ナルユキ さんの感想・評価
4.9
物語 : 4.5
作画 : 5.0
声優 : 5.0
音楽 : 5.0
キャラ : 5.0
状態:観終わった
千尋よりも熱く、タイタニックよりも涙する名作
刀を振るって鬼を斬る単純明快アニメ第2弾。そのシンプルさが映像や音楽と共に“ウリ”となっているという主張は前作(炭治郞立志編)のレビューで存分に書きなぐったので、読んだことのない方は総評だけでも一読を……m(__)m
そのシンプルさは相も変わらず、主人公・炭治郞の目的は依然ハッキリとしている。しかし立志編終盤では鬼となってしまった妹・禰豆子を連れる=鬼を庇い立てしていると見られ、鬼殺隊最強クラスの剣士に与えられる称号『柱』を持つ面々によってあわや兄妹共々厳罰(処刑)されかかってしまうことがあった。この出来事があって炭治郞は、自分の行いを周囲に認めてもらうためにもより強い力をつけなければならないことを痛感する。
那田蜘蛛山で偶発的に繰り出した『ヒノカミ神楽』の正体を知るため、何かしら関係があるであろう『炎の呼吸』の使い手である煉獄杏寿郎を追う炭治郞。彼もまた兄妹の処遇を「斬首だ!」と即断し、柱の中では決して良いイメージを持たない人物であったが────
今さらですが、当時3回は“乗車”した劇場版のレビュー・感想になります。テレビアニメ版との違いはやはり「音響」にありましたね。
【コイツがカッコいい:炎柱・煉獄杏寿郎(1)】
彼を端的に表すなら「竹を割ったような性格」という言葉が適切だ。悪いことは悪い。そういう芯の通った正義感を持ち合わせているからこそ柱合会議では隊律違反を犯した炭治郞への処罰を求めたが、その遺恨が間もない再会に残ることはなかった。
「うまい!……うまい!……うまい!……うまい!……うまい!……うまいっ!!」
実にコミカルな再登場である。とくに最初の「うまい」は空の弁当箱が宙を舞う演出と共に劇場のスピーカーで微振動を起こしたかのような大音量であり、観ているこちらが「うっさwww」と口角を上げながらツッコミを入れそうになってしまった。
そんな彼が頬張っているのが牛鍋弁当。有志によれば11人前を平らげたのだとか。確かに駅弁は美味しいが“弁当”という時点で出来たてには敵わない限界がある筈だ。ましてや公衆の面前でいちいち腹に力を込めて「うまい」と言いながら食べる程の物ではない。だからこそあの「うまい」の連呼には、
美味しいものは美味しいんだ。こんな美味しい物を作ってくれた料理人に感謝しながら食べることに何の恥じらいがある。
という意味があり、煉獄の「人の善さ」「自信に溢れ堂々とした様」がすぐにわかる名(迷?)シーンとなっている。決して悪人でも炭治郞の敵でもない。前作で僅かばかり抱いた印象の悪さがこの1シーンで瞬時に払拭され、頼りがいのある「正義の味方」として視聴者にきっちり印象づけることに成功している。
【コイツがカッコいい:炎柱・煉獄杏寿郎(2)】
そんな彼の使う呼吸と型は『炎の呼吸』だ。
隙のない構えと踏みしめる脚力から繰り出す斬撃は狭い車内に現れた鬼の頸(くび)を瞬く間に一刀両断する。ヒノカミ神楽とはまた違い、本作唯一のお披露目とも言える炎のエフェクトは見ているだけで心をたぎらせ、そんなエフェクトがなめらかに動き「技」に変わるのだ。
とくに一番最初に繰り出す『壱の型・不知火』の流れるようにボボボボと灯る篝火(かがりび)が炎の道となり、そこからさらに一本の赤い太刀筋に変わる演出に惹き込まれてしまう。
呼吸と型を表現する絵巻物のようなエフェクトはTVシリーズにもあったものの、本作は劇場版ということでそのアニメーションはさらに繊細だ。スクリーンを意識した大きな動き、カメラワークと意味のある「スロー」演出など一瞬の動きをしゃぶり尽くすように見せるような技法で、観る者が「息吹」とも表せる呼吸と日本刀を使った剣技の格好よさにさらに魅了される「芸術」に昇華させている。
【そしてココが面白い:眠り鬼が見せる夢】
「普通のジャンプ漫画をハイクオリティでアニメ化しただけ」とも評される『鬼滅の刃』だが、このシリーズはのっけから主人公が妹・禰豆子以外の全てを喪うという「ダークファンタジー」を描いた作品でもある。王道な少年マンガにしてオタク好みな展開も取り入れたハイブリッドだ。そんなシリーズだからこそ本作ではファンの心をさらに抉る展開も描いていく。
{netabare}「眠り」と「夢」を司る鬼・魘夢(えんむ)が炭治郞に見せた夢は喪った家族との再会だった。その鬼は眠らせた者が望む理想の世界を夢として再現する。その逆も容易い。
夢を夢だと気づくことは当人にとって簡単なことではなく、気付いたとしてもその幸せな夢に抗えるかどうかは意志次第である。
「あぁ……ずっとここにいたいなぁ」
亡くなった弟たち、母、父、鬼殺隊ではない「炭焼き」だった頃の自分。贅沢は出来ないものの家族仲睦まじく、細やかな幸せの中に生きていたあの時間にいたいのが炭治郞の本音だ。視聴者からは格好よく映り児童からの憧れの的になるのだとしても、鬼から人を救い救った人に感謝されるのだとしても、「鬼狩り」をする自分というのは不本意なのだ。ただ鬼になった妹を救うため、家族を殺した鬼舞辻無惨(きぶつじむざん)を討つために仕方なくなっただけ────
「でも…もう俺は失った。戻ることはできない!」
鬼殺隊の一員として鍛え上げられた自分。そしてお館様の前で無惨討伐を宣言した自分が夢の中にいようと甘える「自分」を戒める。まやかしとはいえ再会した家族に背を向け、救えなかったことを謝りつつ、炭治郞が夢から覚める流れには涙腺を刺激されてしまった。この感動は立志編第1話をしっかりと観たファンにしか味わえない。ファンにとって、このシーンが本作のいくつもある「泣き所」の1つであることに間違いないだろう。{/netabare}
【ココも面白い:魘夢vs炭治郞&伊之助】
{netabare}対峙した相手を睨むだけ、囁くだけで眠らせ悪夢を見せる眠り鬼。そして遂には列車と融合し走る巨大な肉塊に成り果てた魘夢に対し、那田蜘蛛山で結成した黄金コンビ・炭治郞&伊之助が挑む。
彼ら2人でも煉獄を始め『柱』と呼ばれる剣士たち1人分にも実力は遠く及ばない。しかし柱にも持ち得ない鋭敏な「感覚(センス)」が人の形を捨てた鬼の頸を見つけ出し、斬り落とすことを可能にする。後の展開の「前哨戦」と揶揄されながらもこの対戦カードは本作の見所の1つであることに相違ない。
魘夢は何度も炭治郎を眠らせるが、その度に彼は夢の中で「自決」することで直ぐに目覚める。自分の家族を悪夢で脚色する魘夢という存在には、時として頸を斬った鬼に同情を向ける彼でも怒髪天を衝く程の怒りを顕にした。
「言うはずが無いだろうそんなことを!! 俺の家族がっ!!」
この若干「倒置法」になっているのが、人がブチギレて文法もマトモに出来ていない様を表してて良い。花江夏樹の怪演も中々。現在ではすっかりネットミームにもなりまして……(笑) 観てる当時は炭治郞というキャラクターの「家族への信頼」をエモーショナルに感じられるこれまた名シーンだ。
激流のような『水の呼吸』、青い稲妻のような『獣の呼吸』のエフェクトも劇場スクリーンで見劣りすること一切なく、ufotableがFateシリーズからこだわり描く「肉塊」や「触手」を捌いていくシーンには観ているこちらが呼吸を忘れてしまいそうになるほど。
車内の乗客およそ200人から犠牲を出さないよう奮闘する善逸・禰豆子・煉獄も加わりゾクゾクするようなエフェクトの嵐と練り込まれたアクションシーンを努力、友情、勝利のジャンプ三大原則と共にしっかりと味わうことができる。{/netabare}
【そしてココがすごい!:猗窩座vs煉獄(1)】
本作最大の山場となる対戦カード。『柱』と呼ばれる最強クラスの剣士と『上弦』と呼ばれるこれまた最強クラスの鬼がぶつかり合う。ここから流れ始めるロックでエレキなBGMがまた大きく印象に残り素晴らしい。
{netabare}炎の呼吸と青い閃光の如き『破壊殺』。対極的かつ拮抗する演舞のような戦いの中でじわじわと煉獄が劣勢に追い込まれていく。その過程は歴代の名作に劣ることのない「苦しい」場面である。
上弦の参・猗窩座(あかざ)は確かに煉獄の太刀を何度も受けていた。両腕も飛ばされ、腸(はらわた)も捌かれていた。だがその確かな技ありでも痛みに呻くことは一切なく、上弦の鬼は何事も無かったかのように瞬時に自己再生してしまう。
一方、煉獄は肋骨を折られ、左目を潰され体力も著しく消耗し息を上げる。鬼の再生する体と再生しない人の体。その相違点をまじまじと見せつけられるような戦闘の棋譜はカロリーの高い作画も相まってとてつもないエグ味が感じられてしまう。
このままでは煉獄杏寿郎は殺される。視聴者含め誰もがそう予感する中で猗窩座は何度も何度も煉獄をこう誘うのだ。
「お前も鬼にならないか?」{/netabare}
【そしてココがすごい!:猗窩座vs煉獄(2)】
{netabare}「鬼になろう杏寿郎。そうすれば100年でも200年でも鍛錬し続けられる。強くなれる」
「鬼になれ杏寿郎。そして俺とどこまでも戦い高め合おう!その資格がお前にはある!」
「死んでしまうぞ杏寿郎!!鬼になれ!!鬼になると言え!!お前はっ!お前は選ばれし強き者なのだっ!!」
戦闘狂(バトルマニア)である猗窩座もこのまま煉獄を殺すのは忍びないようだ。戦いの最中、ずっと上記のような「誘い」の言葉を彼に投げかける。これまで斬撃を受けてきたのも鬼の魅力を見せつけるデモンストレーションだ。鬼は不死身。そして不老。人間を超えてどこまでも強くなれる存在である、と。
最終勧告は煉獄の腹部を貫き懇願するように叫ぶ。演じる石田彰さんのいつまでも残る少年のようなあどけない演技がベストマッチした懇願ぶりだ(笑)
選ばれし者。猗窩座にとっては「自分」が煉獄を選んだという字面通りの何でもない言葉。しかし煉獄にとっては、幼い頃にこの世を去った「母」を想起させる思い出深い言葉だった。
煉獄の走馬灯の中で1、2分登場したかどうかである母親。そんな短い出番の彼女の、床に伏せても凛とした佇まいと赤い目。透き通った台詞と優しい抱擁。それらから「煉獄杏寿郎」という男の半生と信条をさらに読み解くことができる。
「強く優しい子の母になれて幸せでした」
「俺の方こそ、あなたのような人に生んでもらえて光栄だった!!」
人より優れているからと、その才で私腹を肥やしたり人を傷つけたりしてはならない。母から教えを受けた強く生まれた者=選ばれし者・煉獄の選んだ責務は────
「ここにいる者は誰も死なせないっ!!」
貫かれつつも鍛え抜かれた肉体を絞めて猗窩座の右腕を封じ、迫る左も受け止める。そして目の前にある鬼の頸に食らいつくかのように刃を入れていく。逃れようとする猗窩座と逃さないとする煉獄の譲らない足運びに2人の慟哭────間もなく訪れる死を恐れず、幾何もない余命を、心血を全て「弱き人を守ること」に注ぐ姿は全てufotableの最高級の作画で描かれており、観ているこちらの身体は震え、目頭は熱くなるばかりである。
とりあえず鬼になって生き延びる────なんていう選択肢は彼に無い。母が生み、父に鍛えられ弟や鬼殺隊の鑑となったこの“人の身”を最後まで燃やし尽くす。煉獄杏寿郎の戦いは、そんな「侍」の生き様を見事視聴者の目耳に焼き付けて物語のクライマックスを飾ることに大成功したのだ。{/netabare}
【総評】
鏤(ちりば)めた珠玉のごとき素晴らしいアニメ映画と評する。テレビアニメもしくは原作を押さえることを前提とする「続編」として制作されながらも短い描写を効果的に演出する(例えば主人公のこれまでの活躍を知らない人でもOPのお婆さんの荷上げを手伝っている場面で真面目で善人だと解るような工夫がある)ことでキャラクターの性格・信条を誰でもわかりやすく感動させるように魅せており、歴代の単発作品にもヒケを取らない出来栄えで大勢の心を鷲掴んだ作品だ。その成果が前代未聞の国内興収400億。『千と千尋の神隠し』を100億弱も引き離し歴代興行収入1位という記録を叩き出した。これを様々な要因が重なった「ラッキーパンチ」と分析したが最期、千と千尋は?タイタニックは?アナ雪は?君の名ははそうじゃないのか?と切りがなくなる。ならば素直に評価しようじゃないか。この作品もまた素晴らしい映画だったのだ、と。少なくとも私はこの映画を観たことで千尋を観た時よりも身体の血が滾り、タイタニックを観た時よりも涙を流した。
コミカルな描写を除けばどのシーンを切り取っても額縁に飾って恥ずかしくない程の「名画」。鬼の有利な夜闇の中で戦いを描くからこそ鮮やかに輝く水や雷、そして炎を纏った斬撃が美しい。剣士の「残心」も歌舞伎の見得のように力強く、そして前作と変わりなく輪郭を大きく縁取った親しみのあるデザインで描かれていた。
声優の演技も一級品だ。平川大輔さんのねっとりとした演技は魘夢というキャラの蠱惑的な魅力を引き出し、猗窩座を演じる石田彰さんの演技はもはや流石としか言いようがない圧倒感。{netabare}そして逃げる際の小物感は石田彰さんだからこその演技だ(笑)今の炭治郎たちでは倒せないがいつかは───と感じさせる名キャラクターになったであろう。{/netabare}
煉獄杏寿郎を演じた日野聡さん。不快感の無い、真っ直ぐで貫き通しそうな芯の強さのある声と「技名」を叫ぶ瞬間のぶれない演技があるからこそ煉獄の強さをより深く感じられた。鬼や柱をベテランともいえる声優陣が演じるからこそ、この作品のキャラクターもより魅力が深まり、より物語に入り込めたと言える。そんな豪華声優陣を活かした「音響」も映画作品ならではの工夫がされており、(劇場の設備に依るところもあるかも知れないが)魘夢の断末魔や猗窩座の唸り声は劇場全体で響かせて観客を包み込むようであり、観ているこちらもまるで無限列車の乗客になったと錯覚してしまうようだった。本作を観るために映画館に赴くことをファンが“乗車”と呼んでいたのはこういった劇場体験からも来ている。
そして今回ばかりはストーリーを「平凡」とは呼ばせない。主人公が取り戻せない時間を想うエモーショナルな展開は先人の名作に勝るとも劣らず、その卑劣な罠を閃きと強い意志、そして痛々しい方法で打ち破る王道かつダークな逆転劇は深夜アニメオタクをも唸らせる。
単調になるかと不安視されていた連続のバトル展開も巨大な怪物をレイドゲームのように一丸で討伐し、その様を多角的なアングルで写し出すことで視聴者にまるで遊園地のアトラクションに乗ったかのような興奮を与えたかと思えば、終盤では1vs1の息もつかせぬ殺陣を描写する────魘夢戦から間髪入れずに猗窩座戦へと入る無限列車編の、単純に見えてその実バランスの良い構成が演出の妙で一際、輝いた瞬間であった。
強いて────本当に強いて欠点を挙げるならば、製作陣が前作(立志編)の反響を踏まえて今作にも同程度以上の成果を見越した「慢心」が垣間見えたように感じられるところだろう。
{netabare}例えば残虐な描写がありPG12(12歳以下非推奨)となった本作に善逸や伊之助の夢など小学生がケラケラ笑うような描写もあるのでターゲッティング(どういった層に観てもらうのか)がちゃんと定まっていないと言えるのだが、そこにメス(小刀)を入れなかったというのは原作再現の徹底である以上に「鬼滅の刃は既に万人にウケている」という決め付けがあったからではないだろうか。本来ならああいったシリアスな雰囲気を阻害する描写は立志編でも本編終了後のオマケ「大正こそこそ噂話」に押し込んでいた筈。2時間映画である本作には戦闘の合間の箸休めも必要ない。なぜ原作のまま描写してしまったのか不思議だし邪推もしてしまう。
逆に原作の反響から煉獄杏寿郎の戦死という「泣き所」が割れていたことで、その悲しみを原作以上に誇張して描写してしまってたのも視聴者が「まるで泣かせにきてるよな」と思いかねず危うかった部分だ。とくに炎柱の訃報が他の柱に届くまでは忠実に描いていたのに、その後に原作にはなかった炭治郞が一人で泣いているシーンが挿入されている。原作既読勢の私としては鬼滅アニメの「尺の許す限りまで映像化する」スタイルが好きだった故に冨岡義勇の「そうか」で〆るか、尺が延びるが炭治郞が煉獄家を訪問するかのどちらかキリの良い選択肢を選んで欲しかったと思った。{/netabare}
そういう意味では画竜点睛を欠いた作品とも言えてしまうが、その「画竜」そのものが筆舌に尽くしがたいほどの大作。アニメが素直に好きな人ならば間違いなく楽しめる作品であり、そして「劇場」で観る意味の大きな作品だ。作画のクォリティの高さ、全身を包み込むような音響、LiSAの『炎』、そして本作のもう一人の主人公「煉獄杏寿郎」という1人の男の物語を、リバイバル上映などの機会があればもう一度あの大スクリーンで見届けたいと願っている。