで男の暴力に曝される
つまりアナル氏に、強姦未遂の被害者を演じさせているのだ
さらにその後に濡れ衣と汚名を着さられるといったセカンド・レイプまでをも描いている
これではまるで、性暴力被害に遭った安城女史にこそ、問題があったかのような描き方ではないか
こうした狂った倫理観には反吐が出る
しかもそれらの出来事は、貧弱な主人公が活躍する機会を得るための布石に過ぎなかったのだ
更に、主人公の行ったフォローは、却って鳴子女史の名誉を著しく毀損する発言を伴っていた
その上、作中では誰一人として、主人公の発言を咎める者が居ない
二重三重にシナリオを構造化させてまで、魅力的な女性である安城鳴子女史を貶めているのだ
私はこの一連の流れを観ていて、不愉快でたまらなかった
こうした狡猾なシナリオの端々に「高校デビューした元地味なブス女が調子に乗ってんじゃねえよ」という、魅力的な女性への軽蔑と敵意が見て取れる
アナルは悪意の矛先となって物語の犠牲となり、消費されている不遇なキャラクターだ
そんなアナル女史が想いを寄せる主人公は、全く使えないカスだ
勉強も仕事もせず家でゲームばかりしていて、あなたはいつまでハーフ幼女の幻影に欲情し続けるつもりですか?と問い詰めたくなる情けないツラをしている
そんな主人公は、クズである自分を無条件で好いてくれる美しい女性のアナルを冷たくあしらい、決して手の届かない幻影の幼女に心を奪われているどうしようもない男だ
何故、安城鳴子という作中で最も魅力のある女性を、ダメ男に惚れる間抜けな女として描くのだろう
不自然である上に、観ていてとても不快だ
いい女にいつまでも腑抜け同然の主人公を追いかけさせ、どれほど人生における貴重な時間を浪費させれば気が済むのだろう
やはり本作には、魅力ある女性への悪意が込められているように思えてならない
作中において酷い扱われ方をする女性キャラクターは、アナル女史だけではない
聡明な鶴見知利子女史にもアナル氏と同様に、不幸せな女を演じさせている
作中における鶴見女史は一貫して、思い出の中の幼女に恋焦がれるあまり女装癖に走った変態男を相手に、一途な想いを抱き続けているのだ
こんなにもバカげた話は無い
それだけに飽き足らず、鶴見女史には作中で「自分はメンマの代わりでもいい(性器の代用品・オナホ扱いでも構わない)」などと、己を安売りする発言をさせている
どこまで女性の尊厳を踏みにじれば気が済むのだろう
ここまで女性が作中で屈辱的な描かれ方をしているのだ、そういう時こそ世のフェミニストは血走った目で怒り狂いながら作品を糾弾するべきではないのか?
そんなツル子が想いを寄せる相手の男、松雪集も最低な男として描かれている
松雪集は四六時中思い出の中のハーフ幼女に執心している身でありながら、代用品となるセックスの相手を探しているのだ
幼女への届かぬ想いから生じる寂しさを紛らわすため、手近な相手である安城鳴子のアナルに狙いを定め、幾度となく誘惑を繰り返す
松雪集は安城アナルと顔を合わせる度に「俺のセフレにならないか?」と言っているようなものなのだ
これは健全に暮らしている生娘に向かって吐いていいセリフではない
もし私がアナル嬢の身内であったなら、ナンパ師松雪集を徹底的に「指導」することになるだろう
恋焦がれる思い出のハーフ幼女とは決して果たせない淫行を、目の前の肛門を使って達成しようと考えるとは、清々しい程のクズっぷりだ
どこまで人の醜さを描けば気が済むのだろうか
作品内に充満する人の醜さの根源であり、常に登場人物の人間関係の中心に居るのが、主人公と松雪集が恋焦がれる幻影のハーフ幼女、メンマという存在だ
作中の人間関係を狂わす元凶であるメンマという存在が消えることは即ち、事態の収束を意味することになる
つまり、本作の物語は構造的にはマッチポンプそのものだ
メンマが消えるまでの間に各々が気持ちの整理を行い、互いに言えなかった肚の内をぶちまけてスッキリする様子が描かれる
これが本作の全編を通して描かれる物語の概要だ
その物語は、長年に亘る便秘で腸壁に貼り付いていた大量の宿便が、最終話で「ドッ」と勢いよく放出され、登場人物の皆が恒常的なストレスから解放される幕引きへと至るのだ
喩えるなら、本作の物語はメンマという悪霊に取りつかれ呪われた若者が、メンマを除霊して正気を取り戻すまでの過程を描いた話でもある
作中では、登場人物がそれぞれ過去の出来事にフォーカスし、無意識下の問題を特定して抑圧されていた感情を開放することで精神疾患を癒す(悪霊メンマの呪縛から解放される)というフロイト的なアプローチが用いられている
つまり、指向性としては後ろ向きであり、陰気な作品だと言えるだろう
本作の物語に含まれる宗教的性質については、あまりにもデタラメだ
しかしだからこそ、無宗教の日本人にとっては馴染みやすい宗教的特性を持つ作品になっている
作中に登場するメンマの存在は、古代インド神話の延長にあるヒンドゥー教を始めとした輪廻転生を肯定する宗教の教義に依拠している
その上で、作中には「成仏」という仏教用語が頻繁に出て来るのだが、作中で使われる「成仏」が何を意味するのかは曖昧で明確に示されていない
元来、成仏とは人が釈迦の到達した真理(法・ダルマ)に目覚めた状態へ移行することをいう
したがって成仏とは、彷徨える霊魂がどこかへ行って何かになるといったような、怪しいスピリチュアルな意味を含む言葉では無い
しかし儒教の影響を受け葬式仏教と化した日本の仏教界隈は、釈迦の哲学を衆生へ広めることを怠り、先祖供養という文脈の中で魂という概念を扱い集金し、組織を運営する体制を整えてしまっている
そこで今更「魂は存在しない」「魂とは方便に過ぎない」と宣言するわけにもいかなくなってしまっているのが実情だ
ところで、バラモン教を前身とするヒンドゥー教では、どうして魂が輪廻するという思想を教義体系に組み込んだのだろうか
それは単純な話で、インド国内において身分階級制度を永続的に固定化させる上で便利なためだ
ヒンドゥー教の教義では、バラモン(僧侶)の子はバラモン、ロイヤル(王族・貴族)の子はロイヤル、平民の子は平民、奴隷の子は奴隷として生まれて来る(転生する)ことになっている
この実態を「カースト」といい、その起源はヒンドゥー教の教義に由来している
そのカーストを成立させる教義を正当化させる根拠として「輪廻する魂」という前提が必須となる
支配層であるバラモンは教義を用いて、ヒンドゥー教圏に暮らす人々や生まれてきた子に向かって、現世での生活は前世の業による当然の処遇(輪廻とカルマ)だとする理屈を吹き込み、自分が身を置く境遇への疑問や不満を抱かせないように仕向けるのだ
理屈としてはこうだ
お前らが奴隷として生まれてきたのは前世で悪い事をしたからであり、悪い事をした魂は罰を受ける必要がある
したがって、来世ではもっとましな身分に生まれ変われるよう、現世では罰として奴隷の身分を全うしなさい、というわけだ
バカげた理屈だが、人々に本気で信じ込ませれば安定的な社会制度を築くほどに機能する、強力なロジックでもある
そうした社会背景の中で登場したのが、ゴータマ・シッダールタ、即ち、後に仏教の開祖となる釈迦だ
釈迦は社会制度として機能するカーストのろくでもない実態に疑問を持ち、公然と異を唱えバラモン階級が支配する教義体系に真っ向から歯向かったのだ
釈迦はカースト(ルール)を破り貴族階級の身分を捨て、勝手にバラモンへとジョブチェンジして苦行と哲学的思索に耽った
そして遂に、森羅万象を司る真理、即ち「法(ダルマ)」を発見するに至る
この時、人が瞑想に伴う幻覚体験の中で身を以て法を体感している状態(涅槃寂静・悟りの境地)へと至った者が、いわゆる「仏陀」であり、その状態へ至った事実が「成仏」とよばれる現象の本質だ
ブッダとはサンスクリット語で「目覚めた」という意味だ
したがって、本作の中で繰り返し登場する「成仏」という用語は、上記の涅槃寂静を伴う体験を意味する言葉として運用されていないのは明らかだ
釈迦が到達した真理(法)の内容をかいつまんで並べると、無常・空・縁起・絶対性の否定ということになる
仏教の教義では絶対的なものは存在し得ないことになるため、仏教では唯一絶対の神の存在を否定する立場となる
これにより仏教では永遠に不変の存在である神を否定しなければならないことから、仏教の一派である説一切有部ではダルマそのものが過去現在未来に実在しているからこそ諸行無常が成り立つという理屈を展開し、意地でも神の存在を認めない立場を貫いている
もちろん、仏法に準拠するならヒンドゥー教の教義の要といえる「魂(我・アートマン)」の存在は成り立たなくなる
かくして釈迦の打ち立てた哲学体系により、理屈の上ではインド社会を支配するヒンドゥー教の牙城が崩された格好となった
しかし釈迦没後2500年経ったインド社会には、仏教徒は殆ど存在していない)
全ての物事には基本的に意味が無く、全ては移ろい変わりゆくものだとする釈迦の哲学の前には、未来永劫変わらないものは何も無いことになる
無論、魂も例外ではなく、釈迦が発見した法によって魂の永続性は否定されることになる
要するに、釈迦はインド社会に息づく「輪廻転生」という教義を、独自の哲学体系によって完膚なきまでに叩き潰したのだ
つまりは「魂なんてあるわけねえじゃん」というのが、本来の仏教徒が取るべきスタンスだ
そこで本作はどうなのかというと、メンマはいわゆる「魂」的な存在ということになり、輪廻転生を肯定する立場から物語が紡がれていることになる
作中では主人公の母親の口から「生まれ変わり」というセリフが吐き出され、更には仏壇に供え物をして魂を弔っている様子も伺える
それは日本では何一つ珍しい光景ではなく、広く慣習的に行われてきた民間信仰の在り方の一つだ
厳密に言えば、それらは方便にすぎず建前上儀礼的慣行に終始するのが仏教徒の正しい在り方になる
しかし本作では一般的な日本人の信仰レベルに合わせ、魂というものが、とりあえず実在しているってことでいいんじゃないの?といった程度の緩さで描かれている
作中のメンマに関わる事象を唯物論的に解釈するなら、最終話で皆がメンマを見たのは集団幻覚を伴った知覚エラーということになる)
本作では方便として魂を扱っていないことは明らかだ
したがって、本作の宗教的性質は、仏教よりも、カーストを肯定するヒンズー教の方に親和性がある
しかし本作の持つ宗教的性質はこれだけに止まらず、より複雑だ
最終話の手前でメンマが成仏しなかった理由について「(自分の邪な心を)神様に見抜かれていたからだ」とアナルが発言している
ここに来ていきなり神様というワードが出てきてしまった
基本的には輪廻転生の教義には因果応報の原則が伴うものだ
ところが、終盤になって突然、魂の処遇についての決定権を持つ上位者として「神」の存在が持ち込まれたのだ
これはもう、思い付きでシナリオを書いていると考えても良さそうだ
ここでアナル女史の言っている神様が、いかなる性質を備える神なのかは作中では明らかにされていない
大して深く考えずに台詞とシナリオを考えたのだろう)
日本人にとって馴染み深い多神教の神々或いは汎神論で語られる神々と、唯一絶対の創造主たる神では性質が全く異なっている
間違いなく、本作で語られているのは前者の神だろう
そうでなければ、アナルの口から先ほどのセリフは出てこない
アナルは、メンマが成仏しないのは「神様に見抜かれていたからだ」と言った
この発言は裏を返せば「私に邪な心が無ければ神はメンマを成仏させていた」「神に心を見抜かれなければメンマは成仏していた」ということでもある
つまりその発言内容は、人間側の態度次第では神が決断内容を変更する場合があり、神を欺ければ人間側の要求が通ってしまうことを前提としている
これは、唯一絶対の神の性質を全く理解していないからこそ出て来る考えだ
人間の都合でどうにかなるかもしれない脅威レベルの神しか存在し得ないというのなら、ニーチェのような思想家は出現しない
そもそも、本作の登場人物たちは、神社に集まり成仏について議論している
まさしく何でもアリの、あまりにも日本人らしいフリースタイルのライト(軽薄)な信仰だ
これはこれで、等身大のリアルな日本人の姿だと言えなくもなさそうだ
本作の宗教的性質についての設定は非常に雑で、デタラメだ
作中における生まれ変わりも成仏も、厳密に突き詰めて考え抜かれた設定ではない
何となくニュアンスで、ぼんやりと雰囲気で事象を扱っているに過ぎない
だからこそ本作は、無宗教かつライトな信仰を持っている日本人にとって、なじみやすい(抵抗が生じにくい)作品たりうるのだろう
しかし、些細な部分にケチをつけたがる不潔な不細工ハゲの私に言わせれば、本作は全く面白みのないチープな作品だ
本作とは、相性が悪すぎたのだ

投稿 : 2025/03/01
閲覧 : 14
サンキュー:

2

あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。のレビュー・感想/評価は、ユーザーの主観的なご意見・ご感想です。 あくまでも一つの参考としてご活用ください。 詳しくはこちら
あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。のレビュー・感想/評価に関する疑問点、ご質問などがございましたら こちらのフォーム よりお問い合わせください。

トロール夢民が他の作品に書いているレビューも読んでみよう

ページの先頭へ