「すずめの戸締まり(アニメ映画)」

総合得点
77.8
感想・評価
275
棚に入れた
1010
ランキング
594
★★★★☆ 4.0 (275)
物語
4.0
作画
4.5
声優
3.8
音楽
4.1
キャラ
3.8

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ネタバレ

とまと子 さんの感想・評価

★★★★★ 5.0
物語 : 5.0 作画 : 5.0 声優 : 5.0 音楽 : 5.0 キャラ : 5.0 状態:観終わった

あしたの約束

 
Amazon Primeでレンタルして合計5回、観てしまいました。
なんだかんだもうどうもこうもなく、とにかくあれだけ泣いたので5点満点です♡

**新海誠さん**

途中で芹澤くんが「旅立ちにはこの曲でしょ。なんか猫もいるし…」と言っているように、宮崎駿作品へのオマージュ的要素はたくさんあります。
それ以外にもどっかのアニメにでてきたキャラに似てたり、新海さんご自身の過去作にも似ているところもたくさんあります。
でも、それだからといって「これはオリジナリティがない→だから駄作だ」的に断じてしまうのはどうなんだろう?って思うわけです。
その後の、「映画そのものから何を感じるか?」ということがいい加減になってしまっては本末転倒かな…と。
まっさらな気持ちで観て感じることだけが、わたしにとって本当のことです。

もちろんわたしも、今まで見たことのないような映画を観てみたい…っていう思いはありますし、今までも新海さんにしか描けないような画面の美しさ、情景の切なさに感動してきました。
でもこの「すずめの戸締まり」では、そういうデザインやスタイルではないところ…物語そのもの、お話の語られ方そのものに「この映画でなければ感じさせてくれないもの」を感じさせてくれたように思います。
少なくともわたしは、他のアニメや映画では感じることのなかった”何か”を強く感じて、涙しました。

新海さんが独自に磨いてこられた技術もあります。先達からお借りしたギミックもあります。
この映画を観るにあたっては、それらを総動員して作られた「物語の美しさ」こそを、感じてほしい…と思います。

**戸締まり**

この映画を観ていちばんに感じたことを敢えて言葉にしてまとめてみると、「置き去りにしてきた感情(特に愛情)にちゃんと向き合ってけじめをつけることの大事さ」ということかな…と思います。

自分から与えられたものも、誰かから与えたものも、誰かの何かの想いは、それをちゃんと受け取ったのか、返したのか、感謝したのか、それとも諦めたのか、あるいは与え尽くしたのか… どういう形ででもいいから、きちんと「けり」をつけていないと心の底の方の暗闇に潜って潜んで、今の私たちの心を揺さぶって不安定にしてしまう…。

中途半端に後ろ手で締めて確かめずにいた扉からはくすぶって満たされない不満や悲しみが溢れ出してきてしまう。

だから、つらさや悲しさがあっても、封じ込めてしまったり、押し込めて葬り去ったりせずに、かつては自分のものだったその気持ちに向き合って、ちゃんと傷ついて、ちゃんと感謝して、その心細さや悔しさを受け止めなければならない。

そうすることで初めて、しっかりと過去に戸締りをして鍵を閉めることができる。
そしてはじめて、次の鍵を開けて、新しい誰かや何かと出逢いに行く「行ってきます」が言える…
今度はしっかりと気持ちを届けたり受け止めたりする覚悟を持って。

**挨拶**

そんなことを考えていて、今までわたしは新海さんの作品は一貫して「遠距離恋愛のラブストーリー」だと思っていたんですけれど、それと同時に「過去に置き去りにしたもの(トラウマ)を拾いに行く」ということも共通のテーマだったかも知れないなって思いました。
もっと大袈裟に言えば自分の罪悪感と向き合う…というか…。

最初わたしが一番泣いたのは、終盤常世での草太の祓詞で震災前に暮らしていた人たちの「行ってきます」「行ってらっしゃい」のフラッシュバックがばー…っと湧き上がってくるところでした。
それは日常の生活が突然断たれてしまって悲しい…というのとはちょっと違って、その生活には「毎日の挨拶」っていう小さな「愛情の戸締り」がきちんきちんと確かにあったんだ…ということ、そしてそれはなんて貴重で、大切で、でも自然で、当たり前のことなんだろう…っていう思いでした。
普通の日常があまりに美しくて、その美しさに泣いたのです。

もちろんその時はそんなにちゃんと言語化して感じたわけじゃないですけどねw
だから最初は自分がどうしてこの場面でこんなに泣くのかわからなくって、ただただぽろぽろと涙を流して、後からいろいろぼーっと考えてそういうことなのかなぁ…と思ったわけです。

**すずめ**

Webでいろいろな人の感想を読んでみたんですけど、「すずめの行動が突っ走り過ぎてついていけない」という感想も多く見ました。
「イケメンに一目惚れしただけであんな危ない暴走するのはリアリティがない」みたいな。

もしこの「すずめの戸締まり」を今までのような「ラブストーリー」として観てしまうと、そんな感想も持つかもなぁ…と思います。
つまり、わたしはすずめの異常なほどの決断力や行動力は草太に対する「ラブ」ではないと思うんです。

すずめが通学路を引き返して廃墟に向かう草太を追うのは、イケメンっぷりに一目惚れしたからではなくて、彼の姿をどこかで見ている記憶があって、(実際常世で会っていますよね。作品の公式HPには草太がすずめの手を引いて扉に導いているキービジュアルがあります)自分でも不思議なくらいにどうしても気になったからです。
だから自転車を漕ぎながら「私、どうして…」と繰り返し、廃墟についてからは「あのー、私あなたとどこかで会ったことが…」というセリフを言っています。

その後はどうしようもなく引っ張られてどんどん進んでいくのですが、すずめの家で怪我の手当をしながら草太が震災を防ぐ仕事をしていることを知ることが何よりもそのあとのすずめの行動力の源になっているのだと思います。
それは母を亡くした震災という悲劇を繰り返したくないという気持ちもあるでしょうが、何より「必要で大切なミッション」を人知れず仕事にしている人がいる、その仕事にはもしかしたら自分が果たせる役割があるのかも知れない…という気持ちからだと思うのです。

**震災**

すずめは自分が震災を生き残ったことを自分の口から一度も話していません。
大震災を止めるために動いている草太に対してさえそのことを話さず、椅子の脚が欠けていることを話すときも「一時的に無くしてしまった時があって…」とぼやかしています。
すずめの中では震災のことは封印されているのです。
封印する、ということは、忘れているわけではない。
むしろ忘れられないからこそ思い出さないように…振り返らないようにしているのだと思います。

大震災や戦争で生き残ったひとたちの中には自分が原因で亡くなられたわけではなくても「どうしてあの人が死んで、私が生き残ったのか?」「私はあの人よりも生き残る価値があるのか?」と考えてしまうことあるとよく聞きますが、すずめの気持ちの中にもそれが強くあるのではないかと思うのです。
看護師を目指して勉強しているのも、母に憧れたからというよりも、せめて母が果たせなかった仕事を自分が替わりにやらなければ、という気持ちからのように思えます。
そうしないと、必要とされる仕事をしてちゃんと役に立っていないと、許されてある自分のの居場所がなくなってしまうんじゃないか…

「自分は今ほんとうにここにいていいのか?」と。

すずめはそのことを子供のときに刻み込まれ、今でもそれを強く感じているひとに見えます。
そしてそう思って観ると、すずめの行動の原動力が少し違って見えてくるように思えるのです。

**覚悟**

すずめが病院に草太の祖父を訪ねるところは、わたしが大好きなシーンです。

草太の祖父は草太のことを聞いても動じた様子も見せず淡々とその事実を受け入れているように見えます。
でもそこに悲しみや無念さがないわけはないです。
草太を要石としてみみずに刺したのは誰か?とすずめに問う時に彼は声を荒げるように大きくします。
それは草太を思い悲しむ気持ちと、閉じ師としての覚悟をすずめに(もしかしたら自分にも)言い聞かせるためなのだと思います。

でもすずめにも覚悟があるのです。

自分には何も原因がないことで突然親しい人が亡くなってしまう経験をした時に感じることとしてよく聞くもうひとつのことは、死ぬことにも、生き(残)ることにも、何の理由も正当性もない、ということを肌身を持って感じてしまうということです。
死は全く不条理に起きて、死ぬべき人が死ぬわけでもなく、生きるべき人が生き残るわけでもない。
だから、人が、今自分が、生きているということは全くのたまたまの偶然起きていることで、何の根拠も確かさもない…ということ。

愛媛の廃中学校の扉を閉めるとき、「死ぬのが怖くないのか?」と訊かれて、すずめは「怖くない!」と即答しています。
そんなふうに即答する高校生なんて、まずいないでしょう。

この場面は「覚悟」と「覚悟」の対決のように思えます。
草太の祖父の閉じ師としての「死ぬ覚悟」。
草太を救いたい…そのためなら死も恐れずに何でもするというすずめの「生きる覚悟」。

祖父は高笑いをします。
自分の生涯をかけての覚悟が、この若い娘の覚悟に負けたこと。
そしてその敗北がむしろ心地よいものだったことで、思わず笑ってしまったのかな?と思います。

今考えてみると、ここは「もののけ姫」のアシタカがモロに『お前にサンが救えるか?』と問われるシーンに似てるかもですね。
もっとも”高笑い”の意味は全く違いますけど…w

**ダイジン**

Webでよく見た感想のもうひとつは「ダイジンが可哀想すぎる」というものでした。
「自分と恋人は生かして、自分が拾った猫は埋めるのか」みたいな書き方もありました。
確かに、わたしもそう思うところはあります。 ダイジンは、本当に可哀想…。
わたしがすずめだったら、要石になったダイジンをしょっちゅう訪ねて話しかけてるかも知れないです。

ただ、すずめに「好きじゃない」と言われてやせ細ってしまってから、ダイジンはずっと考えています。
最初はひとりでくるまって。
途中でサダイジンに飛びかかってやっつけられ、子猫のように咥えられて舐められて。
ダイジンはずっと何を考えていたんだろう?
…自分が今自由になって現し世に自分の本当の居場所があるのか…?
…この世界で自分が誰かと本当に繋がれる場所はどこなのか…?
そして黙って目を見開き、まっすぐ遠くを見つめるダイジンには、覚悟が感じられます。

すずめと草太の方はどうかというと、草太が最後にサダイジンに呼びかける言葉は「いくら虚しい生命でも、自分は生きたい」というものでした。
敢えて言いますが、生を愛する者でなければ、人や人の世は愛せないと思います。
今は生きて、旅をしながら後戸を締めることが、草太とすずめの役割…なんじゃないでしょうか。

**環さんと芹澤くん**

ダイジンとサダイジンは要石として大きな災いを抑え込んでいましたが、ひとびとがその悲しみのあまり世界への感謝も忘れていく中で次第に抑えきれなくなり、ついには外れてしまいます。
その忘れてしまった人間たちへの怒りは、環さんの隠してきた苦しさを借りて吐き出され、すずめを封印への旅へと駆り立てます。

環さんはまだ4歳だったすずめを引き取って我が子のように育ててくれましたが、その愛情も庇護も、自分の存在理由を認められずに苦しんでいたすずめにとっては、もしかしたらいたたまれないものになっていたのかも知れません。
「守ってくれなくていい。私は自分の存在理由を自分で作らなくちゃいけないんだから…」と思っていたのかもしれない。


この映画はどのシーンをとっても人物の表情の作画が本当に素晴らしいと思うのですが、「けんかをやめて」の歌のシーンでの環さんとすずめの表情は中でも本当に良くて、よくこんな顔が描けたな…って驚きました。
ふたりがお互いの顔を見てもいないのに同じ顔になっているのも、いくらけんかをしても何をしてもこのふたりがしっかり家族であることを語ってくれていてすごく良いです♡

芹澤くんもほんとに良いキャラクターで大好きなんですが、環さんがすずめを現し世に繋ぎ止めるアンカーだとすると、その環さんも常世の引力に引きずられそうになった時のアンカー役は芹澤くんなのかも知れません。

そう考えると芹澤くんがダイジンに話しかけるシーンの関係性もまたちょっと重いものがあるのかもです…。

**約束**

常世ですずめがちいさな自分を見つけ、語りかけるシーン。
観る回数が増す度に、ここで流す涙が増えていきました。
わたしが観てきたアニメ・映画の中でも、特に心に残るシーンになりました。

母がもういないことを本当は知りつつも探し続けていた自分。
悲しくて、寂しくて、本当の世界と向き合うことができなかった自分。

すずめはそのちいさな自分に「じぶんの明日」として語りかけます。

「未来なんて怖くない!」

大丈夫。私はおおきく強くなって、この世界を愛することができるようになる。

自力では生きられなくても、誰かから助けられ、迷惑をかけ、厄介になって大きくなっていく。
それは決して悪いことなんかじゃない。罪でもない。
逆にそれこそがこの世界に生きるということ、素晴らしいことなんだよ…。

「あなたは光のなかで大人になっていくの…」

なんて素敵な言葉なんだろう、なんて素敵な表現をされるんだろう…って思います。

ふたりの背景で常世の空が輝きながら大きく廻ります。
ふたりのすずめの間を流れた未来の時間のように。
この宇宙を律する理のように。

「必ずそうなる。それはもう、ちゃんと決まっていることなの…。」



そして小さなすずめはまた雪の中に帰っていくのですが、その扉を後ろ手で閉じてよく見ていません。
「すずめの明日」がしてくれた約束を、忘れてしまうのです。

すずめはその約束を思い出すため、それが本当だったということを知るため、遠くはるかな旅をしてきて、そしてようやく、長く後戸にしていた自分の扉を締めることができます。

「さよなら」と「ありがとう」を込めた 「行ってきます」の言葉を送って。

**神話**

すずめの名字が岩戸であったり、すずめという名前もアメノウズメノミコトからもじったものであったり、新海さんは日本神話をかなり意識されているようです。
草太を取り戻しに常世に行くすずめのように、死者を取り戻しに地底の国を訪ねていく物語は、例えばイザナミの神話であったり、ギリシャ神話のオルフェウスの物語であったり、世界に共通してあるようです。
それは神話に限らずいくつもの物語に現れてきていて、例えばアニメでいえば「メイド・イン・アビス」もその一例なのかも知れません。
神話・伝承・物語には、離れた土地の間でも不思議に符合する共通の形がよくあるようです。

わたしは、それは人の魂の底には「物語の原型」というものがあるからだと思っています。
新海さんも宮崎駿さんも、物語作家のみなさんは多かれ少なかれ、ミケランジェロが「私は石を削っているのではなく、石の中に埋もれている人物を掘り起こしているのだ」と語ったように、この「物語の原型」を見つけにいく心の旅をしているのだ…とわたしは考えていて、だから神話のような力強い物語を作られる方には、その魂の旅路の苦しさに耐えて何かを掴み取ってこられたのであろうことに尊敬の念を抱かずにいられません。

だからこの映画のミミズがもののけ姫のディダラボッチに似ているのも、要石がロンギヌスの槍に似たイメージなのも、わたしは剽窃というよりはどちらもこの「物語の原型」に近づいたからこそ似てくるのだと思ったりもするのです。


新海さんがこれからも物語を作るために魂の旅路を続けられるのなら、次もきっとまた、こういうわたしの押し込められて自分でも気づいていないような想いを揺り動かして呼び覚ましてくれるような映画を観せてくださるのではないかと思っています。
そしてそこには、他の誰にも描けなかったような世界があるんじゃないか…とも期待しています。

というわけで、「君の名は」「天気の子」と、少し遠ざかっていた新海誠映画ですが、次回作はぜひ劇場に足を運びたいと、今のわたしは思っています。

投稿 : 2023/09/29
閲覧 : 225
サンキュー:

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