薄雪草 さんの感想・評価
4.4
物語 : 4.0
作画 : 4.5
声優 : 4.5
音楽 : 4.5
キャラ : 4.5
状態:観終わった
当事者性と主体者性のコントラスト
ゲームにはとんと疎いので知らなかったのですが、本作は人気作をアニメ化したものなんだそうです。
それが不思議なことに、のっけからキャラデザインに虚を突かれ、心を奪われ、お話を追いかけることになりました。
Aimer さんの「escalate」、amazarashi さんの「アンチノミー」は、今もよく聴いています。
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ヨルハ部隊。
トップアスリートにも優る、しなやかで強靭なパフォーマンス。
クール&シャープネスを体現する高度なインテリジェンス。
そのうえで、2Bは可憐さを、9Sは謹直さをブーストしています。
そうは言っても、2Bは150kg、9Sは130kgという重さには驚きました。
彼らのコンビネーションシップは、高機動なプランニングと高次脳なフィーリング。
阿吽の呼吸に通じ合う超一流のソルジャースピリッツで邁進します。
とは言え、そのキャラデザインにはひどく戸惑いました。
なぜなら、主人公に必須のはずの "目の魅力" が完全に覆い隠されているのですから。
そんなモデリング(抽象化の一つ)が示すコンテクスト(文脈)に、私は当初、どんな心情で受け止めればいいのか分からなくて、もどかしくて、たじろぎました。
目が見えないのなら、私が彼らの目の代わりになって・・・なんて気持ちにもなりかけましたが、彼らのテクノロジーは、西暦5000年という未知の設定。
そもそも現代の知見ではなにも見通せない時代性を想起させる作品に、本当に自分の想像力のなさにがっかりしました。
ですが、本作の過酷すぎる世界観設定が、私の脳内に不均衡な相剋を引き起こし、怒りにも似た感情を満たしたのは間違いありません。
というのも、ゲームの設定では、{netabare}人類はすでに絶滅しており、ヨルハ部隊も、そのミッションも、達成不可能なボード上に存在しているというのです。
この物語には、すでにプロローグにおいて人類存続の正統性が喪失していて、エピローグにおいても人類不在のままの不透明なエンディングしか残されていない {/netabare}というのです。
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こうした世界観を掴むために、わたしはレヴュータイトルに二重の意味あいを考えました。
一つは、物語 "内" のヨルハ部隊に見えるそれ。
二つは、物語 "外" の視聴者(またはゲーマー)の視点によるそれです。
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一つめ。
ヨルハ部隊の主体性には、人類の復興のためという目的意識性はあっても、その任務遂行の原理に確然とした当事者性は見当たりません。
2Bも9Sも、目の前の機械生命体と対峙はしても、死に絶えた人類とまみえることは仮初めにもないからです。
ここで言う主体性は、2Bや9Sの活動性に内包されています。
彼らは、ただ司令官の命令に従うだけのアンドロイド戦士。
ヒト以上の美しい造形ながら、呼び名は記号化され、人間性たる内実は大きく歪曲され、疎外されています。
彼らには、自我の拡張性はもちろん、自律に向かう選択肢も、時代への探究性も、すべてが自己覚知の範疇には付与されておらず、不可侵の領域として制限されています。
その象徴像が、目の部分を覆う "黒布" なんだろうと思います。
ヒトの似姿にモデリングされていながら、その瞳には人間の思慮を超えて世界の真実を見てはならないとされているかのようです。
彼らに与えられるのは、ワンウェイに課される命令のみ。
ヨルハ部隊は、当事者にもならない人類の遺志によって、戦闘の主体性だけを担わされた決死隊として無機質に扱われているのです。
日々、戦闘に明け暮れ、ときに勝利を得、あるいは敗北を喫する "もっとも高度に精鋭化された存在"。
ヒトの幸福には決して届かない、ただ戦争に能うだけの "ヒト型オートマタ" のコントラストに心が痛みました。
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オートマタの語源は、ギリシャ語の automatos。
「自らの意志で動くもの」というような意味合いを持つ言葉だそうです。
でも、18世紀ころ、優秀な時計技師たちによって、その概念は改変されました。
彼らは、言葉の原義を「自動機械」と置き換えてしまったのです。
言葉に通底する文化性は、時代や背景とともに移り変わるものです。
ギリシャ人が感じた "躍動する生命感" が、時を経て "ぜんまい仕掛けの物体" へと置き換えられる意味。
そのプロセスは、ヒトの意識性に微妙な影響を与えながら、現代から未来へと引き継がれていくのでしょう。
2Bや9Sに与えらえた使命もまた、そんな人類の思想性から発しています。
そう思うと、オートマタ、アンドロイド、ヒューマノイドたちと人間とのあいだには "絶対に譲れない境界線" 、"主体性と当事者性のあいだの高い壁" があるのかもしれません。
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二つめは、いささかレヴューの主旨とは離れてしまいますが・・。
本作がゲームに依拠していますので、そこから感じるところを少し述べてみたいと思います。
ゲーム上で2B、9Sを操作するのは、ゲーマーの意識性です。
ゲーマーの能動性が、彼らの目となり、頭脳となり、行動規範者となります。
ゲーム進行の当事者性は、ゲーマーの意思決定に依拠し、ゲーム内における主体者性として2Bや9Sにそのまま転移(転意)されます。
ゲーマーの視点は、いつの間にか絶滅した人類になり代わり、AIにもなり替わり、2Bや9Sの行動と渾然一体に交わり、だんだんとゲーム内の主体者性を帯びていくのです。
この立場性の交錯と視線の多重性は、アニメ視聴時とは比べものにならないほど、複層的で、双方向性なもの。
ゲームの面白さは、こうした当事者性と主体者性とを強烈に紐づけるところにあるのでしょうね。
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反して、アニメの場合は、どうしても単相的で単一方向性なものになります。
どうしたってゲーマーのような深く貫入する感覚にはなりえません。
ただ、その温度差はあるとしても、共通する要素はあるかもしれません。
それが、機械生命体、アダムとイブ、A2の存在です。
機械生命体はまるっきり機械然としていますが、花を愛する精神性があるかのような場面が描かれます。
対して、アダムとイブはヒト型を模しています。
模してはいますが、彼らも人間を見たわけではありません。
もしかしたら、ヒトの心性や容姿を模するのは、人間のそれに何かしらの価値を見いだしているからかもしれません。
A2は、ヨルハ部隊の初号機のようなモデル。
でも、その立ち位置は、どちらにつくでもない微妙なもののようです。
あたかもそれは、闘争に身を置きながら、闘争を否定するかのような振る舞いです。
この戦いの主体者は、いったい誰なのでしょう?
この物語の当事者性は、誰に付されているのでしょう?
それぞれの主意主体は、いかに収束され、どのように統合されるのでしょう?
これらの複数の視点や立場性が、作品の評価に、"混乱と統一性" をもたらすのではないかと思います。
混乱は、ヒトに似せた主体者性と当事者性の温度差に感じとれる奇妙な刺激性から。
統一性は、そんなバネ仕掛けの機械たちへの、どことない "シンパシー" とも言えそうです。
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少し気になったので、あらためて "NieR" を調べてみました。
その語はフランス語に由来するもので "nier"。
日本語に訳すと「拒否する」だそうです。
また、NieRは、二つの単語から成るとの解釈も。
"Ni" は「ネットワークインテグレーション」、"eR" は「操作する人」。
まとめると、「ネットワークインテグレーター」となります。
意味としては、コンピューターネットワークや通信システムの構築や利用環境の整備など、ネットワークシステム全般を "設計・開発・運営・操作する人" になるみたいです。
総じて、"NieR:Automata" を読み替えると、「機械人形の無機質性を拒否する人」となりそうです。
本作(ゲーム)から受ける全体像が、アンドロイドたちがその過酷な現状を否定したくなるような世界観で塗りつぶされているところに由来するからかもしれませんね。
このタイトルは、もしかしたらアニメを視聴するだけの "受動性" よりも、ゲーマーの "能動性" のほうが、より深く感受できるように感じます。
ゲーマーの利益は、オートマタやアンドロイドたちとの双方向的な交流のなかで得られる、疑似的な主体性と複層的な当事者性とを、二重に得られる特権にあるのかもしれません。
オートマタの存在意義や目的行動の主意性に戸惑いながら、しかし、オートマタの眼前を瞬間的に選択し、一緒に創っていくプロセス。
その面白さは、アニメのワンウェイとしての特性では、どうしても弱くなってしまうのは致し方ありませんね。
それを補う分、アンテナはしっかり立てました。
我々人間は、AIに寄せる期待値をどこに置くべきなのか。
また、AIや機械生命体は、人間に代わるベクトルをどこに向けていくのか。
戦いの先に、彼らが融和と共生しうる世界を構築する可能性は果たして・・。
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望むべくは放送が中断しなければよかったのにと思います。
なぜって、当事者性と主体者性のコントラストがぼやけてしまったからです。
「コントラスト」は、EDの「アンチノミー」に通じます。
前者は、対照、対比、差異、相違という意味。
後者は、二律背反、板挟みといったところです。
2B、9Sに付与された人間への絶対的な忠誠と、亡霊たる人間の傲慢とも言える意識性(もはや呪い?)への縛りに、私は強くそれを感じます。
こうしたコンテクストは、「風の谷のナウシカ(マンガ版)」の世界観に近いですね。
ところで、ゲームはゲームの良さがありますので、そのまま100%をアニメに落とし込むのは難しいことかもしれません。
でも、私には、ある意味、お手軽にその主旨を感じることができました。
面白いゲームであればあるほどその世界観に没入できますし、ゲーマーの主意性がキャラに転写されるほど、それぞれの主体性が活性化されていきます。
そんな作品なら、途中でやめるのは難しいですよね。
アニメにもそんなタイプがあると思っていて、私にとっては、本作はそちらのタイプでした。
SFとしてのコントラスト、テーマとしてのアンチノミー。
ヒトとオートマタの取り合わせ、当事者性と主体者性の取り繕いの面白さが途切れてしまったのは、少し勿体なかったかなと感じます。
そんなわけで、今後の展開と継続を含ませる終わり方にも、いくらか徒労感が残ってしまいました。
でも、もしも次があるのなら、楽しみにして待ちたいと思います。