ぽ~か~ふぇいす さんの感想・評価
3.0
物語 : 3.0
作画 : 3.0
声優 : 3.0
音楽 : 3.0
キャラ : 3.0
状態:観終わった
7話まで見て(+4話補足資料)
視聴中のため☆は未評価です
第5回角川学園小説大賞ヤングミステリー&ホラー部門奨励賞受賞
米澤穂信の「氷菓」から始まる「古典部シリーズ」を4巻分+α
という構成でアニメ化されるようです
「氷菓」はずいぶん前に読んでいたのですが
それ程面白いと思わなかったので
続刊に手を伸ばすことはありませんでした
数か月前にアニメ化が決定したことを受けてか
近所の本屋に特設コーナーが設けられており
それほど期待せずに何気なく手に取った「愚者のエンドロール」
これが予想以上に面白かった!
「氷菓」も読み返してみようかと本棚を探してみたものの
どうやら既に処分済みだったようで
結局それも買いなおして再読し
そのまま「遠回りする雛」まで読了しました
短編集の「遠回りする雛」は置いといて
「愚者のエンドロール」と「クドリャフカの順番」は確かに良質の作品だと思います
しかし小説として面白いことと
アニメが面白いか否かはまったく別の問題
特に導入となる最初の閉じ込め事件なんかあまりにも地味すぎて
そのままアニメ化しても訴求力に乏しいことは明白なので
そのあたりをどう料理するのかに注目しつつ視聴した第一話
事件を時系列順に並べなおして
「氷菓」の導入部と短編集から「やるべきことなら手短に」
二つの話を合わせて1話分にまとめたのは正解だったと思います
えるとの邂逅だけで一話使ってしまうよりもテンポが有って良かったと思いますし
アニメ第一話の重要な仕事である登場人物の紹介という意味でも
2つの事件を並べることで多角的な視点から掘り下げた人物紹介ができていると思います
ただし、その人物像に関しては小説から受ける印象と
アニメから受ける印象とでかなり差があるように思いました
このあたりが今後どう影響してくるのか少し心配でもありますね
どうやら今後も時系列順に進んでいくようで
「氷菓」を5話までやって6話7話は短編集から
というスケジューリングらしいです
そうなると、映像化が最も効果的であろう「愚者のエンドロール」は
その直後の8話から始まるという事になりそうですね
読み返した今でも「氷菓」についての評価は変わりませんでしたから
1話が退屈だった人はおそらく7話までずっと退屈かもしれません
しかし1話の演出を鑑みれば退屈に感じがちな地味な話がベースであっても
演出の力で魅了してくれるような気もするので
ちょっとだけ期待しておくことにします
(4話を見て追記)
映像化が一番厳しいと予想していた第四話
原作には千反田家の描写はほとんどなく
議論の途中で場所を変えたり軽食を食べたりもせずただ議論するだけ
ただし議論の部分が十分に面白いので小説としては悪くないんですが
アニメにしたら本当に動きのない冗長な解説回になるものと思っていました
しかし予想に反して非常に魅力的な映像に仕上がっていましたね
ただしその代償として事件そのものに関する描写は
既読者でもついていくのがやっとなレベル
資料が画面に出ている時間が少なく急ピッチで話が進むので
古典部のみんなと一緒に事件について考える
というのはほぼ不可能なスピードです
来週が「氷菓」の完結編なのを考えると
それぞれが持ち寄った資料の中身は
じっくり読んで理解しておいた方がいいかもしれません
結構なボリュームなので見たい方だけどうぞ{netabare}
氷菓第二号序文
序
今年もまた文化祭がやってきた。
関谷先輩が去ってからもう、一年になる。
この一年で先輩は英雄から伝説になった。文化祭は今年も五日間盛大に行われる。
しかし、伝説に沸く後者の片隅で、私は思うのだ。例えば十年後、誰があの静かな闘士、優しい英雄のことを覚えているだろうか。最後の日、先輩が命名していったこの『氷菓』はのこっているのだろうか。
争いも犠牲も、先輩のあの微笑さえも、すべては時の彼方に流されていく。
いや、いっそそのほうがいい。覚えていてはならない。なぜならあれは、英雄譚などでは決してなかったのだから。
すべては主観性を失って、歴史的遠近法のかなたで古典になっていく。
いつの日か、現在の私たちも、未来のだれかの古典なるのだろう。
一九六八年 十月一三日
郡山 養子
団結と祝砲一号
つまり我々は常に大衆的であり、またそれゆえに反官僚主義的な自主性を維持しつづけるのである。決して反動勢力の横暴ごときに屈指はしない。
昨年の六月斗争を例に引いても、古典部長関谷純君の英雄的な指導に支えられた我々の果敢なる実行主義によって、参を乱し色を失った権力主義者どもの無様な姿は記憶に新しいところであろう。
神高月報
▼停学二名厳重注意五名を出した先週の特別棟での擾乱は、誇りある神山高校文化部の品位を著しく損なうものだ。▼もちろん、盗人にも三分の理、さんざん批判を受けている映研もその主張に筋が通っていないわけではない。写真部が百パーセント正しいなどとは、もとより小欄も考えていない。▼問題は、その解決にこぶしを用いたことである。話し合いへの努力もろくにせず、思い込みと偏見だけで安易に暴力に訴えるとはみっともなく情けない。▼特に、仲裁に入った幸村由紀子さん(新聞部一年D組)にまで殴り掛かった映研の三年生諸君には猛省を促したい。幸村さんは、現在でも病院に通う日々を送っている。▼伝説的なおととしの運動では、決して暴力は振るわれなかった。全額があれほど怒りに燃え立っても、我々は団結を崩すことなく、最後まで非暴力不服従を貫いたのだ。▼これは我々が誇るべきことであるし、その精神は伝統として受け継がれていくべきだろう。
神山高校五十年の歩み
昭和四十二年度(一九六七)
この年の日本と世界
国民総生産(GNP)が45兆円を超え、資本主義国の第三位となった。四三年には西ドイツを超えて二位となった。
八月、松本深志高校の生徒が西穂高岳で登山中落雷に遭い、十一人が死亡した。
この年、早大闘争の大規模ストを機に学生運動は先鋭化の度を深めていく。
この年の神山高校
○四月、英田助校長は「寒村の寺子屋に甘んじてはいけない。優秀な人材の育成こそが教育の本文である。高等教育を受ける素養を育成するのが今後の中等教育の課題となる。」と教育方針の転換をほのめかした。
○六月三十日、放課後に「文化祭を考える会」。
○七月、アメリカ視察(万人橋陽教諭)。
□十月十三~十七日、文化祭。
□十月三十日、体育祭。
□十一月十五~十八日、二年生修学旅行。高松・宮島・秋吉台を巡るコースで実施。
○十二月二日、交通事故の続発に対し全校集会で一層の注意が喚起される。
○一月十二日、雪の重みで体育倉庫が一部破損。
□一月二十三・二十四日、一年生スキー研修。
{/netabare}
(6話を見て追記)
この作品はもともと2000年が舞台になっているものを
2012年に変更したうえでアニメ化されています
おかげで今回は完全に整合性が取れなくなってしまいました
{netabare}悪名高いゆとり教育の見直しのため
今年の新高1から新課程が始まりました
これは裁量次第でゆとり以前と同等の範囲まで扱えるもので
当然教科書も改訂されています
つまり、今年の教科書が四訂版という事はあり得ません
完全に設定ミスです
そして、まがりなりにも地域ナンバーワンの進学校の生徒ですし
受験における自分たちの学年の特殊性は
耳にタコができるほど聞いてきているはずですから
新課程第一期である奉太郎が
去年の教科書と間違えた可能性を推理することも不自然でしょう{/netabare}
年号を弄ったおかげでロジックに綻びができてしまっています
逆に今のところ2012年を舞台に再設定したメリットが見えません
無理に変更しないでで良かったんじゃないでしょうかね?
(7話を見て追記)
ラストに大きな改変が入っていましたね
{netabare}原作にないのは最後の姉妹のシーンと
「枯れ尾花ばかりでもないかもな」という奉太郎のセリフ
原作では代わりにえるのセリフが入ります
「でも、きっと、わかっていたんだと思います。首吊りの影は幽霊なんかじゃありません。そして、世のきょうだいがみんな、心から楽しみあえるかといえば・・・」
そこで会話が続かなくなって終わります
原作とアニメ版でまるで正反対のラストです
子供心に夢見た理想、妄想の類と現実とを摺りあわせて
少しずつ折り合いをつけていくことが
大人になっていくという事なんだと思います
夢見がちな少女千反田えるのほろ苦い成長の記録
芸術作品としてみた場合原作のラストも味があって悪くないと思うのですが
エンタメ路線の作品としてはアニメ版が秀逸でしょう
原作はラノベなのか一般文芸なのかどうもはっきりしないところがあるので
その辺がどちらのファン層からも支持されにくい原因になっていたと思います{/netabare}
次週より愚者のエンドロールであることも踏まえて考えれば
きっちり路線を示した今回の改変は好材料だと言えましょう