薄雪草 さんの感想・評価
4.6
物語 : 4.5
作画 : 5.0
声優 : 4.5
音楽 : 4.5
キャラ : 4.5
状態:観終わった
はにゃにゃフワー!な因果律
本作は、PG12ではありますが、大人向けとしても相当なインパクトがありました。
前章とはまた別の意味で、興味深く、そして複雑な思いで鑑賞することになりました。
デッドデッド、デーモンズ、デデデデ、デストラクション。
直訳すれば、二度の死、悪魔ども、轟く不協和音、破壊に次ぐ破壊。
作劇は言わずもがな、脚本・演出も聞かずもがなだったと思います。
となれば、ベースにあるテーマ性は、なおのことアダルト向けとなるでしょう。
私が想起するのは、戦時下、核兵器による唯一の被爆国、日本のことです。
戦争終結という美辞麗句の思考のもとに、二度の大破壊と大殺戮を、広島・長崎の人たちに強いたのです。
その悪魔たちは、今もなお世界中に拡散・増殖し、この瞬間にも出番をうかがっています。
本作はフィクションとしてのエンタメの枠を超えて、かつてこの国土に起きた惨禍を、もう一度、擬似体験させるのです。
首都東京に起こり得ることとして、私たちの脳をバズらせるのです。
因果律の法則をねじ曲げた代償の大きさと、それへの向き合い方。
その主導権と決定権は、どこの、誰の手に委ねられるものなのか。
それを指針として、スクリーンから溢れでる辛口のメッセージを掬い取ってみたいと思います。
~
地球の先住民 VS 宇宙からの侵略者。
一つの星をめぐって、二つの正義が対立する。
「俺たちは前からいるんだ!」、「後から来たのはお前たちだ!」。
ざっくり言えば、元祖と本家、五十歩百歩のベタな展開です。
地球を "大家" に見立てれば、元祖も本家も "店子の看板" 。
にも拘らず、雨露しのぐ恩恵を独り占めしたがる駄々っ子の言い分、きかん坊の無体のようです。
ひとつ屋根の下を求めるなら、どっちもどっち、似たような立場なんじゃないかと思うのです。
思いあぐねて行きついたのは、足元の現実。
イデオロギーにかられる指導者のあさましさ。
どっちが強いかの罵り合いと足の取り合い。
ルーツだの歴史だので振る舞う傍若無人。
国際会議場に連発される効力のない決議・・。
今日的ご時世の人類の英知あるあるです。
何のことはない。日本人が必死の思いで築きあげてきた平和と繁栄と多様性が、実は、死と悪魔と破壊とに隣り合わせであることを示しているのですね。
先ずはおんたんたちに境遇させ、彼女らの目線を通して俯瞰し、痛烈に当てこすっているのですね。
はにゃにゃフワー!
なるほど、実に、いにお氏らしいアイロニー。
こういう表現方法も取れる作家なのだと気持ちを改めました。
~
ジュブナイル作品として評すれば、中川凰蘭こと "おんたん" と、大葉圭太こと"侵略者" が、ほのかな可能性を見せた結末は好印象でした。
友だちに対するおんたんの実直さとおおらかさが物語に救いを見せ、彼女らに救われた大葉の必死の行動と説得にも胸を打たれます。
おんたんの最初のステップは、門出への小さな気づきと、なりたい自分への大きな勇気でした。
そのベクトルは、やがて全く異なる世界へのダイブへと向かいます。
おんたんの絶対聖域たる友だちの未来と、大葉が別世界線から託されたトモダチというキーワード。
どんなシチュエーションであっても、共感し合える2人の自己覚知が、物語の屋台骨を支えています。
それに、彼女は大葉圭太が侵略者と知ってキスをするのです。
恋の熱量は大人じみていましたが、大人ぶった打算は微塵もなかった口づけでした。
相手の心を謀るのではなく、相手を信じるがゆえに。
未来を投げやるのではなく、未来を呼びこむために。
それをいとも簡単にやってのけるおんたんは、人類の素敵な指針に感じます。
ですが、おんたんは、追い詰められて自死しようとします。
その寸前に、死にかけた大葉が目の前に現われます。
「遅いぞ。」
「ごめん。」
それは、これからの自分に何ができるか、何をすべきかということ。
答えは見つけられなくても、行動に移していける2人です。
~
反面、大人に対しては、痛烈な皮肉と風刺とが作劇に施されています。
アメリカの言うなりの政府、AI画像にすげかえられる総理大臣。
それらはまるで中身のない張りぼてとして見せていますが、意外とフェイクではない怖さも感じます。
だからこそ、世界の現実問題、地球の未来課題に、率先して仕事する政治家には手厳しい。
危機管理のあらましを比喩と暗喩でこきおろし、市井の人々の立場性を超えた、瑞々しい可能性に期待を込めるのです。
時代を先駆けるクリエイティビティーに、緘黙は相応しくないし、風見鶏も御用聞きも必要ありません。
それは歴史の教訓だからです。
昭和の初期、似たような狂気が日本を覆っていました。
敗戦色の濃い昭和20年、20万人以上の命と暮らしを、2発の原爆が焼き尽くしました。
軍人も、敵方捕虜も、民間人も、誰かれなく。
勝者の正義の下に、淡々と計画的に、データを取る為に、
まさにジェノサイド中のジェノサイドでした。
本作にもそれに似せたシーンがありありと、なまなましく描かれています。
ですが、東京を舞台としたそのありさまは、79年前のそれを超えるリアルは再現されていません。
小学生以下の子どもさんには、あまりにも残酷すぎるという配慮があったのかもしれません。
しかし、本作が提示しているコンセプトは、日本人に背負わされた、現代史からの因果律という十字架です。
79年前の宿題に、今もなお解決できないでいる世界線の怖さを見せつけるのです。
誰の指が発射ボタンを押すのか。
誰の意志が因果律を止めるのか。
きっと、もっと、世界の人々が想像力を働かせ、直視すべきテーマなんだと思います。
~
前後章合わせて、4時間に及ぶ大作でした。
それは、いにお氏の作家性を色濃く打ち出すものです。
氏の作風は、ささやかな日常への視線と、非日常性を感じる心の揺らぎとを紐づけ、それを深い余韻と洞察に落とし込むものです。
ほのぼのとしたユーモア、棘のあるメタファー、日々のモラトリアム、人類知に求められるパラダイム転換・・・etc。
語れるものはいろいろあったと思います。
物語はおんたんを中心に回り続けます。
お話の中では、これからも本家と元祖が殺し合うのでしょうか。
死にまくり殺しまくる地獄のなかで、絶対的な聖域を求めて、おんたんの青春は右往左往するばかりです。
鑑賞後に感じた重い疲労感、息苦しい鬱的心情は、作劇に描かれたおんたんの生きざまが、一つの選択肢として、あの日のリアリズムを含んでいるかのように感じました。
79年前の広島と長崎のように。
~
P.S
{netabare}
これからも、あの日と同じ、暑くて熱い日が巡り来るでしょう。
多くの観光客や修学旅行生が、その地で思いを深めるでしょう。
広島平和都市記念碑 (原爆死没者慰霊碑)には、「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」 と刻まれています。
長崎市の平和記念像も有名ですので、ご存じの方も多いと思います。
最後に、おんたんの "少女性" にちなんで、ある碑文をご紹介します。
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のどが乾いてたまりませんでした
水にはあぶらのようなものが
一面に浮いていました
どうしても水が欲しくて
とうとうあぶらの浮いたまま飲みました
―あの日のある少女の手記から
これは、長崎の平和公園、"願いのゾーン" に建立されている「平和の泉」に刻まれたものです。
私は・・・、のどが渇いてたまらないのは、高熱の空気を吸い込み、気管支や肺が焼け爛(ただ)れてしまったからだと想像しています。
この碑文は、本作が、もう一つの世界線のお伽話とか、単なる空想から生まれた物語ではないことを示唆させるでしょう。
おんたんの身に起きた因果律は、実は、人類が立つ分岐点への警鐘であると同時に、希望に満ちた選択への祝砲ではないかと感じます。
二度あることは三度あるのか。
過ちは二度と繰り返さないのか。
近未来に頭をもたげるのはどちらなのか。
2024年の世界終末時計は、残り90秒を指したまま。
はにゃにゃフワー!な因果律。
そのセレクションは、人類の手ずからに委ねられています。
{/netabare}