薄雪草 さんの感想・評価
5.0
物語 : 5.0
作画 : 5.0
声優 : 5.0
音楽 : 5.0
キャラ : 5.0
状態:観終わった
今もなお、胸うたれる、心揺さぶられる。
アニメファンなら "外せない作品" の一つです。
レヴューサイトにも「名作、金字塔、心躍る冒険譚、ボーイミーツガールの決定版」など、多くの褒め言葉がずらりと並びます。
語り尽くされたビッグネームですから、今さらレヴューするのはいささか腰が引けますが、ラピュタの呪文、「我を助けよ、光よよみがえれ」を頼りにポチリとした次第です。
ただ、思い出補正と思い込みとがバシバシ入っていますので、そこは「仕方ないなぁ」と見逃してくださいね。
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飛行石。
これほどに魅せられるアイテムは、そうは見当たりません。
もし、このペンダントが手元にあったらと思うと、それはもう天にも昇る気分。
地に足がつかなくなるとは、きっとこのことを言うのでしょうね。
とは言え、どうして飛行石に、これほどの昂揚感を感じるのか意味不明です。
シンプルに、空への憧れを掻き立てられるから?
あるいは、驚くようなテクノロジーに、熱気が沸き立つからなのか・・。
はたまた、 "心のなかの君" との出会いを、まぶたに浮かべるからなのかも・・。
天空へと消えていった飛行石は、今では形を変えて胸の奥で静かに灯っています。
その煌めく光に、この瞬間にも冒険に乗り出す燃料を見つけ、過去と未来とに手を掛けてみたいと願ってしまうからかも知れませんね。
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トエル(真=直系)とパロ(控え=傍系)との、玉座をめぐる緊張や変遷にも心がときめきます。
二つの系譜には、王位の継承に暗闘があったことは容易に想像がつきます。
石はそれをじっと見守り、まことの王たる資質をずっと待ち続けてきたのかも知れません。
ところで、地上に降りたトエルの末裔は、天地の平和を保つための一厘(=飛行石)を暖炉に伝え、滅びに得た教訓を未来への戒めとしています。
一たびラピュタが目覚めるなら、幼いシータにも難しい手続きは無用とばかりに、口にする呪文はたった3文字という潔さです。
それは、きっと理屈でものを考える前に、伝えるべきお作法なのかもしれません。
そして、結婚式という新たな契りに、700年前の証を誓うのでしょう。
翻って、パロの血脈は、軍事国家再興の手引きを古文書に残してきたようです。
万に一つの可能性に、必ず石を奪取し、あの呪文をトエルの口に割らせ、大願の成就を窺うのです。
それは、鬱屈の上に理屈を塗り込め、天空の王という妄想に取りつかれた憐憫の証。
トエルとの確執を、都合よく上書きしたいと希求しているのですね。
二つの家系は、出会ってはならない定めに身を潜ませながら、いつかは出会わねばならない宿命に対峙する時を、静かに生き抜いてきたのでしょう。
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さて、本作の主人公、シータとパズーの出会いです。
ビジュアル的には非の打ちどころのないパーフェクトな仕上がり。
まるで、ボーイミーツガールの何たるかを、全て物語っていると言って過言ではありません。
正当な王位継承権を持つ末裔と、たたき上げの炭鉱労働者という設定は、特別なものとそうでないものとの邂逅です。
本来なら出会わぬものが出会うというシチュエーションは、いつも胸が高鳴り、心を震わせます。
今、わが国でも、皇統の継承においては、さまざまな話題にかまびすしく、トエルとパロとに通底するモチーフもまた、同じように感じます。
そう思えば、ラピュタの物語は、実は日本の有り様の写し鏡のように思います。
天を畏れる者は、高い見地から国の安寧を願い、平和の成就を日々に祈り、国民の精神性を一つに統べるのです。
玉座は、鄙俗(ひぞく)が手にできるものではなく、地球の高次意識にかしづける者にだけ、その指揮権を提供するのでしょう。
パズーとシータの本当の出会い。
その時は、私がドーラの立場であったら・・、なんて妄想しています。
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「40秒で支度しな。」、「3分間待ってやる。」
ドーラとムスカの対比が、実にお見事です。
同じワルに見えても、わずかな時間差に、勝負はのっけから決していました。
世俗的には、飛行石は世界の覇権と富とを約束するものです。
二人の欲は同じように見えますが、手に入れる手段が違うし、入手後の目的だって違います。
それなら、何はなくとも即断即決がものを言うってことです。
二人とも、横暴にして狡猾な振る舞いですが、シータには大きな違いに映りました。
ドーラは「私の若い頃にそっくりさ」と、シータにすっかり惚れ込んでいます。
健気さには母性を、気丈夫な振る舞いには賞賛が抑えきれないのですね。
シータに至っては、ドーラは鼻から海賊にあらず、どこまでも「優しいおばさま」のていです。
一方、「流行りの服はお好きですか」と、あからさまな煽(おだて)で、シータの歓心を買おうとするムスカ。
見え透いた手口で丸め込もうとし、人をゴミと揶揄するような大人に、聡明な彼女が屈服するはずがありません。
クライマックスに至っては、「あなたは私とここで死ぬの」と、自己犠牲をものともしない気高さです。
ゴンドアの古い歌こそ、ラピュタへの総括。
そう思うと、冒頭のシーンから、シータの心はすでに決まっていたのかも知れません。
生かす40秒と、殺すための3分。
ドーラとムスカの思考回路がしっかりと明示されたパワーワードです。
二人の知略と知謀のベクトルの違いこそが、シータとパズーの決意を促し、大人の夢を終わらせたのです。
目利きのある者にはおこぼれを、至らぬ者にはチャンスの目がつぶれる。
そんなオチにも徹した、比類なき二枚看板でした。
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さて、もう一度、シータとパズーの出会いです。
ゆっくり、ゆっくりと、天上から光が降ってくる。
それはやがて人の形になり、いたいけな少女の表情を映しだす。
とんでもない奇跡に、とてつもない幕あけの予感・・。
石は二人を偶然に出会わせ、壁の写真は二人に必然を思わせるのです。
ポムじいさんが語る石の秘密に、シータの首で輝きを放つペンダント。
つながるはずのないおとぎ話が、事実としてつながった瞬間です。
「人を幸せにもするし、不幸にもする」という意味を探しに、二人は真実の旅へと飛び立ちます。
舞台は、大地の深層から、いつしか天空の雲の向こうへ。
押し寄せる風と、雷鳴轟く竜の巣の核心へと踏み出すのです。
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ラピュタでのシータとムスカの丁々発止も見ごたえもたっぷり。
シータには、石の存在が、トエルの系譜の相伝は理解できても、ラピュタでの扱いは知る由もありません。
ならば、ラピュタの文字を解読するパロの領主には、悠長なことは言ってられません。
末裔同士のヒリヒリするせめぎあいからは少しも目が離せませんね。
二人のポジションは、言うなら、大人と子どもの視点の差、戦争と平和への温度差、独裁と民主制への見立ての違いです。
廃墟の中での応酬は、今のお子さんにも分かりやすいでしょうし、すでに大人の人にも当時の子ども心を顧みさせるものです。
飛行石へのあこがれは、思いもよらない夢の実現そのものです。
その煌めきと輝きは、常に心のともし火となり、ものごとの優先性と、責任ある執行権を促しているのですね。
今、世界終末時計は、残り90秒を指したままでいます。
ムスカの3分よりもドーラの40秒。
と言わず、この先の判断が、人類の存続を前進もさせ、日々の安寧を後退もさせるでしょう。
目を見張る科学技術も、激変する自然との共生も、旧態依然の発想のままではいられない局面が、いよいよ来てしまっているというわけですね。
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「さあ、出かけよう。歴史に思いを馳せ、未来への一歩を踏み出そう」。
飛行石は、どこかの、誰かの声にも、しずかに耳を傾けています。
誰とも言えない心に、ともし火が点火するのを、じっと目を凝らしています。
ムスカの人心は飛行石に取り込まれ、ポムじいさんはそれを思案することを小鬼に託しました。
シータとパズーの目は、私たちのそれと同じです。
平和を愛する心、人が等しくある意味、そして日々に汗を流し、おなか一杯に食べる喜びへの探究です。
本作は、それがたやすくないことを黙示しており、ゆえに視聴者を鼓舞する意図が、裏の設定にあるように思います。
飛行石。それは気高い理想への羅針盤です。
そこに昇華させるためのキーワードが、ネット世界でまきおこる「バルス!」なのではないだろうかと感じます。
思考はいつか現実化する。
そんなタイトル本があったような記憶です。
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1986年の公開作品ですので、今年で38年目を迎えます。
テレビでの再放送は19回に及び(2024年度)、ナウシカ(20回)、トトロ(19回)を含めると、2年ごとに3作品が揃い踏みすることになります。
小さいお子さんから、上の世代は上限なしに、宮崎監督の想いに触れられるのが最大のメリットでしょう。
ネット環境の整備と拡充、端末機器の高機能化に伴い、配信サービスもどんどん充実しています。
世界各地で開業される漫画喫茶や、定期的に開催されるコスプレ大会なども相まって、ほぼ全世代にじんわりと宮崎イズムが浸透しているように思います。
もちろん、ジブリ関連の作品はこれらだけではありません。
あの名言、その名シーンにお目にかかれる金曜日は、とてもハッピー気分になれます。
期待としては「バルス!」が共通言語化され、ムスカと同類の目を瞑らせ、覇権競争の芽をつむパワーワードになったら素敵です。
ラピュタが明示するものは、高度な科学技術の発展とその振興が、軍備の縮小と戦争の放棄、基本的人権の尊重、国民主権とその発露たる民主主義という、日本国憲法の三大原則が、きらめきを輝かせながら全地上に降りてくるというビジョンです。
シータはその象徴像であり、パズーはその実行性を牽引しています。
そして、そんな夢想を夢想のままで終わらせないのが、本作のシナリオの秀逸なところです。
「時間がなくてさ。」、「たったこれっぽっちさ。」と、ラピュタの伝説を "いくらかは残した" のですから。
ですけれど、私たちの未来にも「時間がなくなってきている」、「人類がこれっぽっちになる」ところまで追い込まれているんだよ、と暗示する怖さでもあるのです。
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EDは、何度口ずさんだかわかりません。
その都度、感極まって泣き出す自分もどうかと思いますが、すっかり心に染み込んでいるので、半ば呆れ、ほとんど諦めています。
「きみを乗せて」の「きみ」とは、パズーからシータに向けてに感じますが、誰でもないし、誰でもあるようにも感じます。
普遍的に言えば、地球上の誰でもが「きみ」に該当するし「きみ」への歌い手に相当する感覚です。
宇宙空間から俯瞰する地球には、無数のともし火と、名もなき人たちの営みが感じられます。
もしもジュブナイルの心でEDを歌うなら、栄華を極め、衰退していったラピュタ人に、私たちの当事者性を投影できるかもしれません。
「土に根を下ろし、風と共に生きよう。種と共に冬を越え、鳥と共に春を歌おう。」
それは、生産を喜び、娯楽に楽しむ、そんな協働と調和とが、人と人の間には必要だと説いているようです。
私は、パズーの小さなカバンは、人類が到達した文明の一端だと見立てています。
ですが、それさえも投げ捨てて、彼はシータのもとに走ります。
その一生懸命さに心が動くなら、EDに呼びかける「きみ」には、どんな人にもそれぞれの夢がこんもりと盛られるんじゃないかしら?なんて思っています。
その評価にたがわぬクオリティー。
私の思いも同じです。
にしてもこの長文、たいそう申し訳なく、ごめんなさいです(汗)。