薄雪草 さんの感想・評価
3.9
物語 : 5.0
作画 : 3.0
声優 : 4.0
音楽 : 3.5
キャラ : 4.0
状態:観終わった
愛情と認識の齟齬、あるいはその試み
AIと愛との語呂合わせって、面白さと腹黒さの掛け合わせっぽくて興味深い。
極論すれば、あと15年もしたら、こんな環境が普通なことになっているのかもとも思います。
1話。
{netabare}
その時、人の普遍的尊厳の概念や、社会規範を規定する法律はどのくらい成熟しているのでしょう。
と同時に、その時代の倫理観や存在意義に適応できない、あるいはしたくない人も、一定数いても不思議ではありません。
家族のカタチや、母と子をつなぐものは、愛の遺伝子なのか、それともAIの計算値なのか。
時代を切り取る視点とその提案に、私は期待を寄せているし、寄り添える何かを掴めたらと思います。
{/netabare}
2話。
{netabare}
不気味の谷という言葉は知っていましたが、あぁこういうものかと初めて感じました。
1話めをふまえて、瞳(瞳孔)のカタチが、人間ならホッとするし、AIだと奇妙な違和感が付きまとい始めています。
ことわざに「目は口ほどに物を言う(=口を利かずとも心情を交わす)」とか「以心伝心」なんてのもあります。
そんな高度なヒューマンコミュニケーションを、簡単にやってのけるAIヒューマノイドたちが次々と出てくるし、喧々諤々をやっています。
"プラメモのアイラ" や "イヴの時間のサミィ" には、不気味の谷を感じることはなかったのですが、2話でははっきりと感じました。
瞳(瞳孔)の形状は、私にとっては強力なトリガーだったみたいで、これは意外な発見でした。
「人と話すときは相手の目を見て」と教えられてきましたが、そんな不文律なマナーがここにきて逆張りになろうとは。
何が言いたいかというと、「これってルッキズムにつながってしまうんじゃないか」とか「ディスコミュニケーションにしかならないんじゃないか」って思うんですね。
不気味の谷っていうのは、外見の類似点に感じる人間側のアイデンティティーの揺らぎだと思うので、同じように、AIの持つ内面の相似性にもやっぱり同じ感覚になるわけです。
それをどう乗り越えていけばいいのか。
ルッキズムでもなく、ディスコミュニケーションでもなく、という思考実験だったのかもしれませんね。
{/netabare}
3話。
{netabare}
やはりというか、そうなのかも?というか、ここまでは筋書きの断片の投げかけ、思考実験を仕掛けてきてるような雰囲気です。
となれば、世界観設定はむしろ不要になります。
世界観というのは、ストーリーに一定の枠組みを与えることです。
視聴者は、そのフィールドのなかで、じっくり観察し、仮説を立て、知見を突合し、評価を出すプロセスを踏みます。
ですが、どうやらそれは意図されてはいない様子。
そもそも本作の舞台は、22世紀の後半。
少なくとも、今から150年も未来のお話です。
政治、文化、食料、医療はもとより、人間の生き甲斐自体が大きく揺らいだその先の先の時代と察しています。
それなら、世界観に予断を差し込まないほうがフラットでいられるし、何かの設定を示されるほうが、少なくとも私は鼻白んでしまいます。
そこに拘らなければ、各話のテーマがとても面白く感じられるし、次のテーゼの提示にワクワクしてきます。
もしもナビゲーターを探すとしたら、医師の須堂光になるでしょうか。
鼻にかかるようないけ好かない態度の彼ですが、"世界観は簡単には明かさないよ" という意志を感じています。
3話は、人間⇔ヒューマノイド⇔ロボットの三つ巴の感情交錯のお話です。
う~ん、これ、単発でも奥行きがありすぎてつかみどころが見つかりません。
相当にカオスな心境です。
ただ、心ってものが、人間のみに占有されるもの、そして一方通行のものではないという世界観であることだけ理解できました。
あと、いつになったら、上位AI、出てくるのでしょうね。
{/netabare}
4話。
{netabare}
セクシャリティーは、性自認と性的指向性によって類型されます。
大多数はヘテロ(異性を好きになる)ですが、ホモ(同性を好きになる)、バイ(両性どちらも好きになれる)の人もいます。
ロボットだといずれも設定次第でしょう。
AIヒューマノイドの場合は、きっともっと複雑で、ポリセクシャル、オムニ~、パン~、アプロ~、ノン~、グレー~、デミ~、ア~など、人間とほぼ同じなのかもしれません。
3話ではそれを匂わせていましたが、4話ではセクシャリティーは21世紀よりも数段フラットなものに進んでいるようでした。
ましてや乳房のパーツを換えたりとか、性欲そのものを自分の意思でスイッチコントロールなんかもやっています。
それって、人類よりもはるかに汎用性と互換性(?)が高いみたい。
美容整形手術レベルの話ではないし、自己催眠なのか他者迎合なのか、いったい誰のどんなニーズが出発点なのか見当もつきません。
もちろん今でもトランスジェンダーに苦しむ方がいらっしゃることを考えると、AIヒューマノイドが広く社会的価値観を示す存在として、人権・市民権を得ているのは頷けるところです。
でも、少年が3Dバーチャルキャラクターに好意を寄せる少女像を重ねるあたりは、人間の尊厳としてのピュアな恋愛感情にあってはならない齟齬を作り出していました。
これって人類の未来性(存続)に相当なダメージを残しますよね。
性自認とか性的指向性とかの自己認識能力は、AIヒューマノイドも人間と同等同質にあって、複雑なるがゆえに思わぬところでしっぺ返しを食らうお話もありました。
そうなると、1話にあった "歳をとる" という仕様も、人間社会を十二分に投影しているということに合点がいきます。
恋だの愛だのは当事者の内面性に照らされる感情や行為の概念ですが、突き詰めるとコミュニケーションの伝え方、受け取り方です。
言いかえれば、おもてなしの精神なんだと思います。
人間もAIヒューマノイドも、セックスロボットのような「ご主人サマ~♡」的な単純に割り切れるメンタリティーにはいきません。
高次脳機能の生理的作用(?)として、ほのかな幻想を相手との関係性に期待値を込めますし、コミュニケーションの中にたしかな真摯さを求め、それは疑いたくはないのです。
だから、人格のコピーはもちろん、似姿のみの複写であっても、欲望のままに盗用したり、利益優先で使い捨てしたりするのは、行き過ぎた(触法)行為になるのも仕方ありませんよね。
いや、21世紀ではそんな技術や応用はまだまだなので、設定自体が飛びすぎちゃってて、思考が露ほども追いつきません。
それに一つ疑問が。
安定と循環(2話)ってどんな意味なんだろう。
どこかに情報の隠蔽と齟齬があるように思います。
この先の展開に、だんだんに胸騒ぎが大きくなってきているところです。 {/netabare}
5話。
{netabare}
奇妙な違和感を感じさせる回。
サボテンの暗喩は、人間もヒューマノイドも、葉挿しの即成栽培と同列と考えて構わないの?というメッセージですね。
本回は、記憶の改ざんがテーマです。
人間の場合、脳の後天的な損傷が原因で人格が変容することはよく知られています。
そうでないなら、無理やり生きている現実から目を背けるか、死ぬまで周りの人に嘘をつき通すことくらいでしょうね。
いずれにせよ、たいへんな苦労が待ち構えているし、相当の労力が必要ですね。
ヒューマノイドの場合だと、バグデータを消去し、別のフレッシュデータを上書きするだけで済んじゃうという。
それほどカンタンに幸せが手にできるというアピールなんでしょう。
おまけに、人格のコピーと違って、合法の枠内の処置なんだそうです。
そんな芸当は人間にはとうてい無理なこと、不可能なこと。
でも、そうできないことにいったいどんな評価をつけられるでしょう。
いいえ、不可能だからこそ、評価などそもそも不要なのです。
良かれと思って治療した二体のヒューマノイド。
その結果、子どものほうは、ピアノの演奏に違いがでますが、音楽性の違いと割り切れるのかもしれません。
日常生活のこだわりも改善できるなら、それほどトラブルにはならないでしょう。
でも、大人のほうは、家計を見知らぬ誰かに送金したりするのは社会生活に支障も出るでしょう。
ヒューマノイドにもセカンドオピニオンが欠かせないっていうオチは、人生設計のアップデートには欠かせないという教訓なのかもしれません。
医療におけるデータの改ざん。
ヒューマノイドだから、そういうケースが生まれる。
ヒューマノイドにしか、そういうケースは生まれない。
ちょっとフクザツな気持ちになったお話でした。
須堂と話したAI医師の笑いは、人間に対するヒューマノイドの優位性からだったのか。
それとも、人間には届かないヒューマノイドの限界をさげすむ嗤いだったのか。
あと・・・、AI医師のそれらしい治療と、詐欺集団のだまくらかしと、どこがどう違うんだろう?
{/netabare}
6話。
{netabare}
今回は "ケア" がテーマ。
"覚えるくん" ってダサすぎるネーミングは、実は単なる焦点はずし。
弟子入りさせたいだの、記録を残したいだのは、研究者の口八丁の嘘八百。
だって22世紀後半に、鎌だの包丁などにどれほどの需要があることやら・・・。
ドラえもんの4次元ポケットから22世紀の包丁が出てきたのを見たためしがありません。
そんな時代の職人にとっては、己が技能が AIロボットに劣ることは百も承知。
産業用AIロボットの技術的到達は、人間の熟練工の技量をはるかに上回っているため、今さら製造技術の継承などが目的なんかじゃないはず。
なれば、テーマの "ケア" とはいったい何を指すのか?
一人の人間の技術は、40年、50年と精進することで到達できる領域があります。
思うにそれは、匠たる才気であり、貫徹するプライドではなかろうかと。
つまり "心の技量、魂の力量" へのリスペクトはどうあるべきかってことなんですね。
そこにフォーカスを当てているのが "FUJISAN" をコードネームに持つ "覚えるくん” なのですね。
なぜ "富士山" のネームなのか。
それは誰がどこから見ても非の打ちどころがなく、羨望と感動を呼ぶ姿に由来します。
ユーモアのひねりで "不似山" と書き変えてみるのも面白い。
誰とも似つかない日本一の高みに至った職人の位へのサポートプロジェクトと捉えてみれば、心もそれなりに爽やか?です。
覚えるくんの "覚" は、覚る≒悟る、覚める≒醒める、覚える≒信任するの意を持っています。
それは、長く道を歩んできた職人さんにぴったりの一字ではないでしょうか。
そんな匠の品位に寄り添わず、無下のままにしていては日本文化の名折れ。
それほどに鍛錬された心技体には、輝きが灯されていなければいけない。
覚えるくんの使命は、そのための"ケア" なんじゃないかと私は感じます。
廃業する以外に選択肢を持っていない頑固な鍛冶職人に、消えかかっていた魂の輝きを取り戻させ、若かりし頃の情熱を燃え上がらせることが彼の任務の本質(=ケア)。
そして AIの技術の発展に、心を許してもらえたらという科学者と上位AIの願いが込められていたように感じます。
覚えるくん。
クールな視線と風貌にヤケドの痕は痛々しいけれど、匠の尊厳を支える理知と熱量はその何十倍もアツいのかもしれません。
~
パーマくん。ちょっと面白いネーミングです。
由来としては、"頭の意匠" のように感じますが、私は Parma ではなく Parmar ではないかと感じました。
その意味は "巡礼者、巡回する者" です。
全国各地の学校をたくさんのパーマくんが訪問しているそうです。
彼の役割りも "ケア" だとしたら、目的や対象は何でしょう。
思うに、彼はロボット然とした似姿ですから、人間とヒューマノイドのそれぞれから、等距離にいられる立場性です。
どちらでもありどちらでもない立ち位置ということは、双方への忖度は無用で、よりフラット、よりピュアな反応をモニターできるということです。
そのデータは上位AIに蓄積され、ひいては人間とヒューマノイドのより良い関係性づくりに寄与するのが彼の使命なのでは?
あるいは、未来の安心につながるビジョン、安全なコミュニティーにフィットするシステムを開発するのが目的なのでは?
一定期間で卒業(転校)してしまうのも、同世代のモニタリングを何回とこなすための方策のように感じます。
つまり、パーマくんは、これからのケアに求められる情報を収集し、トータル的にアップデートするための仕込み用ロボット(本当は、超高性能 AI なのかも!)というシナリオだったのではないでしょうか。
のび太くんに対するドラえもんの振る舞いは、まさにこれと同じもの(=ケア)です。
まぁこの場合は、子孫からご先祖さまへの心遣いという、もう一段階ぶん高次のSF要素が盛られていますが。
というわけで、言わば、ドラえもん誕生の前日譚を描いたものだとも取れなくもないですね。
まとめとしては、ネーミングや見た目のバイアスから生じる認識の齟齬をチクリと突く、ちょっとしたヒネリが面白い試み回。
そして、そんな近未来の愛の豊かさを、人間の研究者が上位 AI に示そうとした(≒ 近未来SFのベクトルを、原作者が視聴者に示した?)初めての試み回でもありました。
これは蛇足ですが、今話の構成の狙いを、Aパート→Bパートではなく、Bパート→Aパートとひねり返して読み解くと、より自然に理解が進むのではないかなぁと思っています。
{/netabare}
7話。
{netabare}
今回は、AIのウィークポイントがテーマかな?
今どき、世間を騒がしている画像生成やチャットGPT。
あたかも、人間を超える才能や人格があるかのように報じられ、危惧もされています。
大規模・高速計算の有用性は、そう感じさせる効果を生み出します。
オンデマンドに求める利便性をくすぐり、期待感には幻覚と利害さえふくらみます。
でも、さすがに人権までは賦与されてはいません。それはデリケートすぎます。
人権を求めてくることもありません。それは図々しいです。
AIは、人間とは全く別物の "道具" なんです。
AIそれ自体は、主体性も主意性も、微塵も持ち合わせていません。
だって、AIには人間に特有の "自己保存の欲求" がないからです。
当然、自己承認欲求もドライなまでに皆無ってわけですね。
~
ところが、AIがヒューマノイド化されるとあら不思議。
古今東西、かくも不思議なのは、決まって感情を持ち、心の在処を求め始めます。
生老病死は、本来なら人間だけの特権の筈ですが、それさえ追い求め、自己実現していきます。
MICHIって、どういう存在なんだろうと興味津々です。
ヒューマノイドをこれだけ人間に寄せるなんて、上位にある超AIの意識性ってどこを向いているんだろう。
その基底部は、きっと人間と極めて同質の不確定性みたいな要素を抱えているんじゃないかしら。
ここまで人間に近いということは神にはなれそうもありません。それは愚かすぎです。
なるつもりがないということかも知れません。それも身勝手なような・・・。
10%の意味は何でしょうか。
~
今話も、AIヒューマノイドって本当に人間らしい、人間くさいものとして描かれています。
それくらいMICHIの思想は人間の本質に寄せているってことなんでしょうね。
もうほとんど人間と変わらない。呆れるほど変わるところがありません。
AIを人間に似せるほど、人権への評価がウイークポイントになるような気がします。
ネグレクトは許せないからと人権擁護で暴いたら、別のネグレクトが噴き出してくる。
クレーマーを捌く方法としてくさい演技をマニュアルに落とし込むなんて、AIのアイデンティティーが揺らいでしまう。
人権への評価は多種多様であり、それにアジャストする手法も通り一辺倒のようにはまいりません。
何が正解かとも言い切れるものではありません。
今話のタイトルは「人間」です。
いったいどんな違いが、AIヒューマノイドにあるのでしょう。
それとも何の違いもないAIヒューマノイドで構わないってことなのでしょうか。
~
須堂の母親は、自分の人格をコピーして(他人に譲り渡して)います。
それって、固有なはずの人権を手離したってこと。
自分で自分の社会的存在を抹消してしまったということですよね。
母親を出所させるにはコピーを探し出し抹消しなければなりません。
でも、コピーされた人格にも、きっと家庭があり暮らしがあるはずです。
人権は、極めて汎用性の高い概念性を持っているし、個別的で固有性のものとして規定もされます。
21世紀の社会問題が22世紀になっても解決されない描写と、22世紀ならではの新しい社会問題の描写。
現代でも、人権の取り扱いは曖昧で、いい加減で、認識の齟齬があります。
そういう事案を AIヒューマノイドにも付与するなんて、いったいMICHIは何をどうしたいのでしょう。
須堂もどう解決するつもりなのでしょう。
~
今回は、クレーマーへの怨憎会苦(おんぞうえく)と、ネグレクトによる五陰盛苦(ごおんじょうく)が描かれました。
まだ描かれていないのが、求不得苦(ぐふとっく)。
求めるものが手に入らないという苦しみです。
それはそれでどんな実相を見せてくれるのか、少しは期待してもいいでしょうか。
{/netabare}
8話。
{netabare}
リピートするもの、できぬもの。
バレンタインデー。
20世紀から連綿と続く "チョコレートの販売促進日" なる伝統行事。
業界と消費者との持ちつ持たれつも、そろそろ200周年を迎える頃あいなのは微笑ましいけれど、悲喜交々なる告白が相も変わらずリピートされているのはそれほど微笑ましくもなく・・・。
超AIのMICHIも、個別仔細の処方箋は、モッガディートに一任している気配?です。
今話のキーパーソンは、外見も性自認も性的志向も、女性性のAI、レオン(リサ曰く、サバちゃん)。
彼女の悩みは、電脳回路に生じる "モヤモヤムラムラ" な恋愛感情の取り扱い。
トロリと蕩けたい熱情とヌルリと溶け合いたい欲情がある一方で、ドライに割りきれぬ未練とバッサリと切り捨てたい鬱屈です。
生殖に能わざるを "合理性" と言い訳する彼女ですが、自然発生する好意感情の抹消という選択は、果たして22世紀のヒューマノイドに求められる生き方なのでしょうか。
言い換えれば、端から子孫繁栄の任のないヒューマノイドなのですから、レズビアンに後ろめたさを感じる理由がいまいち分かりません。
たとえレオンが誰が好きであっても、ヒューマノイドが実存する価値がコミュニティーとの共生にあるのなら、生と性の根源とも言える "人を愛する気持ち" を蔑ろにはできない筈なのでは?
人間ともども、幸せに生き、幸せに年を取ることがその実存の根底にあるのなら、結婚だけがゴールではないし生殖だけが目的でもない社会観が200年後に醸成済みてあってもいいのではないかと思います。
~
本来、レオンの主意は、医療による感情の抹消という、表層的、対症療法的な施術では解決しえないものです。
AIの人格が実存する意義を問うという観点なら、もっと根源的、根本治療的な処方が必要で、それはソーシャルスキルやソーシャルコミュニティーの寛容性の構築や醸成に向かうはずです。
人生の何気ないイベントに、言葉を何気にリピートして、何気に相互互恵的な関係性を積み上げていく日常の繰り返し。
そんなコミュニケーションのなかに、いくらかでも夢見心地を感受しあえるなら、バレンタインデーも罪作りにはならないでしょう。
須堂は、モッガディートとしてはレオンの主意を尊重しつつ、フレンドシップサポーターとしてはリサの趣意を喚起しています。
それって、ヒューマノイドが人間に似せて造られた意味と価値そのものを問いかけているんですね。
~
リピートするもの、できぬもの。
SFに語られるのは、いつだって人間の遺伝子が実存する可否と是非を問いかけるシナリオです。
なんならそれは、壮大で、繊細で、観念的で、肉弾的。
" I " の語源は "ego" です。
それは一瞬に流れていく時間に、自身に内向する実存への欲求を、外向する世界に紐づけ、刻み付けることです。
人格は、理想とする人に至る(≒仁に格る=本質に行きつく)プロセスを言い、人権とは、同じく個人と社会との重さを釣り合わせることを言います。
地球に生きることは、相互愛、互恵愛そのものを証明し続ける試み(=リピート)です。
すなわち、"愛とAIと私らしさ" の追求は、おそらくは今も200年後も、それぞれに挑戦しがいのある、極めてSF的で、かつ切実なテーマなんじゃないでしょうか。
{/netabare}
9話。
{netabare}
思考を強いられたり、論考を促される作品は、取り扱いが難しいです。
シナリオや設定が、完全にフィクションであるなら、個人のレベルでアジャストすれば良いだけです。
リアルに寄ればよるほど、むしろ厄介さが増すわけで・・・"正しい社会" なんて、ねぇ・・・。
まぁ、その理由は明白なんですけどね。
それは、時代性と当事者性が、浮き出してくるからです。
自分自身の "ポケット" っていうことですね。
9話はそんな内容でした。
~
「教育に、これが正解、というものはない。」 そう思っています。
人間の発達は多様であり、形成される個性もまた多彩であるからです。
教えるのも学ぶのもそれぞれ別の人格ですから、新しいケミストリーが生まれてくるのは当たり前。
公式や解法は基礎としてあるけれど、高次になればなるほど応用も答えも単純ではなくなります。
だから、教え方も、育ち方も、人それぞれの言葉だったり、振る舞いだったりになります。
それが、進化する社会と、生物多様性へのアプローチの本質だと思います。
そこに、AIが割って入る時代になりました。
ヒューマノイド型(生殖以外はほぼ人間)の捉え方は・・・そう、なおさら難しいもの、ですね。
~
正解の正は、「一(いつ)に止まる」 と書きます。
「一」 とは何でしょう。
「画一」、「均一」 なら、"同じ" という意味合いです。
「純一」、「万世一系」 と使うなら、"交じりっ気のない" です。
留意点は、それらはある立場から見た特定の世界観、ある立場にとっての便利な言い回しだということ。
利器としての言葉や文字は、たやすくバイアスを形成させる武器にもなります。
だから、何気に安直に使うのではなく、本当の成り立ち、つまり、先人の試行錯誤を忘れないでいたく思います。
本来、「一」 は、"1月1日の日の出の頃合いの水平線" のことを言います。
転じて、「正」 は、"常に原理原則に立ち戻り、初心を忘れることなく、身体に止め置く。" という意味合いになります。
昼の「一」 は、空と海との境界線を明示し、観測と思考とを先へ先へと旅立たせます。
夜の「一」 は、地球と宇宙の混然一体なるを暗示し、星座を依代として妙なる神性が降ろされます。
そこから発せられるのが想像と創造としてのアニメーション文化。
寄せる波のように、生成化育を繰り返していくものなんですね。
今は幼い子どもたちも、やがては時代性を映す鑑になっていきます。
画一化され、均一化されがちな社会への立派な批評者と育つのでしょうね。
ちなみに、正解の「解」は、"不明を明らかにする" のほかにも、大切な意味があります。
それは、 ”束縛から解放されて自由になる” と、 ”気もちが和らぐ、解される” です。
現代に当てはめれば、"SDGsの思想" につながると思います。
~
国連の推計では、現在、地球上に80億人の人が生きているそうです。
2050年頃には、100億人に達する試算もあります。
本作は、人口比で10%のAIヒューマノイドが設定事項です。
おまけに、産業用AIロボットも存在しています。
そんな社会が、なにゆえにでき上がったのか。
どういう理由で、人間はそういう暮らしを選んだのか。
人間が、MICHIを存在させ、共生している理由を知りたいと強く思います。
1868年、1945年と、たくさんの血を流して、日本はまさに新世界を手に入れました。
藩が取り壊され、日本が消滅しかけた時代性を学ぶことが、今、重要かもしれません。
AIは、世界に何をもたらすのか。
AIロボットは、暮らしを一変させるのか。
AIヒューマノイドが人間そのものなのはどうしてか。
MICHIに内在する AI=愛 の概念とは何でしょう。
わたしは、その認識の齟齬の真っただ中にいるようです。
{/netabare}
10話。
{netabare}
出自コンプレックスとともに生きる。
ヒューマノイドが人間にコンプレックスを感じるとしたら、一つには出自ではないかと思います。
もう一つは、マジョリティー側にいる人間との自己同一性の追求かな?
彼らもまた、社会との繋がりと、自己の存在性を自問し、試みているのですね。
その営みは、生命倫理や社会進歩といった人類理知性とは別の次元の、生命の起源の絶対領域に遡るようなものなのかも知れません。
毎話、冒頭で、AIの赤ちゃんが描かれますが、卵子や精子の細胞を電子化する技術は完成済みなのか、未到未達のものなのか。
無機質にも見えるその赤ちゃんは、果たして愛に包まれているのでしょうか。
MICHIは、愛の育みをどう考えているのでしょうか。
~
今回は、命を奪う、魂を救う二つの役回り。
そんな両極端なヒューマノイドのお話です。
五本木は、ヒューマノイドのくせに、MICHIに反旗を翻し、己の選択と信念を疑いません。
超AIの系譜を引くAIのはずなのに、電脳回路のどんな改組が殺人へと向かわせたのでしょう。
とは言え、生命倫理の概念の形成はMICHIの領域にはなく、個々のヒューマノイドの自由意思に委ねられているっていうのもすごい社会です。
ただ、五本木のように、あまりにも過度な欲望に囚われてしまうと、他者の人権を蹂躙することにためらわないのでしょう。
ヒューマノイドの振る舞いが人間と変わるところはないのが前提の本作です。
余談ですが、令和4年の死因の "他殺" は "213件" とあります。(厚労省、人口動態調査より)
本作のヒューマノイドの人口比は10%のようですから、計算上は約21人が彼らの犯行とも言えそうですが、これをどう捉えるかの判断と評価は分かれるでしょう。
「一人を殺せば殺人者だが、百万人殺せば英雄だ。殺人は数によって神聖化させられる。」
ナチスのヒットラーに対するチャップリンの批判です(殺人狂時代、1947年)。
電子メスの腕前は折り紙付きの五本木。
包丁の扱い方を誤るとは、"覚える君" に弟子入りしなきゃ、ですね。
~
スピリチュアルもAIの生業?
日本ほど宗教が入り乱れて存立している国はほかにはないでしょう。
まさに八百万の神の住まうお国柄の超高度AI、MICHI。
勅使河原もさすがによく分かってる。
それにしても生と死とを連続したものと説く概念は、人間はともかく、ヒューマノイドにも必要なニーズだったんだと思うと、ちょっと可笑しくなります。
だって、身体のパーツを交換したり、感情さえスイッチ一つで切り替えられる彼らが、AIの理知領域に死後の世界を不安がる要素があるなんて。
超AIが魂を導くなんて勅使河原のご高説、ブッダやキリストもさぞかし驚かれたことでしょう。
人間はその時々において、神仏を求めたり排斥したりするのが常です。
勅使河原もまた、超AIにそれを写すしかないのでしょうか。
あるいはそれで "戦おうとしている" とも見えるのですが。
この奇妙な相似性こそ、AIのディープラーニングに導き出される "来るべき社会" の解答なのかも知れませんね。
{/netabare}
11話。
{netabare}
紋の意味。
脳紋。
パスワードなどの記憶の出し入れという煩わしさから解放してくれるその技術は、そう遠くない時期に実用化されるはずです。
例えば、ATMで出入金する際の、個人認証システムへの活用などです。
電極を埋め込んだイヤフォンを耳に当て(聴覚による刺激とその反応)、ATM画面に表示される認識番号を見る(視覚的刺激による反応)ことで発生する "脳波の変化がそのままパスワードになる" という技術。
さらに、脳紋は、異なる精神的活動を用いれば、更新することができるそうです。
だから、仮にコピーされても、セキュリティーを再構築すれば、サイバー攻撃にも対応できるみたい。
おぉ~!それってかなり近未来的じゃないですか。
私も、早々にお世話になりたい気分ですよ。うん。
~
そうは言っても、双子の場合は、その技術は使えないそうです。
なぜなら、双子の脳波は、ほとんど同じ反応パターンを示すからなんだそうです。
トゥー・フィーの電脳は、樋口リサのコピー。
人間なら双子の姉妹として "合法的" と認められるわけですが、ヒューマノイドでは許されません。
生まれも育ちも人格も別な彼女たちですが、コピーした側の権利は、社会的に抹殺されてしまいます。
この二人、人間と見なすなら、生まれ年は違うけれど、内実は双子ってことですよね?
そう考えれば、やっぱりこれは異常な事態です。
そう思うと、トゥー・フィーの父親は、かなり恣意的に違法行為を行なったということです。
トゥー・フィーは、その被害者でありながら、無責任な父親の尻ぬぐいを取らされる "二重の苦しみ" を背負うのですね。
子どもは、親の玩具なんかじゃない。
~
須堂の母親は、電脳的には二人存在しています。
ということは、思考性は同じで、人格的には別の母が、須堂の "もう一人の母" ということになります。
このシチュエーションを整理するのはちょっと難しい。
遺伝子学的には、双子の姉妹を共通の母とする、異母兄弟ってのに近いのかな?
でも、須堂は一人っ子みたいだし・・・。
もしかして・・・、もしかしたら・・・、MICHIって、そうなのかもって仮説もありなのかな?
それって、遺電子的には十分に起こり得るシチュエーション。
須堂は、コピーした側の母と、超AIでもあるMICHIに、どう向き合い、対処するのでしょう。
ようやく、次回が、ちょっとばかり楽しみになってきました。
いつだってクールに装う須堂ですが、その "紋" にうべなう彼の感情の波と、表情の乱れを、ぜひ観てみたいものです、ね。
{/netabare}
12話。(まとめ)
旅立ちの "先" 。
残念ながら、"先" につながる "2期の告知" はありませんでした。
時間をかけて観てきたことを思うと、この閉じ方にはちょっと消化不良ですね。
でも、トータルとしては、思っていた以上に面白く観られました。
少年誌がベースですから、これくらいの緩さが塩梅としては好ましく感じます。
既存の科学技術の知見を参考にしても、予見できる世界観は想像の域を出ません。
社会科学としての未来予測性はもちろんのこと、人文科学であれば振れ幅は相当にあってもいいと思います。
未確定の技術の応用、未確立の社会的価値、未知の人間心理を織り交ぜた作品です。
当然、過去の諸所の作品に照らし合わせれば、「おかしくね?」と評されるのも、「ありよりのあり」です。
~
でも、本作は、そういう諸々を前提にしたうえで "別の提言" が潜ませてあるように思います。
ひとつは、産業用ロボットや、ヒューマノイドの存在意義を、倫理的な比喩として用いていることです。
倫理というのは、善、行動規範、道徳的言明という意味ですので、人的な価値観ということになります。
となれば、人によって相当に受け止め方の違いがあるでしょう。
その違いがあることを前提にして、"人非ざるものの価値とは何か" と説いています。
人の生き方をサポートしたり、業務を請け負ったりする技術を、社会はどう捉えるのか?
それらの想定を目前にしながら、いまだそれを深く学んでいない我々なのではないか?
「便利ならトニカクOK!」とひと言で括ってしまう是非を、"アイロニック(皮肉を込めた)な問いかけ" として視聴者に向けているかのようです。
例えば、医療用AIは、最善の治療効果を進言するかもしれません。
でも、最高の人生まで担保してくれるのかは、だれにも分かりません。
例えば、ベッドで添い寝する産業用ロボットは、最良の一夜を共にしてくれるかもしれません。
でも、最愛の伴侶として、人生を彩ってくれるのかはまた別の意味合いがあるでしょう。
ヒューマノイドが悩むのは、人非ざるものが、人として認められているからです。
人権が与えられているという設定は、そういうことなのです。
ですから、鑑賞の前提としてそこにひっかかるとなると "あら、まぁ!" としか言いようがありません。
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もう一つは、本作を、「ありよりのあり」とするか、「ありえない、くだらないもの」 と捉えるかで、視聴者の心に潜む "人権感覚だったり、人権意識だったり" をあぶり出してきます。
すでに、そうなっている社会であることを、作品として受け止められるか、そうでないか。
2023年から枝分かれする150年後の世界線の一つとして、受け入れられるか、できないか。
これって、一見すると時代の設定こそ違いますが、人権という観点で俯瞰すると、同時代的なんですね。
須堂はリサに「似ている者同士、助け合ってもいいんじゃないか?」と話しかけています。
当然のこと、彼の言葉の意味が、視聴者自身の世界観にかかってきます。
本作各話のディテールは、今の技術革新が予測する未来の可能性を、世界観の一つとして視聴者自身の "見識" に上書きしてくるんですね。
もちろん、それぞれの受け止めは自由です。それは大事なことです。
でも、共生しあうことへの不寛容性や、前述した人権意識の情弱があるとしたら、リアルにも深刻だなぁと思います。
つまり、人間を頂点とする今の世界の構造にも、何らかの悪影響が起きてしまうんじゃないかって思います。
現に、戦争や民族紛争、人身売買(特に子どもの)などは日常的に起きています。
なぜそんなことが当たり前のように起きるのか、いかに人権意識が損なわれた時代に生きているか、その事実と実態から学ぶ必要があるようにわたしは思います。
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AIやヒューマノイドがいる日常で、彼らとどう手を取り合うのかが本作の主旨です。
そもそもであれば、知能的、肉体的には敵いっこない彼らでいいはずなのです。
そうでないのは、人間との共生というテーマが大前提にあるからこそ、悩み苦しむ遺電子が、彼らの電脳にアンチテーゼとして埋め込まれているようにも受け取れます。
そんなとき、人間は、何を以って彼らの弱さを受け止め、彼らを強さへとサポートすればいいのでしょう?
想定さえ難しいテーマでしたが、AIやヒューマノイドを、今の80億人を超える人間に置きかえるだけで、答えは見つかるとわたしは思います。
なぜなら、本作の前日譚となるだろうネタが、そこかしこに見い出せると思うからです。
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にしても、MICHIの自己改修計画がどんな意味を持っているのか、それがよく分かりません。
もしかしたら、MICHIの、MICHIによる、MICHIのための、自己 "回収" 計画なのかもって、勘繰ってしまいます。
リサは「ヒューマノイドは、人間に似せてないと社会に受け入れてもらえない。」とこぼしていました。
このあたり、相も変わらず蔓延っているルッキズムやディスコミュニケーションのありさまを、鋭く突いているようにも思えます。
愛情と認識の齟齬、あるいはその試みの物語。
それは、自己改修(回収)の物語でもありそうです。
原作は未読ですが、後日談の作品が刊行されているようです。
ちょっと読んでみようかなぁ。