薄雪草 さんの感想・評価
4.1
物語 : 4.0
作画 : 4.0
声優 : 4.0
音楽 : 4.5
キャラ : 4.0
状態:観終わった
背中越しから背中を預けあえる関係へ(義理の代価と時価のお話)
1話~6話まで。
{netabare}
血もつながらず、縁もゆかりもなかった悠太と沙季。
そんな義妹との生活、あるいは義妹としての暮らし。
どちらからのアプローチが最適解なのか、思案しつつの鑑賞です。
成り行きの感情と、機微の通わせ方を描く作品のようです。
二人の擦り合わせはまだまだ続くようだし、答え合わせも急がないみたいなので、私もこのままお付き合いしていこうと思います。
~
同い年なことと、両親の不仲と離婚が、悠太と沙季の共通項。
二人して愛想のなさですが、深いところでは、同じ時間軸、同じ境遇に育った感覚を持ちあっているようにも感じます。
そんな遠因は、やがては義兄妹のシンパシーを共鳴させ、いつかは男女へのエンパシーを増幅させるのでしょうか。
そのあたりは、義兄妹ならではの事の起こりがあり、義兄妹を超える理由になるのかもしれません。
男と女が、一つ屋根の下で暮らす初手と千日手。
まずは什器に馴染むところから始めて、食味にも気遣う作法の反復。
そんな一挙手一投足は、他人の目に適う合理的配慮の深化と、自己管理への反芻。
言わば、背中越しに相手の背中を感じ取る基本のキです。
土づくりから収穫までは、日照の具合、水撒きの手順、草刈りや追肥、もしかしたら消毒も。
熟考と再考を重ねながらの創意工夫が肝心ってことでしょうね。
~
作品の印象としては、あたかも前世からの宿劫を背負った者同士が、愛の欠損をリカバリーし、幸せな未来にアプローチするために巡り逢った…、そんなお話に思えます。
子どもにとっては、選ぶことも、避けることもできないのが大人のセカンドラブ。
それって、大人の勝手で損なわれた家族愛、猜疑に堕ちた家族像を、義父と義母、義兄や義妹に好演するという無理難題かも。
義理という名目には、見知らぬ家族への従僕性が織り込まれているのが実態とも言えそうな雰囲気。
独り立ちに急くのは、そんな重荷からの離脱と、呪縛からの解放が、自由民に相応しく思えるのかもしれません。
浮かないシチュエーションのなかで、若い彼らの内面を満たしていくものは何か。
二人のケミストリーが、緊(ひし)と張り詰めた外面にどんな表情を見せるのか。
今のところ物語が大きく動きだす気配はなく、予定調和の遥か手前で足踏みするかのスローな展開。
それを待つ焦ったさと言ったら、観ているこちらがモヤモヤするくらいのまだるっこさです。
愛の美しさを見極めたい審美タイプの作品は、人を試すものですね。
~
家族は、本来なら、時間をかけて育てていくものです。
住まいは、何でも喋れるし、黙ってもいられる安心の巣です。
そんなプライベートな空間に、物理的な弾力が入り込んだら衝突や反発が生じるし、心理的な緊張に苛まれるほどに離反や野合に向かいます。
沙季はセクシャリティーを武器にマウントを取ろうと画策します。
悠太はインテリジェンスを盾にして無難・無骨にやり過ごします。
少し背伸びをしながらの攻防でしたが、一番ダメな所を開示し、線引きしあえたことで、"そこから上手くやっていけるスタート" を切った二人です。
義兄妹のポートレートは、ピント合わせはまだ難しそうですが、やがては一つのポートフォリオに仕上がっていくのかな。
お互いが納まるフレーム、お互いを見つめるアングルに、愛の光が差し込むのなら、素敵なことだと思うのですけれど。
~
セカンドラブにリフレッシュを見せあう父と母。
そんな空気を吸い込んでいる義兄妹のファーストタッチ。
ナイーブでセンシティブ、アンニュイでナーバスな関係性が、今のところはいい感じです。
もともと血のつながらない二人なのですから、あくまで義理の、それは他人としてのスタンスがあってもいいのかなって。
義妹との(としての)生活が、どんな終着点を見せることになるのか、二人の青春譜に伴走してみようかと思っています。
{/netabare}
7話で、大きく動き出した本作。
{netabare}
個人的には、夏クールで一番興味をひかれます。
プロットとして似ていると感じるのは、源氏物語、九帖、葵上。
言うなら、ならぬ恋、なせぬ恋路での、異性への想いに寄り添う雰囲気。
あるいは、色づく世界の明日から、月白瞳美。
こちらは、無くした色、手放した自己に、回復へのステップをたどる世界設定。
ともに、閉じ込めた内心の葛藤とその抑制、芽吹きだす安堵への歓心とを描きだす作風。
しっとりする潤いと、文学的な薫りを感じています。
原作は11巻まで刊行されているようですが未読です。
三河ごーすとさんはよく存じ上げてはいませんし、作品に触れたこともありません。
ただ、本作のシナリオ構成、セリフの配置と対置、情感の移動と繋がりなどに視点を寄せると、緻密な文才、自在な筆致を感じています。
オリジナルのストックもあるので、アニメは2期にも期待できそう。
とりあえずは本クールをじっくりと楽しみたいと思います。
と言うか、すでに、10回ほどループしています。
舵取りが変わったのは、沙季の独白。
嫉妬は、裏返し的に言えば、対人希求性の最たるものです。
自分にないものを他人に感じてしまうのは、内心の修羅と背徳へ。
他人にあるものが自分にはないと分かってしまうのは、他者への羨望と嫌悪。
幼少期の沙季は、おもちゃの電話に、自分のイマジナリーに話しかけます。
真っ暗な部屋、お父さんのDV、お母さんの夜仕事、ひとり親家庭、もしかしたら彼女はずっと独りだった?
17歳になるまで、自分の内外面に強さを求め、人を頼らず、人に甘えず、武装モードに生きてきた彼女です。
そんな、ないことづくめ、ないものづくしが普通だった沙季に、兄として、異性として、理解してくれすぎる悠太の存在が、少しずつ大きくなる。
彼は、沙季を、光へと導く者になるかもしれないのです。
言葉をすり合わせ、心をかわしあい、対等以上に心馳せしてくれる悠太に、より近しく、より魅力的に映る女子大生の栞。
彼女は、沙季を、ふたたび暗闇へと追いやる者になるかもしれません。
自分が幸せになる立ち位置はどこにあるのか。
それは一人武装モードを続けていくルートなのか。
それとも、悠太を兄と呼び、思いきり甘えて暮らすことなのか。
自分の幸せとは・・、家族の幸せとは・・。
何をどのようにチョイスするのが、自分らしくあると思えるのか。
沙季のなかにある根源的な本能的欲動(イド)と、そのイドを制止する超自我(スーパーエゴ)、そして両者の間で懸命に適切な道を探る自我(エゴ)。
剣と盾とを三者三様に突き合わせる沙季の鍔迫り合い。
いったいどんな展開を見せてくれるのか、今後が楽しみです。
{/netabare}
8話。
{netabare}
言い訳する者同士のすり合わせ方。
「勉強が、忙しいから。」
誰もが納得できそうな言い訳で、悠太からのプールの誘いに反発を見せる沙季。
奈良坂真綾への気がねなのか、それとも気後れなのか、いずれにせよ、沙季には不快からの言い訳のようです。
「人の気持ちが分からない。」
それは沙季の自我の芽生えを摘んできた、母の深い後悔の裏返し。
目先の目標をすり替えることで、自分の気持ちを抑える術を身につけさせてきた結果なんですね。
そんな沙季のお作法が、悠太には通じない。
心労への思いやりが、二人にはまだぎこちないのです。
エアコンの冷気に当てられた沙季の疲れに、おこげを美味しく作る悠太の気遣い。
夜通し醜い嫉妬に中てられた沙季の心根に、ホットミルクを勧める義兄の優しさ。
期待のまじらないささやかなおもてなしに、沙季は一つの決断をします。
でも、沙季の嫉妬の原因は、家の外と中とにあることには留意しておきたいです。
外の原因は、もちろん読売栞の存在。
沙季の大人ぶりは、栞の魅力を悠太にプレゼンしますが、さすがにそれはいい子ぶりすぎです。
中の原因は、義兄としての悠太の才気。
細やかな気遣い、自然な身のこなし、全てが沙季の期待値を超えてしまっている。
期待しないという取り決めが、沙季の身体を縛りつけ、アンバランスな心にさせている。
沙季にとっては、内憂外患とはまさにこれ。
終盤になって、読売栞はどうにかクリアになったみたいですが、別の栞の女性が現れるなんて、頭痛のタネは当分続くみたいです。
~
一つ屋根の下、義兄とのすり合わせに沙季の心音が高まる。
一歩外に出れば、同級生、バイト生として、通い合う時間に悠太との距離が縮まる。
その24時間に、どれだけ繊細なメンタリティーが介在し、どれほど絶妙なバランスでかじ取りが必要なのかは、正直なところ分かりづらい。
沙季の寝不足を「そのままでいい」と受け流し、「緊急事態だ」と気づきを添え、「原則と現場の対応は別」と柔軟性を刷り込ませる。
悠太のそんな押し出しは、純粋な善意と言って良さそうだし、沙季の受け止めも、義兄への信頼に僅差もないようでした。
言い訳と言い分とをすり合わせながら、その熱量をバネに変え、次のステージへと背伸びできる歓び。
応えられそうな、でも応えられそうもない怖さにも、一緒に向き合うことができる安心感。
ただ、・・・悠太が、義兄として振る舞えば振る舞うほど、沙季は、義妹とも、他人ともしれない心の揺らぎ、カラダの戸惑いを募らせていくように感じます。
EDのヘッドホンに聞こえる悠太と義父の声。
沙季は、どんな気持ちでそれを受け止めたのかしら。
謎めいた前振りに、期待は高まるばかりです。
{/netabare}
9話。
{netabare}
謙譲の美徳。
世代によっては受け止め方が違うと思いますが、得てして日本人は本心を見せない所作を "美徳" と評する意識性があり、それを言葉にすると "謙譲" になると思います。
謙譲とは、他人に対して敬意や礼儀をもって接することを良しとし、自分の能力を適切に評価し、他人を尊重することに重きを置くことです。
悠太と沙季には、そこに共感しあう背景がある感じです。
かつて悠太も沙季も、望ましい家庭の形が壊れてしまっています。
ともに親の苦労を身近に見てきているし、一人っ子なりの寂しさも溜めてきているので、4人が家族として幸せに暮らすことに反対する理由はないんですね。
ただ、悠太には、実母の不倫の爪痕が深く残っていて、そのトラウマが女性を遠ざけるしこりになっているようです。
女性を意識しないでいられることが彼にとってのらしさであり、自分のメンタリティーが謙譲でいられることに美徳を感じているようです。
沙季は、母子家庭の不遇感や、ジェンダーバイアスへの対抗意識が強くあって、常に自分を戦闘モードに追い込むスタンス。
一般的には謙譲にほど遠いように見えますが、悠太のようなフラットなタイプだと素直になれるのは、彼女なりの謙譲の美徳に適っているのかもしれませんね。
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プールのお話は、そんな二人の距離を詰める一つのきっかけだったと思いますが、演出としては丁寧に描かれていたと思います。
沙季は、どうやら以前からカセットテープをモニターしていて、幼いころの悠太が海で遊んでいたことを知っていたようです。
真綾たちの誘いに乗ることは、父子の会話と母子の記憶とがリンクし、より親近感が深まるフィーリングになったんじゃないかな。
同時に、プールに行きたかった彼女の本音がようやく叶ったことで、母の気遣いを拒否して困らせてしまったことへの贖罪にもつながっているような気がします。
沙季が「身も頭も軽くなる」と言ったのは、そんな諸々の背景があってのことのように感じました。
これはおまけですが、沙季の水着シーンも、意外と落ち着いた雰囲気だったのが本作らしいなぁと思いました。
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沙季が、悠太を「兄さん」と呼んだことは、過去の蟠(わだかま)りを溶かしてくれたことへの、彼女なりのけじめの付け方なんだろうと思います。
彼女が髪を切ったのは、戦闘モードを緩め、自分の立ち位置を「女の子」としてではなく「義妹」としてアピール(すり合わせ)したかったのでしょう。
ただ・・・、スマホに写っていた沙季は、おかっぱ風のショートカットでしたし、彼女が大好きなものも、酢豚料理のように見えました。
幼い沙季のヘアスタイルと大好きなものが、17歳の義妹のそれとぴったりかぶさるすり合わせ・・。
裕太にしてみれば、幼い沙季と今の沙季とが、以前から変わらず存在しているような錯覚にもなりかねず、好意的な感覚が一層高まったんじゃないかな。
沙季のことを好きだと自覚してしまった彼ですから、この先、とっても複雑な感情が芽生えてくるような気がします。
同じように、悠太への憧れを封印すると決めた沙季も、はたして義妹としての安寧が送れるのかどうかも、ちょっと怪しいような予感です。
今まで文字に出力していた本心を、頭の中に置きとどめるわけですから、またぞろ何かのきっかけで蒸し返されて、気持ちが揺らぐんじゃないかと・・。
片恋への気づきがあった二人ですが、相手の気持ちを知らぬは本人だけってことですよね。
この先、どれだけ義理と謙譲の美徳を振る舞っても、どこかに男女の発火点を抱え込んだ生活が続くことになるんじゃないかな・・。
さて、9月になれば実りの秋。
二人のこれからが楽しみです!!
{/netabare}
10話。
{netabare}
再婚という縁と、三者面談の行事が、二人にもう一歩前進する決意を促す回のようでした。
親が結んだ縁は、義理の兄妹に、実の兄妹としての期待を寄せてきます。
義兄妹の関係を、"他人寄りの家族" から、"内実の伴った家族" に移行すること。
悠太にも沙季にも、それはむしろ好ましいこと、望ましいすり合わせだったはずですが・・。
悠太が、沙季の母を「お母さん」と受け止めた結果が、かえって「ずるい」とこぼしてしまう沙季の悩みの種になろうとは・・。
今までの流れなら、安堵できること、新しい関係が積みあがってもいいことに思えます。
でも、沙季には「最後の未練なのかも」、「それさえも分からない」と、自身のすり合わせさえ、暗礁に乗り上げてしまったようです。
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未練を感じたのは、沙季に執心があるからです。
好きという感情が、まるで焼けぼっくりのように、彼女のからだをじわじわと炙るんですね。
悠太はといえば、どうにか兄としての体面を保っているみたいですが、なんだか "我慢一択" のようです。
似た者同士だからこそのすり合わせは、知らず知らずのうちに17歳のDNAを誘い寄せるのですね。
未練は、いとおしさを募らせ、切なさは、胸をつぶさんとばかりに迫ってきます。
そんななか、夏帆という女性が、悠太の視野に入ってきます。
どことなく、栞に感じていた嫉妬の炎が、沙季を再燃させる雰囲気の現れ・・。
悠太にも、沙季のクラス男子の影がチラホラ・・。
好きを自認しあった二人に、何かしらの進展(それとも変節?)のきっかけになる気配です。
義兄妹という愛着を、これほどに悩み多く描こうとする作品も珍しく感じます。
でも、リアリティーにも起こりうることと思えば、気長に伴走するのが一番の良策、すり合わせのようですね。
{/netabare}
11話。
{netabare}
拮抗と崩壊。
今話では、シナリオ的に、沙季(というキャラクター)に一つの指針を与えていたと思います。
表向きはオープンキャンパスへの誘導、内実としては公開講座(倫理学)への接近です。
倫理学は、「よく生きる」というテーマを根本問題として扱います。
高校の教師は、公開講座の情報をあらかじめ知っていたと推測できますので、沙季の現国の成績の伸び、風姿風采へのマネジメント、自分らしさへの高い求知心などを勘案してのことに感じます。
沙季は、教官に「ここに来ることで、自分の人生をより良いものにできると考えました。」と話しています。
なので、設定としての倫理学の聴講は、沙季の意向を後押しするための伏線とみてよいのではないかと思います。
教官は「ほかの人との交流で、視野を広げ、理性と知性を武器にする。」というアドバイスと、「それでもなお、自分の感情に変化がないのならそれを大切に。」とも指南しています。
一見、相容れない相克しあう非論理的な言葉です。
目が行ったのは、黒板の板書。
そこには、異母異父の兄弟姉妹婚は、古代世界では存在しても、現代ではタブーであること、しかし、時代には社会倫理と個人の自由意思決定とが入れ替わる相があり、それらは繰り返し更新されることが示されていました。
個人と社会との関係性は "イコールではない" という教官の主張は、わたしも共感がないわけではないですが、高校生には少し刺激的だったかもと感じます。
でもまぁ、都内の国公立女子大を目指す偏差値なら、オープンキャンパスに参加する女子生徒も、そのくらいの意識や関心は高めなのかもしれませんね。
ただ、沙季にとっては、日常の暮らしにそれが繰り返されるわけですから、倫理観の学びがそのまま実践となり生々しく血肉化されるんですね。
ですから、彼女のリアルな心情を思うと、理性と知性で、感性と肉体をバランスよく制御できるかというと、少し難しそうにも感じます。
そんな拮抗が、沙季にどのような気づきと選択を促し、また悠太との関係を導くものなのか。
義兄妹としての片恋の情と、兄妹別々の交流が普通という二つの相が、物語をクールに展開させもするし、熱く燃え上がってしまいそうな気配です。
残り1話でまとめるなんてできそうもないし、中途半端に終わるのはもっと嫌かなって、心配しています・・。
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さて、今話ではどうしても指摘しておきたいクオリティーの劣化がありました。
他のレビュアーさんも述べられていますが、作画の崩壊が本当にひどいです。
顔や五体のアンバランス、所作動作の不自然さだけではなく、パースもおかしいし、色設定にも違和感を感じました。
どのシーンがとなると、重箱の隅をつつく感じになるので取り上げませんが、さすがに我慢できないレベルだったのは残念としか言いようがありませんでした。
以前の回でも、沙季が机のカギを投げ捨てる所作に、あれれ?と思いましたが、こういうことが繰り返されると、作品の評価が爆沈してしまいます。
制作の皆さん、がんばって!応援しています!
{/netabare}
12話とまとめ。
人格形成期に愛情の不調和が生じ、愛着障害のままに過ごす日常。
ひとり親家庭にありがちな設定と言えばそうなのかも知れません。
でも、そう生きている(生きてきた)人のことを思うと、簡単には割り切れない気持ちがあります。
なぜなら、彼らの当事者意識は、窺い知るべくもないからです。
だから、とても評価しにくい、しづらい作品になっています。
彼らからすれば、わたしは絶対的に第三者です。
17才の頃の私には両親がいて、期待したり、依存したり、反発したりの毎日がありました。
その原体験は、悠太と沙季の精神性とは決定的に違うと思っていて、簡単にはすり合わせできそうもなく、二人の言質行動を、ああだこうだとは言うのは、当事者の方の気持ちに寄り添わない、配慮に欠ける行為に思えます。
そういう意味で、本作の設定は、かなり特殊で、繊細なものに感じます。
ひとり親の再婚、同じ学校の同級生、異性に期待しないし、してほしくない者同士の同居生活は、可能性の一つとしても、現実にあるのかどうかは分かりません。
でも、そんな設定に、わずかでもリアリティーがあるのなら、本作をよくある恋愛アニメの一つと消化し、評価するスタンスは、私には少し難しく感じます。
マジョリティーからマイノリティーへの圧力に、無意識のうちに加担してしまうのではないかと恐れるからです。
同時に、人の生き方への要らぬお節介であり、侮蔑でもあり、短慮だと感じてしまうからです。
〜
終盤、悠太と沙季は、感情を表出し、その手を取り、お互いに抱擁もしました。
義理の兄妹という難しい関係性と、初めて異性を受け入れる気持ちを理解するために、彼らが口にしたのは「期待する」という言葉でした。
私は、この「期待する」という言葉に、新しいフェーズを "期待して" います。
期待という言葉には、"願掛け" に少し似ているような気がします。
自分が幸せになることを期待し、相手に幸せになってほしいと願う気持ちは、とても素直だし、素敵で、素晴らしいことと思います。
この期待は、他力本願に加え、自力本願も必要となる願掛けです。
有りがちなカワイイに乗っかるとか、セクシャリティーに溺れるとかではなく、お互いを認め、高め、支えあっていくというジェンダーな関係性に、二人の笑顔を期待しています。
背中越しに見互い、背中を体温で温めあう家庭生活って、どんなものだろう。
できることなら、二人が義兄・義妹として、期待しあい、また、期待しあえる日々を、追いかけてみたいなと思っています。