nyaro さんの感想・評価
3.0
物語 : 3.0
作画 : 3.0
声優 : 3.0
音楽 : 3.0
キャラ : 3.0
状態:観終わった
京アニが駄目になったと感じた作品。
京アニの例の事件の7月18日に合わせて何かをレビューしたかったんですが、少々遅れて7月20日です。残された家族、関係者の方の想いは部外者からは計り知れませんが、アニメファンとして追悼の意を捧げたいと思います。
そのレビューにふさわしい作品が見つかったかなあという気がします。ただ、残念ながらそれとは別の意味での追悼にもなります。本作はまさに京アニと決別するにふさわしい作品な気がします。
この作品は私が嫌いになった京アニの象徴だということです。この作品2018年と事件の前年ですから事件が映画の制作には関係ないですよね。
人気が出たコンテンツを骨までしゃぶるという姿勢は、企業である以上しかたないのかもしれませんが、しかし「響け!ユーフォニアム」は2期ですら、過剰な演出とお涙頂戴のオンパレードで感動ポルノ化したのに、更にその2期で語った裏の情報をアニメにする姿勢が理解できません。
作品は誰のものか?権利的にはもちろん作者であり版権を持っているところなんでしょう。が、本来作品というのは公開した瞬間から視聴者のものになります。
よほど意図するか、精度が高いクリエータじゃなければ、作者の思惑から外れた意味内容に作品は変容します。それが読書や映画そしてアニメの面白さだと思います。また、人によって解釈がブレて、その変容が生じる余地を残せるのが、優れたクリエータだとも思います。
ここは例ですが「私はこういうつもりで作った、実はこうでした、その解釈は間違っている」とSNS等で発信するクリエータは最低だと私は思っています。
国語の「このときの主役の気持ちを書きなさい」という問題の正解に対して、作者が「俺はそういうつもりじゃなかった」という話があります。それはまともに解釈したらそう取れるのだから、作者の思惑とのズレは力量の不足だし、その解釈で作品が評価されているのだから、作品の評価が過大評価ということに気が付くべきです。ですから、この場合は解釈が正解というのが私の持論です。
つまり、視聴者側には作品を独自に解釈した上での感動があるわけです。
続編を作ると言うのはこのSNSの発信や作者の解説以上に視聴者が感動した作品の意味性を固定することになります。よほど慎重につくらないと前作を矮小化し、下手をすると殺してしまうことになります。ましてスピンオフというのは、元の作品の感動をシラケさせるものです。
宮崎駿監督や新海誠監督が続編を嫌がるのはこれを分かっているからだと思います。逆に続編をつくらないアニメ監督は信頼がおける気がします(まあ、この2人は自作解説をするのでそれはそれで下品ですけどね)。
つまり、視聴者は物語を見て、キャラの内面を理解し、行間を読み、考察して、感動して、作品の前後左右つまり過去と未来と裏側を想像します。それが視聴するという行為です。
しかも、それを「いい話、感動する話、文学的な話」っぽく「技術で作る」「音楽をかます」のは特にやめて欲しい。つまり、いままで京アニの良いところであったはずの、優れた部分がすべて反転してしまったという風に私は感じています。この作品はその象徴です。
そう…本作は、クリエータ側に言いたい表現したい事があって、この作品を作りました!に見えないです。だって、こんなことは2期を作ったらそのあとのヒロイン2人は、視聴者に委ねて感じさせる部分じゃないですか?非常に馬鹿にされた気分です。
おそらく作品に魂がないので、この作品には引っ掛かりがなく、泣いておしまい、じゃないでしょうか?エモいだけエモいので、逆に薄っぺらく感じてしまい、虚無感すら感じます。
何年後かに再視聴したくなる可能性は皆無だと思います。つまり「泣くための装置」であり、京アニが「泣くための装置メーカー」になった気がします。
それがヴァイオレットエヴァ―ガーデンの劇場版という蛇足も蛇足、なぜこんなことを?という姿勢につながったんだと思います。
本作の、絵本の部分のアニメは大したものです。ですが、その含意の薄っぺらさがにじみ出てきています。本作は正直、作品としては評価に値しないと思っています。
ということで、京アニのこの姿勢。ぎりぎりの分水嶺がヴァイオレットエヴァ―ガーデンかなあと思いますが、この作品も言いたい事はいっぱいありました。ユーフォ2期、けいおん2期、メイドラゴン2期、ハルヒ2期(はちょっと違うか)もこの傾向が顕著で私は好きではありません。
立て直すためには、京アニは2期以降をつくるな、劇場版をつくるな、スピンオフを作るなとしか言いようがありません。
評価難しいのでオール3にしておきます。