「葬送のフリーレン(TVアニメ動画)」

総合得点
88.5
感想・評価
617
棚に入れた
2003
ランキング
109
★★★★★ 4.2 (617)
物語
4.2
作画
4.3
声優
4.2
音楽
4.2
キャラ
4.2

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ネタバレ

薄雪草 さんの感想・評価

★★★★★ 5.0
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 5.0 音楽 : 5.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

その魔法使いは、タイムラグにどんな料簡を見せる?

原作漫画は今も未読ですので、気持ちはいつも "これ一本" です。
本作は、"一期一会の重みと重なり" を語らう作品。

人間を知る旅。それは、Hospitality、Friendliness、Generosityという心遣い。
評価が高いのも頷けます。



4話まで。「葬送」って、生者が死者を悼んで見送るときの言葉ですよね。
{netabare}
だけれど、フリーレンにしてみると、人間と共にできる時間の長さや早さがあまりにも食い違っているので、感情はもちろん、知識さえ自分の場外にほかりっぱなしにしているみたいです。

そこから汲みとると、一義的には、そもそも人間の間尺には合わないズレ感みたいな日常とか価値とかが描かれるような気がします。
となると、葬送って意味の解釈がどんなふうに描かれ、どんなふうに受け止めるかが鑑賞のポイントになってくるのかもしれません。

フリーレン自身は、魔法使いとしては研究熱心に見えますし、能力的にも無双のようにも見えます。
その反面、人間由来の依頼にはマイペースに徹していて、相手に合わせるようなそぶりが少しも見えないんですね。
そこはまぁ、そこはかとないギャップ感で、お茶目な印象のフリーレンです。

見送りのなかには "回顧" や "懐古" といった含みがあって然るべきなのかもしれません。
ですので、そんな人間臭い文化性がどんなフリーレンを形づくるのか興味津々です。

これからのち、人のつながりや重なりが彼女を変えていくのなら、そこに生じるだろう世界観や時間軸の整合性が何を見せてくれるのか、なおさら楽しみで仕方ありません。
{/netabare}


7話まで。
{netabare}
とても、とても惹きこまれています。
もしも、もしも "今期の覇権" という表現が相応しいのなら、そう言っても良さそうな期待感が膨らんでいます。

皆さんのレビューを読むにつけ、新しい気づきにはたと膝を打っています。
「なるほど、そういう捉え方もあるのか。」
「あの演出は、そんな意図があったのか。」と。
ほんとうに感謝です。

それに、スタッフの趣向やこだわりのおかげで、毎回、鮮明な気持ちで、フリーレンの世界観へと没入できています。
ともすれば原作に手を出したくもなりますが、そこはぐっとこらえて視聴していきたいと思います。



フランメ。
今やおとぎ話に語られる彼女も、フリーレンには昨日のように思い出される師匠。

その足跡をたどれるのは、一人の継承者のみ。
その功績を体得できるのは、連れあう仲間のみ。

大魔法使いの息吹に触れる口上は、彼らにはおしなべて謎めいています。
ですが、フリーレンがハブとなって、その命脈へと導いているかのようです。

滅びへと向かうかもしれないスタンスにあっても、引き継いだ想いを果たすかのような控えめな台詞。

安易な言葉には流されない彼女の双耳。
真実のみを怜悧に見定める彼女の双眸。

種を蒔き、花を咲かせ、実を生らせるのならと、時の流れを撚り合わせていくフリーレン。

EDに写る彼女の瞳の先に、十重二十重(とえはたえ)にいろどる Timeless が咲き乱れる。

EDに映る彼女の眼差しに、光陰は矢のごとくに、一日千秋に祈る Always が見てとれる。

一瞬のまぼろしとも思える人との交わりを、永続する希望として歌いあげる Milet さんのメロディラインが心を震わせます。

すっかり、すっかりお気に入りです。
{/netabare}


9話。「断頭台のアウラ」回。
{netabare}
作劇としてはとても面白かったです。
次週が待ち遠しく感じられたのは久しぶりでしたし、皆さまのレビューも楽しめました。

ただ、一つ気になるポイントも・・。
作品には直接関係ないので伏せておきます。

{netabare}
流れとしては、フリーレンとフランメの馴れ初めを紹介する回でもありました。
気になったのは、薫陶に語られる「動機と手法」です。

二人の共通項は「魔族への復讐」です。
怒りに滲む悔恨を、知略に置きかえる発想で、行動を創り変え、目的を遂げようと図ります。
それを自らの修行として1000年を費やせるフリーレンなのですね。

「目立たなく生きろ」とのフランメの教えは、フリーレンに臥薪嘗胆と深慮遠謀を促しています。
とは言え、彼女はどんな想いで、人類やエルフの長き被虐の歴史を葬送してきたことでしょう。

その胸中にあって、魔力の体外放出の制御を「何となく?」と見抜いたヒンメルに、待ちに待った時が熟したと判断したフリーレン。
ハイターとの掛け合いにイラついたのも、案外、彼らの計略にまんまと乗せられた、と解釈しても楽しそうです。

いずれにしても、ウィンウィンの10年の長旅がそこから始まったわけでしょうし、その10年の活躍を、わずか1秒にまとめる演出は、すこぶる見応えを感じさせる見事さでした。
このシーン。私は、フリーレンが時間を俯瞰する際の習性を表現していたようにも感じました。



また、二人が一致させた手法は「魔族を魔法で欺くこと」。
意外だったのは(推測ですけれど)魔王討伐においても魔力を全開放しなかったという彼女の怜悧な判断です。

フランメとの魔王をぶっ殺す約束は果たせても、アウラら大魔族を獲り損ねたフリーレン。
魔族を撃ち滅ぼすのが彼女の最終目標なのでしょうから、全存在をかけて復讐心をたぎらせるのは、彼女の意志としては理解できるところです。

それに魔族のプライドを逆手に取る術策は、まさに頭脳戦の極みと言えそうですし、飄々とするフリーレンの風体とのギャップが、フランメの教えの凄みを更に浮き立たせています。



ただ・・・少年誌の人気作の主人公の動機が「復讐」という設定は、そのアイデンティティーにおいて相応しくあるのだろうかと、私はいくらか引き気味です。
また、「欺く」という手法にも、どうにもスッキリしない印象が残ってしまっています。

まぁ、それだけ今の世の中が荒んでいる証左を反映していると言えるのかもしれません。
騙し騙され、謀り謀られ、しゃぶり尽くされ、搾り取られるというこのご時世の悪しざま。

コンテンツとしてのフリーレンは、その体現者なのか、あるいは真逆のアンチテーゼを示しているのか、一視聴者として、今後の展開が気になるところです。
{/netabare}
{/netabare}


10話。グラナト伯爵とモンクのクラフト回。
{netabare}
アウラの魔法によって命を奪われた魂を、(ようやく?)80年越しに解放し、膝を折って葬送するフリーレン。
私は、祈りを手向ける彼女の姿もそうですが、むしろその心の寄せ方に関心を向けました。

アウラに囚われた勇者の全ての魂を解き放つのは、フリーレンの魔力総量でも厳しかった。
ですが、80年前にヒンメルに叱られたのは、彼らを問答無用になぎ払うという不遜な振る舞いでした。

だから、彼女は今回、彼らをアウラの手下として見るのではなく、勇猛果敢に立ち向かった同志として、長き呪縛から解放する妙策を案じたのですね。

「自害しろ」と背越しに言い放ったのは、無念に散った英霊らの雪辱を果たし、彼らの眼前にその首が落ちるのを見せたかったのではないかと読みました。

フリーレンの祈りは、80年前に辱めた英傑らへの非礼に対する禊であると同時に、ヒンメルとのよすがを温めたい想いでもあったのだろうと感じました。



グラナト伯爵は、フリーレンの時間軸では赤子のような存在ですが、フリーレンをリスペクトする態度は大人の振る舞いです。
それは長く独りでいたフリーレンには、なかなか理解しにくいお作法かも知れません。

でも、フランメとの約束に信義を置く以上に、ヒンメルらとの10年で培い、フェルンやシュタルクとの旅で、遂につかみ取った宝ものだったとも言えそうです。

"強い魔法使い" 。
それは、魔力の総量や技術、相手を欺く知恵はもちろんのこと、強大な魔族に立ち向かった勇者たちを慮り、その尊厳に寄り添える人格と態度のことと感じました。



クラフトはモンクであり、モンクとは武闘僧とのこと。
日本の歴史に置き換えると、武蔵坊弁慶に比肩するのでしょう。
両者とも、出自も身の果ても不詳とする伝説的な存在のようです。

クラフトは自身の功績を、女神の称賛に求めています。
エルフと人類には心許ない記憶も、女神を仰ぐならその足もとに心の安寧が得られると言うのです。

ただ、その偶像性への恋着は、抽象概念として結び得ても、誕生日を祝ったり、笑いあったりする輩(ともがら)にはなり得ません。

フリーレンの料簡は、1000年に風化し形骸化されるおとぎ話にではなく、ヒンメルらの10年、そして今生浮世の旅にこそ見出せるものなのでしょうね。



シュタルクが兄から受けていた愛ある薫陶。
そしてアイゼンとフリーレンがこしらえるビッグハンバーグ。
これらのプレゼントが、彼の意志と肉体の強さを "勇者の剣" に値する端緒となればどんなにステキでしょう。

"本物の勇者" 。
それは、神々の審判に適うモニュメントを踏み絵と拘泥しながら生きる道か、あるいは世の毀誉褒貶(きよほうへん)に惑わずに未来へと踏み出すかの違いにあるのかも知れません。

~ ~

ところで、二人がフェルンにささやいた「いい匂い」と、フェルンが連発していた「エッチ」。

怪しげな薬で、フリーレンを問答無用で真っ裸にしてしまうし(エッチ、なのかな?)。

銀のブレスレットは、古く宗教的には "精神的な束縛" という含意・・。
それをシュタルクにプレゼントするとは、エッチなんて軽口どころでは収まらないような・・。
しかも、どう見たって、いちばん "分厚そう" でしたし。

彼女の純粋にすぎる師弟愛は理解できなくもないですが、解釈次第ではシュタルクを擁護したくもなりますね。
フェルン、ちょっと怖いかもです・・・。
{/netabare}


13話。ザインの今と今更の回。
{netabare}
私としては、評価⭐️5つの回でした。
すべてのキャラのパフォーマンスにワクワクしました。

全体としては、ザインを誘うストーリー展開。
キーワードは「私は今の話をしている。」でした。

「今」とは、出会いの可能性に "期待を含ませる" 言葉。

本当はフランメから託され、フリーレンが引き継いだ言葉でした。
それは「魔王に対抗できる "いつかの今" 、ぶっ殺す "そのときの今" 」です。

でも、長年、魔力の体外放出を10分の1以下に押し込めてきたフリーレンです。
そんな "今" の積み重ねが、魔族への憎悪感も、戦う熱の総量も、自分を欺くまでにこじらせてしまったというのが実相のようでした。
言うなら、自己効力感の欠落と、自己欺瞞という底なし沼です。

彼女はヒンメルに「500年という流れに、戦い方を忘れてしまった。怖くなった。」と話していましたが、それはそのままフランメと過ごした "1000年分の今" を冒涜するものです。

フランメとの約束を反故にすることは、自分自身の生き方を偽ることに他なりません。
だから、ヒンメルから「今の話をしている。」と誘われたときに、胸を衝かれたのではないでしょうか。



80年前、フリーレンはヒンメルに誘われる立場でした。
今回はザインを誘う側、言うならヒンメルの立場です。

何百年と心を欺いてきたフリーレンを、ヒンメルのひと言が確かに変えたのです。
どうしてザインの10年を動かせないものと諦められるでしょう。

フランメから授けられた奥義(投げキッス)をヒンメルに振る舞ったのは、自己効力感(魔法使いとしての矜持)を確認したかったのかもしれません。
確かにヒンメルには効果覿面(てきめん)だったみたいです。
だから、ザインにも絶対的な自信があったのでしょう。

ヒンメルにはシュタルクばりの鼻血を流させ、ザインにはアウラばりの自惚れを糾すのが、フリーレンの料簡だとしたら・・。

これはもう、アイゼン曰くの「罪な女」認定のフリーレンですね。



それにしてもフランメから託された魔王討伐までの "その時" 。
まさか "いつもの" ダラダラ評がフリーレンの真実だったとは予想外でした。

およそ主人公で、ここまで約束を先延ばしするキャラは、アニメ界広しといえどもなかなか見当たりません。
ますますフリーレンの素性と素行が分からなくなりそうです。

あえて蒸し返しますが、フランメ仕込みの投げキッス話も、なんだか当てにはならないかも。
だって、あんな生めかしい "しな" をフランメが演じるとは思えませんもの。

いえ、むしろ深慮から教えていたのであれば、さすが大魔法使いの先生、フリーレンの性格を "わかっていらっしゃる" です。
彼女がトラウマに萎縮するのを見越したうえで、元々の意地の強さが発揮できるように仕込んでおいた "奥義中の奥義" と言って良さそうです。

投げキッスという奥義。
その効力は、"魔力に由らず" とも、自己効力感を高めたり、自己欺瞞を打ち消したり、相手の "心臓を撃ちぬく" には威力たっぷりなんですね。
やってみると分かりますよ。何か得体の知れない活気がモリモリ湧き上がってくるのが感じ取れるはずです。(自己の解釈です。)

ところで "今更" ですが、同族嫌悪は自己嫌悪のことでもありますから、ザインの10年とフリーレンの1000年は、"今を選ぶという点において質も量も違いはない" という受け止めが "オチ" なのかもしれません。
{/netabare}


14話。シュタルクは「バカ」?の回。
{netabare}
「乙女の一念、岩をも穿つ」。

ここにきて "生臭坊主" に育てられた綻びが悪目立ちしてきた "乙女な" フェルンです。

そう言えば、彼女は、フリーレンに弟子入りする前から、一途に自分磨きをしていました。

ハイターへの敬慕と、フリーレンに師事したことこそ、フェルンの何よりの強みのはずです。

とは言え、"恋の攻撃魔法には不得手" なフェルンが、"内なる恋に恋してしまったら" 果たしてどうなるか・・。

しかも、相手が "岩男" のシュタルクなら尚のこと・・。

だって、彼は、いつだってハイター様をドン引きさせるアイゼン様の "一番弟子" なんですもの。

これではシュタルクの「バカ認定」が既定路線化していくのは避けられそうもありませんね。



それにしても、大人のゆとりを振る舞いながら、その実、屋根から盗み見する "オトナ" もどうなの?と思っちゃいます。

でも、こういう "バカさ加減" が、フリーレンが一番やってみたかった "人を知ること" なのかもしれませんね。
{/netabare}


15話。タイアップ&イノベーションの回。
{netabare}
今話もよく練られたストーリーラインでした。

前半は、シュタルクとフェルンにはお休みさせて、ザインとフリーレンとのタイアップ&イノベーションです。

新加入のザインには、フリーレンとの連携には今一つ時間不足。
その懐疑を解かしたのが、ハイターから聞かされていた説法です。
その示唆は、僧侶と魔法使いのタイアップには欠かせないヒントのようでした。

両者の魔法は、指向性も有効性も違うので、相互理解は難しいもの。
「だからフリーレンの言葉を信じたのです」というハイターの言葉を信じたザインの勇断。

新参冒険者のザインに必要なのは、パーティーへの理屈抜きの信頼だったのですね。

その結果としての鮮烈な電光石火の攻撃こそが、フリーレンの料簡でした。

ハイターの知見とザインの覚悟とを絡めた、三者三様のタイアップ&イノベーションが楽しめたAパートでした。



Bパートは、ザインとフリーレンはお休みモードで、シュタルクとフェルンのタイアップ&イノベーションのお話でした。

シュタルクの兄弟愛と、オルデン卿の親子愛のタイアップが、思わぬ展開でフェルンとシュタルクのパーティーダンスにイノベートされます。

いつもなら「シュタルク様はバカ」と言ったり言われたりの体面に繕う二人です。
でも、舞踏曲にステップを合わせ、視線を重ねる二人は、とても愛らしく、初々しく感じられました。

プレゼントに交わしあったときの、ちょっぴり雑な心持ちを、思いもかけないフォーマルな気持ちで、受け止めあえたんじゃないでしょうか。

お互いを気遣い合うフェルンとシュタルクのイノベーションは、もしかしたらフリーレンにも同じ感覚を呼び起こしたのかもしれません。

なぜなら、フリーレンもまた、かつてヒンメルからリングをもらった記憶に、懐かしく微笑んでいたのですから。



厄介事の匂い。

旅路でのタイアップ&イノベーションには、心をときめかすツール&シチュエーションとして、指輪も、ブレスレットも、舞踏会も "あり寄りのあり" です。

ですが、大人を自負するザインには、若者&若目立ちする一座は "おこちゃま道中" にしか見えないようです。

ましてや、連れのお姉さんは、魔導書にしか興味がないようです。
理想とするお姉さん像に比べると、今さらながら、厄介事の匂いばかりが鼻に付くのでしょうね。

そんなザインも、一皮むけば、ハイターの上を行くなまぐさ坊主。
若者らの嗅覚なら、"厄介事" のオトナ臭がぷんぷんするのかもですね。

それもまた、タイアップ(協力と提携)& イノベーション(結合と活用)に生み出される "人の心" の匂いなのかも知れません。
{/netabare}


16話。心を受け止める役目、の回。
{netabare}
今話は、耄碌(もうろく)しても、頑固であっても "時の守り人の矜持" が沁み出る良作でした。

Aパートは薄れてしまった妻の面影、つまりフォル爺の内面性を、Bパートでは忘れさられた英雄像の名前、こちらは頑固婦人の外面性に焦点を当てています。

おぼろげな記憶も、風雨に消えた名前も、胸に美しくしておきたい想いは、のちを生きていくためのともしびです。
二人の持ち時間に数百年のタイムラグはあったとしても、胸中深くに秘めている矜持は同じなのでしょうね。

目には見えない心の襞(ひだ)には、過ぎ去った時間を記憶に書き留めた真実が刻まれています。

「フォル爺のおかげだよ」と昔話に花を咲かせる楽しさで、心にひとつ安堵を得たフリーレン。
「未来に持っていってあげる」と、その役目を心に誓うのです。



長寿友達とは、エルフやドワーフのような "長命族" だけの特権ではないと思います。
フランメやヒンメルらも、フリーレンには忘れることのできない面影であり、声であるはず。

それなのにフリーレンの素っ気なさといったら、ほんとうにどうなっているのでしょう。
エルフの先天的な特性なのか、それともフランメの後天的な教えなのかは分かりかねますが・・。

「ほどほどに」だとか、「別に・・・」だとか、まるで他人事のように処するのは、いくら何でも水臭いですよね。
でも、彼女がずいぶんと変わったと思うのは、誰の目にも明らかでしょう。



どうにも不器用で心尽く彼らの旅路は、のんびりとゆっくりと気心を交わしあう旅でもあります。

今のパーティー組みの時間経過は、フリーレンの感覚では、ほんの数秒ほどにしかならないのかもしれません。

でも、タイムライフとしては、フェルンらとともに、多くの視聴者を交えて継承していく確かな懸け橋となるものです。

それは、2倍速とか3倍速とかのタイパでは到底伝えられそうもない、一瞬も目が外せない極上なエピソードばかり。

けれど、やっぱりフリーレンは気だるそうな顔をしてこう言うでしょう。
「私は、ただダラダラと "魔法の収集をしているだけ" だよ。」と。

それが彼女が人払いに使う常套句であることはとっくにバレバレなんです。
でも、かつて「ダラダラと "生きてきただけ"」とヒンメルに言っていたのを私は見逃していません。

ちょっとした言い回しの違いでも、フリーレンの気持ちにどれほどの変化があったのかが窺い知れるというものです。



かつてフランメが、最後にフリーレンに話したのは「私が魔法を好きになった理由」でした。
それはフリーレンに仕込まれた「理想の魔法使い」へ回帰するための処方箋にもなっているようです。

花々が咲き乱れるその真ん中で、フリーレンが楽し気に、軽やかに笑ってほしいと願ったフランメの了簡。
それは、戦うだけの魔法使いではなく、何気ない日常に生きる魔法使いの役目であることへの心遣いです。

1000年を超える寿命のフリーレンです。
彼女が「魔法が好き」と公言するのなら、行き交う人から "魔法使いが好き" と言われることが、あるべき人生の姿形なのでしょう。

フランメには、最初から分かっていたようです。
フリーレンが人目を忍ぶ天涯孤独であっていいわけがないことを。
人の心を深く知るべきなのだと。



最も長命なエルフ族。
「葬送のフリーレン」とは、人類にも魔族にも、本質的には "その立ち位置は揺るがない" との意味で間違いないこと。

彼女は、どのようなスパンで関わったとしても、常に見送る側にいます。
視点を変えれば、誰にとっても、彼女に葬送されることを意味しています。

ですが、1000年の静寂も、10年間の戦闘も、この旅自体も、そのお作法で割り切っていいものとは思いたくありません。
ですから、私は、「葬送の」を 『錚々の』と読み替えて、フリーレンの生きざまを捉えてみたいなと思っています。


「どうしたもんだか‥。」とこぼしたザインの揺れる想いも気になるこの頃。
まもなくお正月ですが、早々に時間を進めてもらいたい気分です。

全く、フリーレンには、私の了簡が足らなくなってきました。
これも "どうしたもんだか、な" です・・。
{/netabare}


~     ~     ~
   ~     ~     ~


2期もすっごく楽しめています。


21話まで観たところで一筆。
{netabare}
今話は刺さる台詞がいくつもありました。

「魔法は自由であるべきだ。」(フリーレン)
「魔法は探し求めているときが一番楽しい。」(デンケン)
「こういう魔法使いが平和な時代を切り拓くんだ。」(フランメ)
「魔法の世界では天地がひっくり返ることもある。」(ゼーリエ)

4人の台詞は、魔法使いの矜持と深い含蓄とを、確然と感じさせるものだったと思います。

今後は、大陸魔法協会と聖杖の証とのパワーバランスや、追い求める者と授ける者との大局観の差、既知の魔法解析と魔法への奇知への期待が高まります。

加えて、エルフ特有の長命性に対峙する師匠と弟子、それぞれの人間観(人間を知る旅)なども相まって話は進んでいくものと思います。

もはや本作は、近年まれに見る大河ドラマレベルの夢想夜話といった様相になってきていますね。

どこまでも原作中心主義に突き詰めた演出の妙に期待しています。
{/netabare}


22話。心許(ばか)りのタイムラグ?の回。
{netabare}
物語の進捗でいうと、バトルのあとのお休み回といったところ。
でも、本作の特長は、アフォリズム(人生訓)満載というのがポイントです。
登場するキャラのセリフに、いちいち寓意と含蓄がありますから、ひとつも聞き逃せません。

必ずと言ってもいいほどに、"次回以降の伏線" か、あるいはともすれば "以前の回に掛かる種明かし" になっていて、なるほどそこに結びつくかと頷ける巧みな仕込みになっています。


例えば、共感を得ることで、他者の魔法を使いこなせてしまえるユーベルは、ヴィアベルとの "何気な時間稼ぎの会話" にその伏線が張られていました。
23話以降、この "共感" が、フリーレンや他の受験者たちの絡みに、どんな展開を開いていくのか期待が膨らみます。

また、デンケンが老体に鞭打っても足掻くのは、宮廷魔法使いのトップであっても、故郷の墓参りにも馳せられないもどかしさが折り込まれていました。
名誉も権威も、奥さんへの思慕には到底及ばない、その内面にある境地が、フリーレンをどのように感化させていくのか興味がつきません。



エンデへの旅に同行している私たちも、フリーレンがさまざまな人間の心根に触れながら、相見互いにアフォリズムを "血肉化している姿" に、ともどもに共感を育てているのではないでしょうか。

フリーレンは "カンネの返礼品" は無味乾燥に思えたみたいですが、お冠だったフェルンをとろけさせるには、このうえない "未知の魔法" だったようで、畏まりながらも嬉しそうでしたね。

ともに助け合って第一次試験を乗り越えたともがら。
それぞれが今を生きるのも、それぞれの未来を活かしあうのも、お互いの心を許しあってはじめて "奇知なる魔法使い" になれるのかも知れません。

"人の心とのタイムラグを埋め合わせる旅" 。
それはヒンメルとフランメが遺した、フリーレンのための "アフォリズム"。
わたしは密かにそのように思っています。
{/netabare}


23話。わたし的⭐️5つの回でした。
{netabare}
受験者にとっては、自尊心にも自負心にも触れるその複製体。
ましてや攻撃型に特化している彼らには、敗北は受け止めがたいダンジョン設定です。
北の大地の魔族に対抗するには、いかに戦局に見合う魔法を平常心で使いこなせるか。
最高峰のステータスに問われるのはそこでしょう。

複製体=実力が互角なら、いずれは魔力の消耗戦となることは自明です。
万一、勝ち負けに拘れば "自らの零落に消える" ことになります。
となれば、プライドの選択にも、柔軟な発想と怜悧な計算が試されます。
あたかも・・ミミックに押し込み、吐き出させるように。

フリーレンの複製体に対峙するデンケンのパーティー。
対抗できるとしたら未見のメトーデの魔法能力なのかもしれません。
でも、ゴーレムに次の試験にチャレンジする機会も残されているはずです。



第2次試験官の意向。

ゼンゼは試験官としては協会のメンバー。すなわちゼーリエの主意の体現者でもあります。
試験課題のクリアにのみ価値を置く協会のスタンスは、はたして聖杖の証の料簡にそぐうものなのでしょうか。
もしかしたら、それは平和主義者を主張するゼンゼの信条にも、強い影響を与えるものなのかもしれません。

ゼンゼがフェルンに不思議を感じるのは、伝説の大魔法使いに微塵も物おじしない態度と、ダンジョン攻略に恐怖しない意識性にでしょう。
平和主義を標榜するゼンゼの受験者への期待は、魔法使い同士の融和と信頼なのではないかと見て取りました。
それはフリーレンとフェルンとが、笑いあえる師弟関係に一致できるもの。
ゼンゼが「正解」とほほ笑む理由がそこにみられそうです。



ダンジョンにワクワクするヒンメルの真意。

冒険者の常識は "バカみたいなもの" ?
でも彼の本意は、限られた生をフリーレンと楽しみたいとする本懐にあるはずです。
その世界観は、それぞれが今を生き、今に活かされるという "人の心" を示すことに尽きます。
結果として世界を救えたならと笑う基底にも、今という瞬間に歓びを見つけられる彼の精神性がストレートに伝わってきます。

フリーレンの旅の気づきは、人の気持ち(=ヒンメルの想い)を知るためにあります。
ゼンゼの価値観も、その利益も、平和への希求に見出せます。
ならば、笑顔こそが彼女の評価であり、天地がひっくり返るようなゴールにもなりそうです。

零落の王墓が完璧な複製体を創出するのならば、それを選んだゼンゼが、受験者に求めるダンジョン攻略法はいったい何なのか。
次回がすごく待ち遠しいです。
{/netabare}


24話。フェルン、チャンス到来の回。
{netabare}
Strong-willed.

フェルンを一言で表すとそんな印象です。
訳すと「意志が強い、頑固、決断力がある」になります。

彼女は、両親を亡くし、自死しようとしたときにハイターに出会いました。
フリーレンに言わせれば、酔っ払いの生臭坊主、大人のふりする知ったかぶりです。
そんなハイターでも、フェルンにとっては、慕い、尽くし続けてきた命の恩人です。

フェルンは一心に修練に明け暮れますが、ハイターの余命にはおぼつきません。
でも、命を救ってもらえたフェルンだから、ハイターが天寿を全うする直前まで、自身の魔法技術を磨き、ついに課題をクリアしたのです。

二心なく奉仕してきたフェルンですが、命を賭する旅路の明け暮れも、魔法の技術ではフリーレンの足元には及びもしません。
でも、彼女は Strong-willed.
言うなら、芯の強いナルシスト、淳良なレジリエント、義理堅いデターミンドです。

そんなフェルンが譲れないのが、フリーレンが思わず鼻をくすぐるほどの "いい匂い" なんですね。



そのフリーレンの "完璧な複製体" が、彼女たちの目前に立ちはだかります。
格上の魔法使いに対抗するには、拘束魔法か精神操作魔法だとリヒターは言いきりますが、フェルンはどう受け止めたでしょう。
ゲナウによれば、彼らの本当の相手は、神話に語られる魔物シュピーゲルなのです。

ダンジョンを隅から隅まで愉しむというフリーレンの心意気が、壮観な壁画としてフェルンの心をくすぐります。
「一般攻撃魔法しか使えないよ」というフリーレンの指示は、実はそれで十分にクリアできる能力がフェルンにはあると認められているようなものです。

育ての親ハイターへの高恩、師匠であるフリーレンへの報恩、そしていつか一人前になるための自己研鑽。
ゲナウが指摘するように、冷静な自己分析、チームワークが必要なら、ここでフェルンが頑張らない理由はありません。

なぜなら、実力も、魔力も、技術さえも模倣した完璧な複製体は、謂わば "フリーレンそのもの" なのですから。

リュグナーと対峙したときにフェルンが回想していたのは、フリーレンからの強烈なダメ出しでした。
「生きてきた時間が違う。魔力も技術も違う。私に追いつくことはできないよ。」と。

でも、そう言われっぱなし、凹みっぱなしではいられない Strong-willed なフェルンです。
フリーレンの完璧な複製体と闘う機会なんて、最大にして最高、そして最上のチャンス到来。

いよいよ、魔法使いフェルンの料簡の見せ場です。
{/netabare}  


25話。4人の魔法使いの料簡、の回。
{netabare}
ダンジョン攻略において重要なのは、確かな情報、展開の想定、作戦の練り上げ、そしてチームメンバーの実行能力です。
ゼンゼも「平和主義者」というヒントを出すぐらいの最高難度の一級魔法試験です。
足の引っ張り合いや、独りよがりのあてずっぽうでは、合格など望むべくもないことでしょう。

それにしても、第1次試験での対人戦と、第2次試験の集団的連携とを擦り合わせる難しさは、冷静な合理性、明確な目的意識性、経験豊富な相互信頼が求められるところ。
ラヴィーネら若い魔法使いにとっては、ダブルスタンダードにも見えるデンケンらへの歩み寄りは難しいことなのかも知れませんね。

そんな中、フリーレンが「恥ずかしいもん。」と立つ瀬がない体で申し開きする姿は、なかなかにお茶目で、その場を和ませるにはもってこいだったんじゃないでしょうか。
ただ、それが致命的な隙であっても、それを攻める魔法使いにも弱点があるわけなので、フリーレンには対策済みといったところでしょう。

それにしてもバトルに繰り出されるWフリーレンの攻撃魔法、すごかったですね。
もしも、デンケンたちがあの場にいたら、あっという間に巻き添えになって死んでしまっていたでしょう。
大魔法使いの伯仲するつばぜり合いが、どれほどに凄まじく、また圧があるかを思い知らされました。

今話は、それが堪能できた回でした。
劇場のスクリーンサイズならもっと良かったかもなんて欲張っちゃいますね。



もう一つ、今話のポイントは、"縦" と "横" に交錯する "魔法使いの系譜" が垣間見られました。

"縦" はゼーリエ、フランメ、フリーレン、フェルンと続く時間軸で、師匠と弟子との関係性とも言えるでしょう。
それぞれの思惑と行動がよく理解できる構成と演出でした。

"横" は、ゼーリエとフリーレンだけが共有できる "エルフ種族" という系譜です。
両者は、永遠、長大、立体的な時間軸に生きており、それこそ人知を超越する魔法の深奥の世界観を見せてくれています。

これら二つの時間軸に、3人の大魔法使いの錯綜する想いを生々しく見せていること、そして助演女優の立ち位置に若いフェルンを置くことで、フリーレンの "今" をより強く押し出し、かつバトルの熱量を上げて物語を展開しているところがとても面白かったです。



加えて、エルフの悠久と、人間の刹那の交錯において、それぞれが今をどう扱うか、それぞれにどう生ききるかというテーマを対立させながら、提示されていることにも関心を寄せています。
エルフと人間の時間の尺度の違いから、それぞれが未来をどう見通すかという大きなテーマにもつながっていくでしょう。

フリーレンの先生はフランメですから、人間が語る夢、命の使い方、それを育て、託し、絶えず繋いでいく系譜に、豊かな人間の心があることをフリーレンもきっと気付けるはずです。

私は、物語のファクターには、"キャラクターの人物像" 、"それぞれの動機" 、そして "初発のいきさつ" が大切だろうと思っています。
その意味では、フリーレンの今後の料簡を占うには、肝要な回だったのではないかと感じています。
{/netabare}


26話。フリーレン無双の回。
{netabare}
無詠唱、ノーリアクション、魔力不感知。

無限の、無限による、無限のままを操作する想像力。

大気を用いた圧倒的な物理的質量攻撃。


80年ぶりに見せるフリーレンの料簡。

その術式は、神代のシュピーゲルさえ容易には発動させない。

その身に受けたのは、おそらくは魔王とフェルンの二人だけなのだ。


まさに魔法の高み、魔法使いの極みである。

なるほど、フェルンが震えるのも納得がいく。

伝説の大魔法使いは、かようにして空前絶後を見せ、かくなる敬慕欽仰(けいぼきんぎょう)に相伝されるものなのだ。


{netabare} ところで、フリーレンはミミックの中で、毎回この術式をやってるんじゃないでしょうか。

縦ロール髪におさめる程度の力加減で、ね。
{/netabare}
{/netabare}


27話。わたしの杖、わたしの先生、の回。
{netabare}
フェルンの半生は、魔法の修業、実践、そしてフリーレンの料簡に折々に触れてきました。
それは彼女が大切にしてきた日常で、一人前へと引き上げてくれたフリーレンとの旅です。

フランメに師事したフリーレンの50年。
魔力の揺らぎをコントロールする術を、フェルンはわずか8年で極めたのです。

その才覚はゼーリエの揺らぎさえも喝破する超越した境地。
フランメが種を蒔き、フリーレンが花を咲かせ、フェルンに結実したのです。

ゼーリエのほんの気まぐれから始まった魔法使いの1000年の系譜。
人間の弟子を取るということは、天地がひっくり返ることと同意なのです。


私のなかで、ようやくEDのショートストーリーに繋がりました。

あれはフリーレンの夢。
師が弟子を求める心象です。

生命の限界領域を超え、魂の邂逅を果たしたい姿だったのです。
{/netabare}


28話。錚々の魔法使いたち、の回。
{netabare}
花弁は捨てても、フランメの遺言あっての弟子の育成。
ゼーリエの目利きは、パラダイムシフトばりの当意即妙。
大魔法使いをも呑みこむ胆力が、合格ラインみたいですね。


一代魔法使いデンケンの告白。
妻への愛、魔法フリーク、フリーレンへの憧れ。
らしくないけど、それも格好いいじゃない?


ヒンメルの逸話がヴィアベルを漢にした原動力。
血湧き肉躍る武勇伝であっていい。
ささやかな人助けが矜持であってもいい。


ゼーリエへの尽誠がレルネンの鑑。
不器用な師弟は、魔法のセオリーも武器用でした。
名ばかりの戦いなど時間の無駄、それが冒険者たちの回答でした。


フェルンの旅路につきものの埃と血のり。
神話時代の必然をチョイスしたのは、いったい誰のため?
心を掴まれなかった生活者は、まったく何人いるのかしら?


ヒンメルの死に涙を流したフリーレン。
「また会ったときに恥ずかしいからね。」
彼の魂に出会ったら、果たしてどんな料簡で言うのでしょうね。
{/netabare}


まとめの感想。
{netabare}
まずは、miletさんが歌う Anytime Anywhere が、本作の精神性にまさにぴったりで、とても素晴らしく思いました。

葬送を物語る "長恨歌" 、または旅情を偲ぶ "哀傷歌" 、あるいは魂を呼び交わす "求愛歌" にも感じられます。

ですが、そんなタイムラグを愛(いとお)しみ、心を未来に向かわせるための "応援歌" が一番似つかわしいように思われました。

しっとりと包み込む愛で、力強く背中を押しだしてくれる。
エンディングを飾るに相応しい、聞きごたえのある歌曲でした。



さて、私には、本当にどの回のどんなお話も甲乙つけがたく思えるのですが、あえて15話、16話が、特にお気に入りとなりました。

シュタルクが「跡継ぎには困らなそうだ。」と話した後に、フリーレンが3人に頬を弛ませるシーン。
フォル爺に「未来に連れて行ってあげるからね。」とくすりと鼻を鳴らすシーンです。

フリーレンは、故郷の村を守れなかったことで心が深く傷つくのですが、フランメやヒンメルらとの出会いで自己回復に向かえたとも言えそうです。
ですが、彼女の深層には、成し遂げたことと喪失したもののアンバランスな想いがくすんでいると感じます。

目的達成のこととは言え、1000年もの間、自分のいちばんの強みを10分の1以下に抑え込むなどは想像を絶しますし、大好きな魔法を相手を欺くために使うという自分縛りにも驚きます。

静かな修行の中で、絶対に揺るがない強靭な確信力と、あり得ない程に繊細な想像力を作り上げたフリーレン。
淡白にも思えるその営みの背景には、全てを差し置いてでも成し遂げたかった思いがあったことに、どれだけシンパシーが寄せられるかが、作品を楽しむ一つのポイントです。



フリーレンがゼーリエに「それは本当に偶然だったのかもしれないけれど。」と話すのは、孫弟子としての弁(わきま)えとリスペクトであり、しかし、フランメの直弟子としての信念と意気地とが、混じりあい、せめぎあっていたとも感じます。

世界に50人もいないとされる一級魔法使いの門を、一度に6人に開くことになったフリーレンの料簡。
それはフランメの遺言に耳を傾けたゼーリエの思惑とも重なります。

ただ、三者が語る "人間の時代" は、フリーレンは魔法は自由であるべき、フランメは平和な時代を作るため、ゼーリエは人間の魔法使いがお前を滅ぼす、と解釈に相応の温度差があります。

そんなゼーリエの勧誘を断り、フリーレンに師事することを選んだフェルンは、唯一フランメの薫陶を踏襲できる立場。
であればこそ、人を幸せにする魔法をチョイスしたフェルンが、たまらなくうれしい "フリーレン先生" なのですね。



1000年を生きた大魔法使いと、一級魔法使い最年少合格者のこれから。
それは、時代を平和へと動かしていく魔法の高みへと、さらに昇り詰めていく入り口です。

フェルンはフランメの意をくむ「跡継ぎとしての高み」を、フリーレンは今を生きることのしあわせを「未来に持って行く役割」を、"何度でも果たしていく" のだろうと思います。

そんな気持ちで振り返ると、「葬送のフリーレン」とは、平和を希求する心を永くサポートする者、という読み取り方が、より似つかわしいような気がしてきています。

ということで


" The journey to Ende continues "


首を長くして待っています。
{/netabare}


おまけ。
{netabare}
これはもう "沼" としか言いようがないのですが、ふとした気づきがありましたので残しておきたいと思いました。

それは、フリーレンは、今もなおヒンメルの葬儀直後のような気分なのでは?という想い(仮説?)です。



28話でゼーリエが「弟子のことを鮮明に思い出せる。」という台詞からずっと引っかかっていたのですが、失敗作と評したフランメでさえも、まるで昨日そこにいたかのように語れるエルフです。
(もちろんそれは演出上の必要なのですが、伏線でもあると思うのです。)

1000年前の出来事が昨日のように思えるのなら、ヒンメルと出会った80年前、彼を葬送した30年前、そこで流した涙とその感情は、フリーレンには、ほんの1分前のことなのかもと思うのです。

これはエルフの記憶する能力による特性なのかもですが、永遠に近い時間を当たり前に生きるDNAのようなものかと思います。
現代の脳科学によれば、人間はそのポテンシャルを20%しか活用していないんだとか。
だから、エルフは、例えば、年表のような相対的な位置関係で捉えるのではなくて、絶対的、包括的、瞬間的、感覚的に出し入れできるのかもしれません。

なので、フリーレンがヒンメルを思い浮かべる行為は、人間でいうところの回想や回顧、昨日や今日ではなく、もっと真近な事象と心情、まるでその時のままであろうことに、私は十分に納得できるのです。



フリーレンがヒンメルを想うこと。

それは人間の時間の感覚なら、若い方ならお爺さんやお婆さんとの思い出だったり、ご年配でしたらご自分の死の直前に幼い頃の記憶を思い出したりとか、そんな具合なのかなと思います。

でも、エルフの感覚なら、フリーレンの想いなら、と思うとき、「葬送の」という冠詞は、まさに今の話のこと、とても生々しいリアルなことのようにも感じます。

ゼーリエは「人間はエルフよりも死に近いところにいる。」と話していて、それを感情に当てればおそらく空疎感だろうかと感じます。
人の命の短さは儚いもの。と同時にそこには「人間を1000年も忘れない哀愁」も混じっているのではないでしょうか。
それは、到底人間には窺い知れないもので、「葬送」の一般的な概念に収まりきるものではないでしょう。

本来、葬送とは、死者を悼むことで、生きていく者の心を満たすための行為です。
フリーレンとゼーリエとが、そんな "人間の時代" に評価するもの、あるいは期待するものが、何を満たすのか、満たしたいのか、とても興味深いものがあると感じます。

その背景には、平和の軸(フリーレン、フランメ、ヒンメルら)と、戦いの系(ゼーリエ、大陸魔法協会)のそれぞれの志向性に、明々と違いが出るように感じます。
常に命を葬送していくエルフとして、果たしてどちらの立場であっていいのか、物語はいつか方向性を示してくれるのだろうと思います。



ところで、人間の最大の願いは、不老不死と言われます。
その体現者がフリーレン、ゼーリエだと考えてみると、果たして、彼女らの心境や境遇に、どんなシンパシーの接近が必要になるでしょうか。
それをひと言で表現したのが「葬送の」なんだろうと思います。

葬送する者(エルフ)への当事者性は、その心情にどれだけ寄り添えるか、長い人生にどのように帯同するのかという共感によって生まれます。
難しいのは、とんでもない長生きとか、生殖欲求や恋愛感情が生まれにくいわけなので、ちょっとやそっとでは接点が見つからないことです。
長耳という外見上の違いどころではない、内面性の深奥に触れるなど恐ろしくも感じます。

だから、でしょうか。
「生き甲斐の探究」というテーマであれば、フリーレンやゼーリエと同様に、シンパシーが強まるようにも思います。
たとえそれが、受験者の選定や育成であっても、くだらない魔法を集める趣味であっても。

思い留めておきたいのは、ゼーリエもフリーレンも、フランメの遺言を得た者同士の一致点が見えることです。
私は、それを "利己愛と利他愛の融合" と捉えています。

この時世も久しく「人生80年」と喧伝され、「健康寿命(死ぬまでの約10年間)」の充実が提唱される昨今です。
自分を大事にし、他人も愛することは、きっと悪くはないものでしょう。



フリーレンが、今もヒンメルのリアルな面影を胸の内に宿し、軽妙に言葉を交わしあっていることを想像すると、あたかもそれは彼女なりの、例えば恋慕のようにも、情愛のようにも感じられます。

フリーレンが言い残した「人の心を知る」ことの意味を胸に置きながら、ヒンメルの魂に再会するまでの旅に思いを馳せ、あらためて2期が告知されるタイムラグを待ちたいと思います。


それにフリーレンの料簡なら、きっとこう言うと思うのです。


{netabare}「そんなのは瞬きする間もないことだよ。」

と。 {/netabare}
{/netabare}

投稿 : 2024/12/07
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サンキュー:

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