イシカワ(辻斬り) さんの感想・評価
3.5
物語 : 3.0
作画 : 4.0
声優 : 3.5
音楽 : 3.5
キャラ : 3.5
状態:観終わった
神様は偉ぶらないし、住民もへりくだらない、仲良きことは美しきかな
記載されているレビューに対する反論・論戦を行いたい人は、メッセージ欄やメールで送りつけるのではなく、正しいと思う主張を自らのレビューに記載する形で行ってもらいたい。
なおこれらのレビューは個人的推論に則ったものである。
言い切っているような表現も、独自の解釈の一環であり、一方的な決め付け・断定をしているのではないものだと思ってもらいたい。
日本には、独自にやおよろず(八百万)の神様という表現がある。類似した考えで、旗本八万騎も同じような意味があるのだろう。結局語呂合わせに過ぎないとは思うが。
そもそも日本の神様は、生物だろうが無機物だろうが、とにかくすべてのものの中に霊魂や、霊が宿っているという考え方があるらしい。よその国のある人の意見を知ったのだが、その人によると、何でも神様の国なのだそうな。森羅万象に宿る神、アニミズムとかなんとかいうらしく、「汎霊説」、「精霊信仰」などと訳されているそうである。
日本の神様の基本は、宿るという面もあるが憑依という面もある。
『憑霊信仰論』小松 和彦著。講談社学術文庫とかいう本が自宅にあったので調べてみたが、憑き物とは動物霊や生霊などが主体だそうだ。障り(さわり)や呪詛(じゅそ)などといった、オカルト用語が並んでいる。民俗学者風の表現が多い。
要点を引用すると……
『本人の意図とは無関係に発動し、災厄をもたらす神秘的な力とか霊についての信仰』
しかし、ユルキャラ神様アニメにそんなブラックなところなど微塵も無い、というのが個人的意見である。
ゲーム機らしきものや浮き輪などを擬人化・ユルキャラとして表現、アニメ内ではそれを神様として扱っている。なんでも神様というとおり、新製品として規格が出されたら、そのカテゴリとしての神様が誕生していくのだ。
そういう面を捉えて、極度にディフォルメ化、ユルキャラ化している神様や可愛らしい精霊たちに混じって、女子中学生まで神様になってしまうというのが、かみちゅ!というアニメの概略だと認識している。
なにしろ、第一声で「私、神様になっちゃった」というのだ。それはなんぞなもし?
よくよく見ていると、少しずつわかってきた。神様の服装である神服を着ている、主人公ゆりえの胸の辺りに『神中』と書かれているときがあった。そしてゆりえの、神様としての力を発揮するとき、誰に教わったわけでもないのに、かみちゅ!と叫んでいる。
アニメの題名となっているかみちゅ!は神中なのだろう。神様で中学生!という意味らしい。この世に人間の姿で現れた神、つまり現人神(あらひとがみ)である。それともう一つ、神通力を使用するときの、かみちゅーというオノマトペ(擬音というか叫び声に近い)あたりに注目してみたい。
初めの頃は精神的にもやもやが溜まっているところで神通力を使ってしまったために、本人の意図とは無関係に災厄というか、悪い影響を及ぼしてしまう。触らぬ神に祟りなし、という言葉のように、神とは基本的に祟るものであるし、災厄を呼ぶ自然現象を神とみなしていたところがある。そういう意味では、本来ある概念に沿った神様的行いをしたわけだが、初回以降はうまく神通力をコントロールできるようになったようだ。
新しい規格の新製品が出るたび、古い神様たちは忘れ去られていくという話があった。何にでも神性が宿る、新製品が生まれたら神様が一柱生まれる。なら、ゆりえという規格の新製品に神性が宿ったとしても不思議でない。これが、かみちゅ!を説明せよ、なぜゆりえは神様になったのか、自分なりに考えて答えを言えといわれたときの個人的な解答としたい。
次に、かみちゅ!と叫ぶ理由、これも考えてみるとそれらしいキーワードが出てくる、言霊だ。自宅にあった『言霊』鳥居 礼著。たま出版という本があったので調べてみた。日本の言霊は大和言葉(やまとことば)である、というようなことが出てきた。大和言葉とはなんぞということで調べると、漢語や外来語に対する日本の固有語を指すものだそうだ。本の中に記載されている論によると、発音として同じ韻を踏むもの、例えば、血、乳、父、霊などの異なったものでも本質的なところで繋がっているという。大和言葉に含まれるものにオノマトペ(擬音)もあるようだ。羊をメーメーとか、車をブーブーというのと一緒だという。 神中という表現をオノマトペ風にいうと、かみちゅ!になるのではないだろうか。作中、ゆりえの髪の毛が異様に伸びるシーンがあるのだが、それはどうも神と髪の韻が同じである辺りに意味があるのではないかな、と個人的に連想したりした。この本の作者も神道の関係者で、索引の記述ももっぱら神道や古代史にまつわるものばかりだ。
こうして、ゆりえは神様として第一歩を踏み出すことになったのだが、賽銭目当てでやってくる貧乏神社の同級生・三枝 祀(さえぐさ まつり)にけしかけられて、好きな男の子にですら気づいてもらえず情けない気持ちのまま、神様の恋愛相談をする羽目になったり、行方不明の神社の神様を探したりと、ゆるい感じのコメディタッチでアニメは描かれていく。
神様の友人(便宜上人と表現しておく)の八島様から、神無月には神様連中が出雲大社に参内しに行くことを知らされるゆりえは、通学する校舎まで変更して研修に出かけることになる。人間の神様の類が、作中はゆりえのみとなっていることを不思議に思う人もいるようだ。日本で人が原本になった神というのはほとんどが怨霊神である。やはり神とは祟りを為すものというのが古い日本の神様像なのである。
今では学問の神様として有名どころとなった天神さまの藤原道真。そして天皇を守護することで知られる平将門など、揃って祟神(たたりがみ)である。
日本の神様の定義とは触らぬ神に祟りなしという、災いを呼ぶものという認識になっていたことがわかってくる。平安の世あたりは、頼みごとを聞いてくれるという概念より、災いを起こさないでほしいと願い奉ることに主眼が置かれていた。何かしろではなく何かするなと祈るのだ。
神道の神服を着込んだゆりえが、いつもよりあっさりと力をうまく使えたことの理由は、神との交霊、触媒の器の神事に用いる服なので、神様の力を引き出しやすいということなのだろう。
さて、祟りなどとは無縁なゆりえ嬢は神様として、神通力の高め方なんてものを教わりながら、実際に神様としての仕事をこなしていくことになる。
願いが何でもかんでも叶ったら人は何もしなくなるというようなことを聞いていて、疑問を感じた人は他にもいるらしい。しかし、それは思考のあり方に違いがあって、別の疑問であったようだ。
理由は、ゆりえの力は大きいという表現があったからである。つまり神様によっては力がとても小さくてほとんど願い事など叶えられない。実際は叶えられるだけのパワーのある神様が、叶えられる範囲で、しかもゆりえのように悩みながら、人間臭くああでもないこうでもないといいつつ、やっているのだと考えるのが妥当ではないだろうか。
願いの叶え方の考えが、ちょっとキリスト教やイスラム教などの唯一神的になっているのは、不可思議なのである。自動的に神は願いを叶える力があることを前提に話をしていたからだ。
神様が力を使うと疲れてしまう、ならその時点で、休息しなくてはやっていられないし、休んでいる間は他の願いは聞き届けられない。何時までに何とかしてほしいなどといった内容もあるだろうし、相手次第で時間切れということは十分ありえる。願いしか叶えないで生活しているというより、たまたまその気になったらやってみる程度の生活感覚だ。作中の神様たちはのんびり過ごしていた。何より、うまくいくかどうかも不透明という感じを受けた。あの世界観でも、何でも叶えられる可能性はまずないだろう。
八島様あたりに文句でもいったら素直に平謝りでもされてしまいそうだ。
有名どころの神様はどんなものだったのかというと……
古事記に出てくる神様というのは、理不尽というか、とんでもないことをしでかすので、リアルにいたら困りそうである。とりあえず一柱(神様の数え方)の素戔嗚尊のやったことをみるとわかる。
天照は高天原を、月読は夜食国(よるおすくに)を、素戔嗚尊は海原を治めることになった。しかし素戔嗚尊は亡き母のいる堅洲国に行きたいと泣き、結局、海を治めない。
日の神である姉と対決した時も滅茶苦茶なことをした。誓約(うけひ)という、呪法を行ったところ、素戔嗚尊が勝った。勝ち誇った素戔嗚尊は天照の田の溝を埋め、祭殿に糞をし、機織り場の屋根から馬の死骸を投げ込んだりしている。天照は怒ったのか嫌になったのか、天岩戸に隠れてしまった。
神様ともあろうものが、祭殿に糞をするという……嫌がらせをするにしても、もう少し品性を考えてほしい。つまり、日本の神様というは、ギリシア神話的な神様よりたちが悪いところがあって、暴走する。
なら、祈願する側はどうなのかというと……
武田信玄などは、神社に必勝祈願をしていたりするのだが、勝てなかったら神社に火を放つぞ!のような脅しをしているところがある。
『憑霊信仰論』のほうにもやはり、へりくだって駄目なら脅すくらいのことは書かれている。つまり、近頃の信仰のように、右へ倣え、良いとか悪いとかは聖書や御書が教えてくれる。善悪の判断も神様がしてくれるというような、神様仏様に従うという考えなどないというのが筆者の見立てである。
西洋にも同じような考えはあるらしい。コナン(名探偵のほうではないコナン・ザ・グレート)は、うまくいかなかったら、二度とお前に祈ってやらないからそう思え、ということを口にしていた。
ある意味、神様と人の間の遠慮がないというか身近なのである。それをもっと優しく温かくすると、かみちゅになってくるのだろう。
英語の授業で、それは神のみぞ知る、というのを出題するからやってみろ、神、と先生からいわれたりするようなシーンはあるし、出雲にでかけたゆりえに、優しく出迎えてくれた他校の生徒たち。地元の神社(八島様の神社なのに)でも、ゆりえは住民の間で親しまれ、お祭りの神輿に据えられていた。
神様は偉ぶらないし、住民もへりくだらない、仲良きことは美しきかな、な世界なのだ。