薄雪草 さんの感想・評価
4.2
物語 : 4.5
作画 : 4.5
声優 : 4.0
音楽 : 4.0
キャラ : 4.0
状態:観終わった
さなぎからの羽化と分化、そして開花へ
略称は "好きあま" 。
劇場で鑑賞しました。
路線は安心のジュブナイルでした。
たまたま原作を先に読み、いくらか消化不良というか、充足感に欠ける印象が残りました。
キャラの発言に突拍子感があり、お話の組み立てがやや粗かったかなという印象です。
念のため、公式やその他の情報にも触れてみましたが、もちろんネタバレや詳細はどこにもなく。
それなら、やっぱり観るしかないと腹を括りました。
"大ハズレは嫌だな" と祈りつつです。
キーワードは「鬼、夏の雪、隠(なばり)の郷」。
鬼は、隠(おぬ)が語源。では何を隠すのか、何から隠れるのか。
夏の雪は、相反する世界概念の接近と、双方のバランス感覚を象徴していそうです。
隠(なばり)は、由緒ある言葉で、万葉集(*1)にも見られます。
アプローチとしては、人と鬼との関わり合い方 。
主人公たちを近しくさせるものは何か。
主人公たちはどんな道を見出していくのか。
ジュブナイル世代が訴求するテーマを見つけられればいいかなと思います。
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ステージは、山形県の南部に位置する米沢市。
モチーフは、山岳信仰の隠れ郷に住まう鬼の伝承。
テーマは、異文化交流、価値観の多様性、自立に向けた行動と捉えました。
主人公は16才の設定ですが、視聴は9才くらいからでも大丈夫じゃないかなと思います。
後半、メルヘンチックな演出が多用されますので、理屈で観る方には苦痛を感じるかも知れません。
やや重めなのは、郷を隠さなければならない理由と背景、郷の体制を維持するための装置への評価です。
いわゆる旧態依然としたコミュニティーへの是非と、時代を切りひらく当事者性は誰の手にあるか?という "未来性を予感させるもの" と受け止めました。
大人世代が振る舞う愛情の形は多種多極であるけれど、それを受け取る子どもはまだまだ未完成。
親目線からなら、子どもは "好き嫌いの塊、天邪鬼" に他なりません。
そんな主人公が、柊くん(ひいらぎ、16才、人間)、ツムギさん(同い年?、鬼)の二人。
異なる生い立ちを同じ時間にぶつけ合いながら、ゆっくりと共感を育んでいくパートナーです。
柊とツムギは、さまざまな出会いにコミュニケーションを深めながら、他者への理解、自己の認識、自我の強化、目的の貫徹、共同の有用性などを学んでいきます。
まさに、外界に出向き、未知に触れ、自分で考え、一緒に行動する。
ジュブナイルのセオリーを踏むとはこういう事かと得心です。
描画はご当地らしく、陽の光に映えるベニバナが美しく(おもひでぽろぽろを思い出し)、山形ならではの原風景の一つに見入りました。
また、畏怖されるユキノカミの造形には、雪に閉ざされ熟していく郷土文化の奥深さが感じられ、不思議な気持ちになりました。
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そんななか、私の関心は、 {netabare}人の思いの表出である雪と、鬼を食らおうとするユキノカミの振る舞い {/netabare} に向かいました。
人は自分の本心を明かすことを憚(はばか)り、つい本音を隠してしまう瞬間があります。
隠(なばり)の郷にも「ユキノカミは、姿を見せたり隠したり」という伝承があるようです。
この「抑える⇔表出する。隠す⇔見せる。」という対置しあう要素が、鬼の郷のエピソードの結節点であり、新時代への突破口になるような気がします。
ところで、柊と雪にまつわる不思議な演出があります。
ツムギは {netabare} 「柊が隠そうとした思いが雪になって出てきている。その雪のことを小鬼って呼ぶ。」 {/netabare} と言います。
本心を隠すことは、自分を抑え込み、ときに社会への能動性を著しく低下させます。
それは自分の未来を狭くし、心が震えるような感動の喜びだったり、魂が踊りだすような感激の幸せだったりを逃してしまいがちです。
ツムギにしてみると、実はそれは自分の境遇にほかならず、柊が同じ道すじを歩むように見えてしまうのでしょう。
それが隠の郷の実相で、人間の社会の現実なら、二人がどんな意志を持って、どう行動するかが見ものです。
彼らの視点に立てば、世界を拗(こじ)らせているのは大人の側、大人の都合、大人が天邪鬼。
なぜ、子どもの世界に、抑圧と差別、紛争と核兵器を持ち込むのか、誰か答えてほしいと問うでしょう。
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もう一つは、なぜ、有難がられるユキノカミが、謂わば氏子でもある鬼たちを食らうのか。
それは郷の規律と理屈に合いません。
合わないのは、それとは違う背反する何かの理由があり、異常行動として表出されているように感じられます。
郷の仕きたりや同調圧力に甘んじた結果、行き過ぎた自己犠牲が引き起こした結果だと仮定すれば、もしかしたらその視点が、作品の本質に触れるヒントになるのかもしれないと思いました。
隠の郷のルールは、とどのつまりは鬼の歴史(生き方の選択)から導き出された集合知の結晶であり、秩序も規律も、コミュニティの維持にとっての必然なのかもしれません。
ですが、時代の変化の中では、抑制は停滞につながり、圧迫は衰退を意味するようにも思えます。
江戸時代や戦争中の権力者にとっては当然であっても、現代では個々の幸福追求の思想が強くあり、国家への忠誠よりも、それぞれの家族の絆が優先されるのが時代の本流です。
実際のところ、国としても、SDGsやダイバシティマネジメントなど、コミュニティーへの変革と実行が提唱されています。
本作に感じとるべきは、そういった背景を踏まえての、柊とツムギの描かれ方です。
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本作は、山形県ではイオン系2館による1日7回上映という力の入れようです。
また、ネットフリックスによる世界同時配信があります。
配信は、英語、中国語、ポルトガル語、日本語、韓国語圏域で、視聴者数は、20歳以下に限っても10億人ほどになります。
これは山形県民の何倍もの数字が見込める人口です。
日本では、鬼はときに神とも扱われ、郷土の祭りには欠かせない存在。
コミュニティーの影の主役とも言っても過言ではない存在です。
でも、海外ではこうした "鬼と人との距離の近さ" が、なかなか文化として理解できないそうです。
というのも、西洋ではツノを生やしているのは悪魔で、徹底的に忌み嫌われる対象です。
これは一神教を採用する文化圏の負の側面で、異なるイデオロギーへの排斥、迫害、レッテル張りです。
東洋でも、鬼は "人の霊" と規定され、面白がられることはあっても、神格化されることはありません。
支配者は、権威の誇示として神を利用し、外敵・政敵などへの侮蔑として鬼に置き換えるのです。
その点、日本は海に囲まれていることもあり、全国津々浦々、人と鬼とが共生しあう文化がさまざまに継承され、相似性とともに独自性も残されていて、気持ちの上ではまったく違和感はありません。
まさにというか、まったくというか、"鬼さまさま" と言ったところです。
また、鬼を心のありようから捉えると、本来、鬼は実体のない心の内なる存在ですが、時と場合によっては、外に暴発する怖い実態も生み出します。
そんな内在と外発を併せ持つ鬼の二律性、多様性、柔軟性、可笑し味こそが、日本人ならではの評価であり、鬼と人との親しさと近しさが見つけられるのですね。
このような鬼への親和性と共存性は、日本の独自の文化です。
ですから、海外へと発信する意味と意義をかみしめたいと思います。
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ツムギと柊の立ち位置は、海外の若い世代への日本の鬼文化のアンバサダーに思えます。
マイノリティーとか怖いからとかに捉われない、内面性に目を向けることで得られる共感と安心感。
隠の郷の如く、閉じこもり変わらないことで安寧するのではなく、広い視野を持つ受容性と寛容性。
相互に理解し合い、強みを応援し、手を取り合うことで見えてくる新しい可能性と時代性。
そんな一石二鳥、三鳥、四鳥を狙ったキャラクターと言えそうです。
こうしたメッセージ性の高い作品が、米沢を舞台に世界に向けて発信されることは、大変すばらしいと思います。
ところで、ジュブナイル作品は、大人にしてみると、得てして "過去を語るもの" として扱われがちです。
でも、時代の変遷は、今の子どもたちが大人になった時の、いま大人である人にも同じに言えること(過去しか語れない人)です。
過去は、今を通じて未来の価値を高めていく素材。
未来は、今を変えることで過去を再評価する物差し。
肉体が衰えていくことは天命なので抗えません。
いつかバトンを預けるのみです。
であれば、パンのみに生きる姿よりも、明るい未来への意思と言葉、そして行動を示す大人でありたいものと感じました。
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映像の冒頭、ひとり柊が、真っ白な雪に埋もれているシーンがあります。
その表情はぼんやりとしていて、元気がなさそうにも。
そしてエンドシーンでは、なぜか真っ暗ななか、柊とツムギが先を取るかのような勢いで、何かを言いだそうとしています。
まるで {netabare} それぞれの本心を明かすのがいいこと {/netabare} のように。
二人の未来が明るくなるような気配で。
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(*1)
降る雪は あはにな降りそ 吉隠(よなばり)の
猪養(ゐかひ)の岡の 寒(さむ)からまくに
穂積親王(ほづみのみこ)
万葉集 巻2 203番
吉隠は、奈良県桜井市大字吉隠のことです。
私は、ステキな歌だと思います。
もしよければ検索してみてください。
お子さまがいらっしゃるご家庭にはオススメ作品です。
ぜひご一緒にお楽しみいただき、語り合ってみてくださいね。
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おまけ、とは言えないおまけ。
{netabare}
私は米沢市に伺ったことはないのですが、上杉鷹山(ようざん)は少しかじりました。
米沢の市民のみなさんの精神性を表わす次の言葉があります。
為せば成る 為さねば成らぬ 何事も 成らぬは人の 為さぬなりけり。
倹約を進める政務においても、人を大切にする教育に徹底した鷹山。
"米沢プライド" なんだそうです。
{/netabare}
もういっこ、おまけ。
{netabare}
本作の上映に先だって、文部科学省が、本作の番宣ポスターを全国の中学校、高等学校等に配布をしています。
と言うのも、本作には、自分の本当の気もちを素直に伝えよう、言えるようになろうという啓発が認められるからだそうです。
このいきさつには裏話があって、当初、文科省は、本作が恋愛もの(ボーイミーツガール)の要素が認められることから、タイアップにあまり乗り気でなかったそうです。
ということで、ここからは私なりの解釈ですが、前述の "暗転したエンドシーン" は、入念に意図された演出で、それこそ文科省の主意とは真逆の、極めてエモーショナルなものに濃縮されていたように感じました。
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本作のキモは、ノベライズの最後の254ページめ。
映像で言うと、残り20秒のシーンです。
{netabare}
ツムギは、柊の手に自分の手を重ね、頬を赤らめながら
「 柊・・、私も本当の気もち、伝えにきたの。」と言います。
不意をつかれた表情で、柊が
「 えっ? 」。
次の瞬間、 {netabare} スクリーンがまさかの暗転。
館内が真っ暗ななか、 " 音声だけの会話劇 " になります。
これには虚を突かれました。
ノベライズでは分かりようのない演出です。{/netabare}
あわてたような柊の声。
「 ちょっと待って! 僕が先に・・・。」
いたずらっぽくツムギの声。
「 ダメダメ、ダメ!! 次は私の番。 でしょ?」
{/netabare}
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この会話の文脈の面白さは、視聴者には、二人のシンパシー(好きという感情の共感)の昂ぶりを期待させながら、二人へのエンパシー(二人に感情移入したい視聴者の思い)を、プッツリと切り取って消してしまっているところです。
遂に恋の告白なの?ってピークで、いきなりスクリーンが真っ黒になって、二人の姿が忽然と消えてしまうなんて、いくらなんでも大人のやることじゃないんじゃないですか?みたいな感じです。
ここ一番の表情やしぐさを映さないことは、心に伝わってくる感情を隠すわけだし、二人の当事者性も、二人への当事者性も、見せなくしてしまうんですね。
配信では決して得られない心象、劇場ならではの演出の妙だと感服です。
そして、この演出があるから、文科省がタイアップしたんじゃないのかなとも思います。
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ツムギが " 次は私の番 " と言うことは、柊が最初に告白しているはずなんですが、実のところ、柊が "自分が一番" という自覚を示すシーンはどこにも描かれていません。
つまり、" あくまでもツムギにとっては " といえる演出になっているわけで、視聴者はツムギの心情を掬うことで、彼女の恋愛温度を爆上げしている台詞だと分かる仕組みになっています。
そのシーンがどんなふうに表現されていたかを受け止められれば、本作のテーマの「好きでも嫌いな」が分かるんじゃないかなって思います。
ヒントは、二人の、特にツムギの心情に立ち切ることです。
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思うのは、文科省が認めた啓発の要素は、確かに表向きにはそう見えているけれど、もう一つのテーマでもある、少年少女の恋バナを譲ったわけじゃないよと、暗に言っているようにも感じます。
もしかしたら本当は、最後のシーンはカラフルな映像だったかもしれませんが、あえて声だけの演出に差し替えたのかもと、そんな妄想にも得心がいくのです。
ラストシーンの仕上げはこれでまとめるけど、この出来栄えのその始まりは視聴者に預けてしまう。
オトナサイドのオモテ事情と、ジュブナイル向けのウラ恋バナとを、ひねって絡めたようなウルトラわざ。
いかにも " あまのじゃく " っぽくて、私は好き。
エンドロールも、痛快で、小気味の良い余韻でした。
ちなみに山形県の中部地域では、天邪鬼を " 蝶類などのさなぎ=蛹 " といい当てる方言があるみたいです。
知らなかったなぁ。
{/netabare}