ナルユキ さんの感想・評価
3.6
物語 : 2.5
作画 : 4.5
声優 : 4.0
音楽 : 4.0
キャラ : 3.0
状態:観終わった
「騙されて良かった作品」の域には達していない
“血染めのハエたたき”で下ろしていた幕を再び開けたアナザーガンダムの最新作続編。
悪い予感は的中するもので、やはりスレッタに自分が殺った事の重大さをいまいち理解させないままミオリネとの距離を物理的にも引き離してしまっており、2人の愛の物語は停滞もしくは幻想入り。一、百合ファンとしては至極残念な展開だ。
その分、アーシアン(地球人)とスペーシアン(宇宙進出者)の軋轢の激化、その内アーシアンとの繋がりを見せたシャディク・ゼネリと2人の地球産ガンダム乗りの暗躍、対してプロスペラが進める『クワイテッド・ゼロ』という謎の計画、そしてボブ(グエル)の行方と再起などを描いていくのだが────少し要素がとっちらかり過ぎではないだろうか?
本作のキャッチーな要素(学園、百合など)に惹かれて漸く初めてシリーズに手を伸ばしたガンダム初心者の私としてはもう少し、シンプルな物語を描いて欲しかった。
【ココがひどい:登場人物こんなに要らなかった問題】
ガンダムシリーズとしては普通もしくは少ない位だとは聞くのだが、私の感覚としては登場人物が多過ぎるし、非道いことを書くが毎度「戦争」をテーマに扱うらしいシリーズにしては本作はキャラが長く残り過ぎたな、と思う。そのせいで様々なキャラの動向を終盤まで気にかけねばならず、最期まで物語に没入できない要因となってしまった。
{netabare}ソフィ・プロネはあんなに早く死ぬんだったら最初から要らないよねと思ってしまう。1st11話ではいかにもスレッタのライバルキャラに見えるよう登場していたのに、そこからたった3話で再戦・後死亡なのだからどうにも「使い捨て」感が漂う。
ソフィが死ぬことによって相棒のノレアがストレスを溜め込み2nd8話(20話)で爆発させる、“ガンダムの呪い”による死亡者を出すことでそれでは死なないスレッタの謎へさらに迫るという効果は確かにあるものの、そのために1キャラ使い捨てる、そして使い捨てのために余計に1キャラ増やすというならば、そのノレアや既出のエランシリーズなどもガンダムのパイロットなのだから、ソフィにあった要素を兼任させても良かったのではないだろうか。{/netabare}
【ココが謎:結局データストームって何?】
1stまでは「人体に有害な電子的物質」として観ていたのだが、本作では話が進むにつれて様々な意味合いと要素が追加されていく。ミオリネ・レンブランとプロスペラ・マーキュリーの会話を抜き出してみよう。
{netabare}プロ『データストームのことはどこまで?』
ミオ『ガンダムの呪いの根源でしょ』
プロ『人間にとってはね。けれどあの現象には既存のネットワークと違う“超密度情報体系”を発現できる側面があるの』
ミオ『超密度?』
プロ『あなたも見たはずよ。エアリアルが決闘で相手を度々“オーバーライド”していたのは、それが理由』
ミオ『じゃあ“クワイエット・ゼロ”って…』
プロ『データストームを利用して、パーメットリンクを介したあらゆるシステムを制御する新機軸のネットワーク構想。エアリアルはそれを起動するためのトリガー』{/netabare}
何とも専門的で、1度流しただけではすんなりと呑み込めない会話内容である。これを理解できるのは相当、ロボットやSF作品に精通している者に限られるのではないだろうか。
『超密度情報体系』という言葉を検索すると、本作の切り抜き以外に東大や厚生労働省などのレポートが出てきてしまったので諦めた(笑)
一方『オーバーライド』という言葉は一般的なIT用語としてあり、端的に書けば「より強い権限による命令の上書き」。本作における「強い権限」とは『パーメットスコア』を指しており、1st時点でパーメットスコア6に到達したスレッタ&エアリアルはエラン4号やシャディクとの決闘でも相手のガンビッドや対GUNDフォーマット兵器『アンチドート』を無力化して勝利した、ということを言っている。
{netabare}『クワイテッド・ゼロ』はこの拡大版であり、紛争が絶えない本作(ガンダム)の世界に蔓延る全ての兵器を1人(デリング主導で進めていたらしいからベネリットグループかな?)が独占・支配して「世界平和(世界征服)」を成し遂げるという計画だったのである。{/netabare}
これらの要因が、今までは「人体に逆流して負荷をかける物」と説明されてきたデータストームにあり、そのデータストームは人体と機体の接続を意味する『パーメットリンク』で初めて言及されていた────じゃあデータストームって結局何なの?という疑問が浮上してしまう。
{netabare}『(エリクト・サマヤは)データストームのその先で私達を待っている』{/netabare}
こんな台詞も飛び出し、いかにも場所や空間、はたまた概念のような意味の含みまで持たせてしまっており、本作を1周ただ観るだけでは大きな混乱を招いてしまう。
【そしてココがつまらない:主人公は誰?グエルとスレッタの尺の取り合い】
まあこのように話をいまいち理解できない人や登場人物の名前を覚えきれない人は、そうできないなりに主人公の活躍のみに注目すればいいのだろう。
しかし、本作における主人公はスレッタ・マーキュリー────とは言いきれず、さしずめ“グエル寄りのスレッタ”と称するに相応しいくらいになってしまっている。
スレッタとミオリネの仲はどうなってしまうのか?
母親の操り人形であるスレッタに今後、どんな運命が待ち受けているのか?
そして何故スレッタは“ガンダムの呪い”に脅かされることがないのか?
これらの疑問や注目点が一段落もつかない状況で2nd3話(15話)のようなガッツリグエル回を挿入したり、{netabare}終盤のスレッタたちがクワイテッド・ゼロを止めようとしている外野で暴走した弟と兄弟喧嘩をしたり{/netabare}するのは非常にテンポが悪かった。
勿論、誤って父親を殺めてしまったグエル・ジェタークの展望も気にはなるのだが、本来の主人公であるスレッタとはいる場所も立場も異なる人物に長時間フォーカスを当ててしまうとそれだけ尺が無くなり内容が詰まるため、視る人の多くが本作に「慌ただしい」「ごちゃごちゃとした」印象を抱いてしまう。この問題を起こさないためには本来、しっかりとした脚本の「構成力」が必要なのだが、どうも本作にはあまり備わっていないようだった。
結果的にタツノコプロの周年記念作品でありながら大体「駄作」と評されるロボット戦争アニメ『エガオノダイカ』と似たような“ダブル主人公”構成も見せてしまっている。
{netabare}提案をするなら、グエルはスレッタとの決闘前に初めて再登場。視聴者に「今までどうしていたんだ!?」と注目させてから15話の内容を流す方がまとまりが良かったのではないだろうか。{/netabare}
【ココもつまらない:成長が伸び悩むスレッタ】
ただ仮にグエル周りを巧く調節してスレッタを立てたとしても、彼女は主人公として「自立」はしないのだろう。本作で判るが彼女は主人公として視るとキャラが弱い。そしてあまり強く育たなかった様に思う。主体性や大目的が────無いわけではないのだけれど劇中で強く感じ取ることが出来ず、状況に流されて埋もれてしまっている様にも見えてしまう。
{netabare}スレッタは『テイルズオブジアビス』のルークと同じだ。外の世界とそのしがらみを知らずに育ち、価値観・倫理観を親レベルの人間に預けてしまっている未熟な子ども。そんな主人公が様々な冒険や出来事を経て「自己」を確立し、実は悪だった親と対立する。概ね筋書きは共通しているのだけど、水星の魔女の物語はあまり彼女に「成長過程」を与えなかった様に思える。シャディクやプロスペラの野望や彼らの起こす事件で畳み掛けて過程をすっ飛ばしてしまったことで、例えば「親に『進め』と言われたからって人を殺していい筈がなかったんだ。だからミオリネさんは『怒ってない』と言っても怒っていた。私を拒絶した。私はなんてことをしてしまったんだ」というようなわかりやすい反省や後悔というものが劇中、ハッキリと描かれていないのである。{/netabare}
グエルの絶望と再起がわかりやすくて熱い分、スレッタの心情描写がよくわからないことにも大きな影響がある。
{netabare}ミオリネに裏切られたばかりなのに学園生活で空元気に『やりたいことリスト』を埋めていく────というのもミオリネにそうするよう言われたのなら「まだお人形感が抜けてないな」ということがわかるし、逆に母親の操り人形であることを痛烈になじられた後なら、スレッタが自分で決めた「やりたいこと」に執心することで密かに反発していることがわかる描写になるのだけれど、単にあらすじの通り『悲しみを振りきるように~』とか『強がって結果を受け入れたフリをしている』というのが理由では、この時点では正体のつかみ所がない彼女を描写したにしては随分と底が浅く感じる。
仮にそうやってミオリネ関連に心の整理をつけていたのだとしても、エリクトとプロスペラに「自由」と称して捨てられて以降は一転して引きこもってしまうあたり、自ずとスレッタの「優先順位」というものが描写されてしまったのも残念なところだ。
そしてどんなに打ちのめされても人間は生き物、食欲には勝てない。それは判るのだが、何も切欠もなく消灯された冷蔵庫を漁ってつまみ食いしているところからなし崩し的に復帰────という流れには思わず「おう、意外とメンタルずぶといじゃねえか。涙返せよ」とツッコんでしまった(笑){/netabare}
結局、スレッタの人を殺した罪悪感が薄いまま物語が終わったので彼女がしっかり成長できたのかどうかがわからない。「変わったよね」と声をかけられていたけどとてもそうは見えなかったし、 仮に成長できていたとしても、そのパターンはグエルの後追いでもある。
【他キャラ評】
ミオリネ・レンブラン
血染めのハエたたきを間近で目撃したからか、幾分かお花畑思考に変心。スレッタからエアリアルを取り上げたり、激化したアーシアンのデモ活動の解決に乗り出したりする。
{netabare}血は争えないという一面と、まだか弱い少女だという一面の両方が推し出されるキャラクターなのは1st時点で織り込み済みなのだけれど、それでもブレのある印象と、スレッタの身を案じてわざと婚姻関係を断ち切った際のワードチョイスに残念感を抱いてしまった。
前述したが、ミオリネの言った言葉によってはその後、スレッタが『やりたいことリスト』に打ち込む意図を深く考察できる材料になるやも知れなかったのだが、それが単に『弾除け』だの『水星のお上りさん』だのという冷淡な悪口では「やっぱデリングの娘なんだな」以上の感想が出てこない。{/netabare}
ラウダ・ニール
『あいつのせいだ……ペトラも、学園も、兄さんが変わったのも……!』
{netabare}『殺してやるぞミオリネ!!』
まあ下の台詞は言っていないのだが、一見無関係な人物に殺意の矛先を向けてしまうともれなく『ボボボーボ・ボーボボ』のパロディと疑われる。仕方ないね
この展開のおかげで本作はTwitter(現在名:X)でまたまたトレンド入りする程SNSで沸き立つのだが、冷静に考えると企業間戦争や貧富の差による軋轢なども描くシリアスなロボットアニメが、ギャグ作品と同じくらい酷い展開を描いたとも言えてしまう。
元を正せば兄・グエルをおかしくしてしまった(恋に落としてしまった)のはスレッタの方であり、彼女が学園に転入し、グエルに決闘で勝利してからが彼らジェターク家(社)のケチの付き始めだ。だがラウダはランブルリングでスレッタらに助けられて以降、もう彼女を敵視しないよう努めている。この点は偉い。
しかし、じゃあ消去法でミオリネを──となればそれはより大きな逆恨みであり、せっかく上放れしていた株も笑いと共に暴落する。再び掌を返してスレッタに憎悪を抱き、ジェターク社製ガンダムで以て彼女に立ちふさがった方がまだシナリオとして整合性があったのではないだろうか。{/netabare}
【総評】
ストーリーは理解できるし映像も綺麗で戦闘作画も迫力がある、けれどいまいちその雰囲気に乗り切れない作品だ。物語に対して「こうなってほしい」という希望が出しづらく、どんな展開を期待して話を追うべきか回を重ねるごとにわからなくなってしまう。
登場人物各位の言動・行動には(逆恨みを除けば)これといった破綻は見られないものの、人数が多く減りもしないが故に彼らの主張が十数パターンも見られて把握に苦労する。そもそも1stから御三家とスレミオの四つ巴状態が継続しているのだから、その勢力図に新たな勢力を披露したり存在を匂わせたり、或いは既存の勢力を細分化したりする前には、これまであった勢力を1つでもきっちり潰したり巧妙に隠しておかなければ話が複雑を通り越して混沌化するのは自明の理だ。
軸が何本も(スレッタ、ミオリネの他にグエルやエラン5号も)立っているという肯定的な見方もできるのだけれど、太い「主軸」が無いために軸毎の満足感は大きく欠けてしまう。
呪われしMS・ガンダムという評価を覆し、GUND-ARMを正しく安全に運用していく話なのか。
地球人と宇宙進出者との格差を是正し世界を平和に近づける話だったのか。
はたまたスレッタやミオリネが大人になり、性差を乗り越えて結ばれる話だったのか。
「全部ひっくるめて『機動戦士ガンダム 水星の魔女』という作品なんだ」と欲張った結論をつけるには、どうにもパンチが足りない。
{netabare}終盤のやっつけ具合がそれらに拍車をかけている。表面的には主人公・スレッタが初めてガンダムの呪いを受けながら、ずっと共にいた姉妹同然の存在・エアリアル(エリクト)に立ち向かい母・プロスペラの計画を阻止するという熱い展開を描いているのだけれども、それが本作のガンダムのあり方や貧困に堕ちた地球の救済に決着を着けるにまで関わっているかと考えたらそれは違うのである。なので後からベネリットグループの総裁代理となったミオリネがいつの間にやらグループを解体して資産を地球側の企業に渡すという発言1つで丸く収めた様にしたものの、現実的側面に当てはめて結局、その場しのぎにしかならなかったことも描き「様々な問題を片づけるのはこれからだ」という俺たたエンドに近い形で締められてしまった。「投げっぱなし」とも言えてしまうだろう。{/netabare}
{netabare}その放り投げた未来へ向けてスレッタとミオリネが隣り合って向かうというのも、大団円に見せた都合のいい幕引きだ。
母親の洗脳の影響が大きく、ガンダムの中にエリクトがいて彼女が手を下したということを鑑みても、やはりそれらに同調して人殺しを何とも思わなかったスレッタと、そんな彼女を見て恐怖と忌避感を顕にしたミオリネが無事に結ばれるという結末は納得感が薄く、互いの価値観を擦り合わせる「対話」の時間も本作で畳み掛けられる事件のせいで十分にとられてはいなかった様に思う。
勿論、最終的にはスレッタが自分で「間違っていたのは自分の方」と折れたわけだけども、その時の状況から考えてしおらしいミオリネへ寄り添うため────ひいては彼女を立ち直らせるための「言葉」でしかなく、スレッタが真にミオリネの望んだ倫理観を持ち得たかどうかは定かではない。共に物語のクライマックスへ立ち向かい、描かれない未来でも同じ場所で同じ薬指に指輪をするような2人だからこそ、もう一度1st11話のような尊い「恋愛」描写は入れて欲しかったのが本音である。{/netabare}
まあ百合云々は差し置いても素直で内気、そして「故郷に学校を建てる」という目標を持つ女の子を主人公に立てたからこそ、その成長や友情、併せてかしましさ溢れる「青春」なども存分に見せて欲しかったのだが、ガンダム作品にそういった要素を求めること自体ナンセンスだったようだ。
となれば私は前作から続くキャッチーな要素にすっかり騙された形となるわけだが、この作品がまどマギや『あそびあそばせ』のような「騙されて良かった作品」の域には達しているとも思えず、結局ややしこりの残る作品だと感じてしまった。