「アリスとテレスのまぼろし工場(アニメ映画)」

総合得点
72.9
感想・評価
73
棚に入れた
209
ランキング
1085
★★★★☆ 3.9 (73)
物語
3.8
作画
4.4
声優
3.9
音楽
3.9
キャラ
3.7

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ネタバレ

ひろたん さんの感想・評価

★★★★★ 4.3
物語 : 4.5 作画 : 5.0 声優 : 4.0 音楽 : 4.0 キャラ : 4.0 状態:観終わった

「メメント・モリ」+「ツァラトゥストラは如く語りき」

写実絵画がそのまま動いたような映像美は圧巻でした。
ファンタジー世界をとことん現実的に描いています。
それによって、今、見せられているのは、やはり現実なのではないか?
そう言う、なんとも言えない錯覚を覚えさせられました。
実は、これがとても重要な要素であることを物語の途中で気づくことになります。

ここから先は、ネタバレです。
まぁ、いつも通り作品を好き勝手に解釈しているだけなんですけどね・・・。


■『君たちはどう生きるか』
{netabare}
この作品と同時期に上映されている宮崎駿監督作品です。
どちらもこの世とあの世の狭間の世界を舞台に「生きる」ことについて描く作品です。
同じ年に同じテーマの作品が重なることってありますよね。
この2つの作品もそんな印象を受けました。
似ている、似ていないと言う問題ではありません。
私は、同時期に偶然にもテーマが重なると言うこと自体が面白いなと思うのです。
恐らく時代がこう言うテーマを欲しているのでは?と感じたりします。
シンクロニシティ(意味のある偶然の一致)と言うやつですね。
{/netabare}

■「生きる」と言うこと
{netabare}
もちろん、ただ心臓が動いていると言うことではありませんよね、人間の場合は。

そもそも「生きる」と言うことは、死ぬことが分かって初めて実感できるものです。
しかし、普通の人は、大きな病気、身近な人の死、大災害に直面しない限り、
なかなか死について考えることはしないのではないでしょうか?
それは、死は、一番身近な出来事のはずなのに、自分からは一番遠いと思うからです。
そもそも「死ぬ」体験なんてできませんし、その体験談を聞く機会もありません。
ですので、その逆の「生きる」ことについても漠然としていると言うことです。
つまり、「生きる」こと自体は当たり前のことすぎてよく分からないのです。

特にこの作品の登場人物のように子供なら、自分が死ぬことすら考えもしません。
正直な話、子供の頃に祖父母が亡くなった時に死を自分事のように考えたでしょうか?
確かに会えなくなったことに対してはとても悲しい思い出はあります。
しかし、自分が死ぬことを自分事のように考えたことはなかったと思います。
そんな子供に死を実感させ、だからこそ、今、どう生きるべきかを考えてもらいたい。
そのような時に、この世とあの世の狭間と言う世界観が丁度よいのではと思うのです。
なぜなら死後の世界を描いても、それはただの異世界転生です。
そこには実感はなく、「今を生きる」ことにつながってきませんから。
{/netabare}

■「メメント・モリ」
{netabare}
「死ぬ」ことを実感し、そのうえで「いかに生きるか」について考えたいと思います。
その時、ラテン語の「メメント・モリ」と言う言葉が思い浮かびます。
この言葉は、「自分がいつか必ず死ぬことを忘れるな」と言う意味です。
本来の意味は、だからこそ「今を楽しめ」と言うことなのだそうです。

しかし、その後、キリスト教により違った意味になったそうです。
それは、現世での楽しみは空虚でむなしいものであると・・・。

この作品は、逆にこの言葉の本来の意味を取り戻す物語になっていました。
それは、この後の「ツァラトゥストラは如く語りき」で考えてみたいと思います。

ちなみに、「メメント・モリ」と言う言葉の具体的な例としては、
スティーブ・ジョブズのスタンフォード大学でのスピーチが有名です。
気になった方は、ぜひチェックを。考えさせられます・・・。
{/netabare}

■「死ぬ」と言うこと
{netabare}
もちろん、ただ心臓が止まったことを言うことではありませんよね、人間の場合は。

人間にとっての「死」とは、「心が死んだ」ときのことも言います。
なぜなら、それは、「生きる」ことをあきらめた時だからです。
だから死んでいるのです。

もちろん生きている場合、つらくて悲しいことなんて、いっぱいあります。
でも、そんな心に入った「ひび」を放っておくとどんどん広がっていきます。
そして、やがては、本当に心が壊れてしまいます。
それは、生きていても、死んでいるのと同じです。
そうなる前に自分で心の「ひび」を修復しなければなりません。

しかし、一度、入った「ひび」は、修復はできても完全に直るわけではありません。
どんどんもろくなっていき、いずれ完全に壊れてしまうかもしれません。
しかし、それでも「ひび」を修復し続ける努力をしないといけないのです。
そんな努力をすることが「生きる」ことなのです。

この物語では、空にできた「ひび割れ」がそれを表現していました。
そして、その「ひび」がこの物語に登場する人々の「心」の状態を表していました。
{/netabare}

■「ツァラトゥストラは如く語りき」
{netabare}
今回の舞台は、製鉄所の事故により閉ざされてしまった地区です。
そして、同じ季節が繰り返す「永劫回帰」の世界です。
そこで人々は、「神」にすがって生きていました。
空にできた「ひび割れ」は、世界崩壊の原因になると信じていました。
それを「神」が直してくれるのだそうです。
そして、いずれもとの生活に戻るためには、「神」の救済が必要だと考えていました。
また、そのためには、自分たちは「変わる」ことはいけないことだと思っていました。
まるで人々は、それを「運命」だから仕方ないと受け入れているようです。
つまり、そう言った「固定概念」で縛られている人々の物語でした。

しかし、最後は、「ひび割れ」を直す「神」は止まってしまったのです。
そこで、人々は、ようやく、自分たちは「変わる」ことを選びました。
「神」に救済を求めるのではなく、自分たちでこの状況をなんとかしようと考えたのです。
つまり、自分たちの思いで「生きる」ことにしたのです。

実は、この物語は、ニーチェの「ツァラトゥストラは如く語りき」をなぞっています。

「永劫回帰」の世界で、「神」と言う「固定概念」にしばられて、
「いかに生きるべきか」と言う視点が固定されている人々に対して、
発想の転換を迫ったのがニーチェです。
最後は、「神は死んだ」とし、
自分たちが置かれた状況をそのまま受け入れるのではなく、
「自分たちで考え行動せよ」、それが「生きる」ことだと説きました。

これが、「ツァラトゥストラは如く語りき」です。
この物語の根幹は、そのままのように感じます。

ちなみに、ニーチェの言う「神」とはキリスト教のことです。
ニーチェは、結果的にキリスト教を否定したことになります。
これにより、キリスト教によって意味がずれてしまった「メメント・モリ」が、
その本来の意味を取り戻す結果につながることになりました。
なお、この物語は日本のお話なので、「神」はキリスト教ではなく架空のものです。
{/netabare}

■「生きる」ことについて岡田麿里さんらしい脚本で描く
{netabare}
この物語では、「いかに生きるか」を岡田さんらしい脚本で描こうとしていました。

それは、大きく2つありました。

1つ目は、「生き方」について描いています。

この地区の大人たちは、自分たちの置かれた境遇がどんなことであっても、
つまり、自分たちは消滅する「運命」であり、死ぬ「運命」だったとしても、
「神」にすがるのではなく、
自分たちの手でそれを少しでも先延ばしできるように努力します。

この物語で「神」と崇められていたものは、製鉄所の溶鉱炉でした。
物語では、それを「神機」と呼んでいました。
この神機が、空にできた「ひび割れ」を直していたのです。
今までは、その神機、つまり、溶鉱炉は、「神」の意志で自動的に動いていました。
そして、自分たちは、それをただ見ているだけだと言っていました。

しかし、その「神機」が動かなくなったのです。
つまり、「神は死んだ」と言う解釈です。
でも、このままだと「ひび割れ」が広がり、人々は、破滅してしまいます。
この時初めて、このままだと自分たちは死んでしまうと言うことに気づきました。
そこで、自分たちの手で、溶鉱炉を動かし、より長く生きられるようにしました。

死は避けられません。
しかし、その「神」が決めた「運命」に少しでも抗う決断を人々はしたのです。
終わりが決まっている人生を自分の意志でどう生きるか。
死ぬときに、どう生きてきたかと言えるような、そんな人生。
これこそ、「いかに生きるか」と言うことだったのではと思うのです。


2つ目は、人間の根源的な「生きる」意味である「愛」について描いています。

主人公の思春期の子供たちについては、恋愛にからめて物語を構築していました。
このあたりは、岡田さんの脚本の真骨頂です。

「人を好きなること」。
単純なことなのですが、でも、それを否定せず、その気持ちに、今、素直に従うこと。
それは、「今を生きる」ことに他なりません。
どうせ死ぬのなら人を好きになる意味はないのでは?
違います。
死ぬまで一緒にいたいと思うほど人を好きになることなのです。
それこそ、短い人生を「いかに生きるか」と言うことです。

それに、人を好きになると、そんな短い人生も楽しくなります。
これが、「メメント・モリ」の「今を楽しめ」にも通じてきます。
「人生」とは、「今」の連続であることを忘れてはいけないのです。

この物語では、主人公の男の子と二人のヒロインが登場します。
つまり、三角関係です。
岡田さんの脚本って感じですよね。

この二人のヒロインには、別々の役割を持たせています。
当然、三角関係なので一人の恋は成就し、一人は失恋します。

前者は、もともと主人公のことが好きなのに「運命」を悲観し、素直になれません。
しかし、自分に素直になり、主人公に「好き」と言うことができました。
心の「ひび割れ」がふさがれたのです。
そして、この後どんな運命が待っていようとも「生きる」ことの喜びを得たのです。
また、その「愛」の結晶として二人の子供も描かれていました。
命を次の世代に紡いでいくこともまた「生きる」と言うことなのです。
このあたりは、前作「さよ朝」でも色濃く出ていました。

一方、後者は、結果的に失恋することにより、心に「ひび」が入ります。
これがこの物語のクライマックスへの引き金となります。
しかし、結果的には、その失恋を乗り越え、心の「ひび割れ」はふさがれます。
そして、最後は、この恋愛の舞台となった、製鉄所(工場)に訪れます。
そこは、廃墟でした。
しかし、そこで、人々が生き、自分たちは恋愛したと言う証拠を見つけます。
人は、「生きる」ことによって、確かにそこに「生きた証」は残るのです。
それは「まぼろし」では、なかったのです。

このシーンは、ぱっと見は、廃工場をただ訪れるシーンでしかありません。
しかし、そこに廃工場が残っている理由を考えると脚本の緻密さが見えてくるのです。
なかなかだなと感心せざるを得ません。
{/netabare}

■まとめ

今回の作画は、とことん写実的でした。
この世ではありませんが、この世と見紛うほどの現実感があるこの物語の世界は、
「死」は、紙一重だと否応なしに実感させられます。
この作品は、このことを表現するために作画に一切の妥協はありませんでした。
さすがとしか言いようがありません。

物語のテーマは、「ツァラトゥストラは如く語りき」そのものです。
「神」を否定し、「いかに生きるか」を追求したことにより、
結果的に「メメント・モリ」の本来の意味を取り戻す物語が完成したのです。

では、その「いかに生きるか」とは、具体的には、どう言うことでしょうか?
説明がとても難しい問題です。
しかし、そこを岡田さんらしい脚本で、具体的に描いてみせたのがこの作品です。

その脚本とは、つまり、思春期の「恋心」を題材にしたことです。
この「恋心」と言う「心」は、諸刃の剣です。
壊れやすい、それこそ、心に「ひび」が入りやすいものです。
しかし、その反面、後先考えず突っ走れる部分もあり、ある意味最強の「心」です。
この物語では、思春期の子供たちがこの「恋心」と言う武器を手にとりました。
そして、どうにもできないと思っていた「運命」に、最後は、抗ったのです。
「運命」に抗う物語は、岡田さんの過去作品にも通ずるところがありますよね。

この作品は、ところどころ解釈が少し難しい部分がありました。
しかし、その1つ1つの要素を線でつないでいくと大きなテーマが見えてくるんです。
岡田さんの脚本って実は"隙"がまったく無いんですよね。
物語のすべての要素に必ず意味があって、そのすべてがつながっているんです。

岡田さんの脚本は、ファンタジーの形態をとっていますがきわめてドラマ的です。
ですので、最後にSFチックなド派手な終わり方はしません。
どちらかと言うと、地に足が付いたとても等身大な感じがする終わり方です。
それは、悪く言えば人間臭い、良く言えば人間味があるって感じでしょうか。
ですので、スカッと忘れられる作品ではなく、なんだか「もや」っと残ります。
でも、その「もや」は、決して悪いものではありません。
なぜなら、自分の中に何か残って、何かを考え続けている証拠なのだと思うからです。
ただ、このあたり、岡田さんの脚本の好き嫌いがわかれるところかもとも思いました。

今回、私は、この作品については、いろいろ考えながら観ることができました。
とても有意義な時間を過ごすことができたのでとても良かったと思います。

投稿 : 2023/09/22
閲覧 : 178
サンキュー:

21

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