蒼い✨️ さんの感想・評価
3.9
物語 : 3.5
作画 : 4.0
声優 : 5.0
音楽 : 3.5
キャラ : 3.5
状態:観終わった
ドラえもん ぼく、日本人のなんなのさ。
【概要】
アニメーション制作:シンエイ動画
1989年3月11日に公開された100分間の劇場アニメ。
原作は、藤子・F・不二雄が『月刊コロコロコミック』
にて連載していた「大長編ドラえもんシリーズ」作品。
監督は、芝山努。
【あらすじ】
学校でも家でも叱られてばかりののび太はドラえもんのひみつ道具を借りての家出を決心するが、
何処に言っても大人の所有地であり、子供が無料で住める(不法占拠!)土地が無く頓挫。
のび太に家出なんて無理という態度を当初はとっていたが、
家の仕事でこき使われたり、勉強漬けや、期待が重荷などで、それぞれに母親と上手くいかずに、
家の中が息苦しくなったジャイアン・スネ夫・しずかが家出仲間に加わり、
上司の家族旅行中にパパがペットのハムスターを預かることになった野比家に我慢できない、
大のネズミ嫌いのドラえもんが避難場所を求めたことで、
5人揃って家出先の土地を求めて、現代では無理ならタイムマシンで太古の時代に遡って、
人間がいない時代の土地なら使い放題と、7万年前の日本をドラえもんのひみつ道具を使って満喫。
本当に家出するわけにもいかず、太古の時代を息抜きの場所として確保して、
現代日本に戻ると、のび太たちのコスプレではない本物の原始人の少年のククルがいた。
歴史上の数々の失踪事件と同じように、時空間の乱れで7万年前の原始人が神隠しに遭い、
二十世紀の現代にタイムワープしたのがククルではないか?とのドラえもんの推測。
ほんやくコンニャクをククルに食べさせて話をしてみると、
ククルたちヒカリ族はクラヤミ族にしつこく襲われていて、
クラヤミ族の背後には嵐と雷を操る不死身の精霊王ギガゾンビがいると言う。
ククルに協力してクラヤミ族にとらえられたヒカリ族を取り返すべく、
のび太たち5人はククルと一緒に7万年前の日本に再び行って、
ヒカリ族の集落が存在していた中国大陸の後の安徽省和県へと出発をするのだった。
【感想】
大長編ドラえもんの第10作目。
親としては子供に期待したいし、最低限の努力は当たり前との思いは子供には届かず、
子供の主張なんて親から見れば被扶養者の口先だけのわがままに過ぎず、
いっちょ前に口を利くにはせめて努力の跡を見せろ!
自発的に頑張らないなら塾に入れて子供を勉強漬けしたくなるのが親心。
親から叱られるのに理不尽さや煩わしさを感じて傷つくのは子供にはよくあることで、
親の言ってることを感情でなくて理屈で処理しようにも、
親が感情的過ぎてついていけないと感じてしまうのも子供によくあること。
親としては滾滾(こんこん)と理性的に諭しているつもりが、
子供目線では息苦しすぎて避難場所が欲しくなる。
噛み合わない親子関係ってだいたいそんなものだと思いますが、
親から干渉されない秘密の逃げ場が欲しい。
人間関係からの不和によるストレスは子供に限った悩みではないですが、
のび太たちが感じている窮屈さを共感できれば、それなりに感情移入できる出だしであるかと?
かと言って原始時代でやってることが、秘密道具で普段やってることと大差なくて、
道具で住処を作って、出来合いの食糧を道具で製造。
のび太が「動物の遺伝子アンプル」「クローニングエッグ」を使って、
実在の動物の遺伝子を組み合わせて、ペガサス、グリフォン、ドラゴンを作ってしまうのは、
子供心には夢がある話と思いつつも、未来の道具で動物の改造してしまうは、
生命倫理的にはマッドサイエンティストみたいで怖いと思ったりと気にしたら負けですか?
でも、この倫理観がバグってる話がドラえもんの魅力であり、
藤子・F・不二雄先生の子供への夢というプレゼントなのでしょうね。
今回は文明の発祥以前の時代が舞台ですが、
人間の手が入ってない本当の自然は道なんて無いし地面がデコボコしてて歩きにくく、
草の背丈が高く虫だらけ泥だらけで現代人の視点から見れば快適とは言い難いのですが、
そこまで環境を不便に描いてしまうと子供の憧れを削いてしまってダメなのでしょうか。
まるでハイキングコースみたいで怖さと不便さがナーフされた自然の描き方は、
まるで現実逃避の世界のよう。
変な言い方になりますが、なろう系作品の原型みたいな味をそこに感じたかもです。
現実世界が嫌になったから、異世界ならぬ太古の原始人の世界に逃避して、
チート能力ならぬドラえもんの秘密道具でイージーモードなスローライフ。
そして、そのチート道具で現地人(原始人)を助けて交流をするストーリー。
それが、今回の敵で時間犯罪者のギガゾンビが22世紀の科学力でも勝てない強敵であり、
昨今の男性向けなろうとは違ってチート道具や夢だけではどうにもならないことを、
ドラえもんたちが敗北寸前にまで追い詰められる展開が描かれていて、
親への反発がきっかけで始まった冒険が、救助に駆けつけた大人(タイムパトロール)
の活躍で終わるのが、大人と子供の考え方の違いはあっても、
大人は頼りになる大きな存在である。無理にいきなり物わかりが良くならなくてもいい、
大人の庇護のもとで子供は失敗を繰り返しながらもちょっとずつ大人になれば良い!
みたいな話を、作者である藤子・F・不二雄が言いたいのか?と思ったりします。
別のエピソードで人生七転び八起きを描いていますしね。
2016年のリメイクではドラえもんたちが自分でギガゾンビを倒してタイムパトロール隊が活躍しなく、
野比親子の感動演出などのドラマチック要素な改変がてんこ盛りなのですが、
本来の藤子・F・不二雄先生は、いい話であっても泣かそうとはしないあっさり描写の作風ですよね。
近年のドラマやアニメはわかりやすい感動要素が好まれるというのも理解は出来ますが、
本来の大長編ドラえもんの思想に基づいて映像化されているのは、
改変で作品のテーマが変えられてない、こっちだと頷いてしまったのは、
自分にも懐古趣味の部分が一応は残っていたと、いろいろ思うことがある本作品でした。
これにて感想を終わります。
読んで下さいまして、ありがとうございました。