Progress さんの感想・評価
3.0
物語 : 3.0
作画 : 3.0
声優 : 3.0
音楽 : 3.0
キャラ : 3.0
状態:今観てる
現時点で思う事2
17話まで見ました。
アニメ12話以降の感想をつらつらと書こうと思います。
12話~13話では
スレッタが笑って兵士を殺害した行為について、ミオリネがショックを受けた話。
思い浮かんだことは、スレッタへの強烈な違和感。親ともども助けてもらったミオリネがスレッタを人殺し呼ばわりで感謝の言葉もないのも違和感ですが、ミオリネの中の常識、人を笑って殺さないというパターンから外れていることから発した、ミオリネからスレッタへの疑問。これはストーリーにおけるミオリネの行動のベクトルになっていった。
確かに、視聴者にもミオリネと同じ常識を備えている人が一般的なのかもしれないが、私にはミオリネ視点=正しい道であるとは感じられなかった。
ミオリネは今後ずっとスレッタ、プロスペラとの親子関係を否定し続ける。ミオリネが考える理想の人間、理想の大人、理想の親でないものと、スレッタとプロスペラの関係を否定し行動する。
ミオリネに共感できる視聴者にとって、この展開は嬉しいかもしれないが、私にとっては違和感でした。そして17話で、今後ミオリネが現実を目の当たりにすることによって、また挫折する展開の布石なのだろうと感じたので、今回記録を残しておきます。
17話でのそのピースの一つはプロスペラの「デリングの娘は喜んでいたわ」という、プロスペラがミオリネを駒として考えているセリフ。ミオリネはプロスペラとのやり取りでスレッタをコントロール出来ると考えている。だがプロスペラから見れば、ミオリネから見える世界やミオリネの理想をスレッタの人間性に押し付けている、もしくは親子関係が間違いとただそうとしているのが滑稽に見えているのではないだろうか?
ピースの二つ目は親子関係に正解がない、そういった現実は、14~15話の地球のアーシアン、またはグエルが観たものが示している。
そしてグエルがミオリネに対し、「(ガンダムとか何にも縛られない世界で幸せになってほしいと言ったミオリネに対し)そんな世界はないよ」といった17話。ミオリネの見える世界はグエルの見た世界と違う事を示しており、現実の惨状を見ているグエルにとってはミオリネの考える世界は、楽観的か、現実的ではないという事だと思う。
この現実とミオリネの理想の世界との乖離が、ミオリネ自身の行動に破綻をもたらす展開のように感じる。
14話から15話について
強烈に心を動かされた登場人物がいる。ソフィ。地球の魔女と名乗った少女だ。
彼女が決闘、もしくは戦闘中にスレッタとの会話で話した「欲しいもの」
「お腹いっぱいのご飯、ふかふかの寝床、温かいシャワー、まだまだあるよ」
「コミック、ゲーム、それと…私を好きでいてくれる家族!」
今までの展開の中で親との関係についてあれこれ考えている視聴者に対し、家族がいなかった、あるいは親がいなかったソフィのこの言葉は、あまりにも重い。
スレッタもミオリネも、親の庇護は一定以上存在した。そう描かれてきた。
ソフィはどうだろう?地球で孤児となり、兵士として育てられ、それこそ愛など感じたことがあっただろうか?
ソフィが強烈に家族の愛、家族の庇護、家族の束縛を欲しているのに対して、各人物への対比はどうだろう?
スレッタはプロスペラに利用されている。しかし、利用はされていれども経済動物のようにひどい扱い(エランのような)は受けていないのだ。利用されているとしても親からの庇護を受けている。ソフィとスレッタは似ているかもしれない。そこには温かいベットがあるかどうかの違い、利用されていることに気付いているかどうかの違いでしかないのかもしれない。スレッタにとって必要なのは、無いことからの自分の欲求なのだと感じる。スレッタは自分に何もない状態に気付き、自分が欲しい物の為に動く、それがスレッタのプロスペラからの解放なのではないだろうか。
ミオリネとソフィの対比について。ミオリネについては親からの愛があった事は恐らく疑いのない描写があったと感じる。ソフィは親からの愛を知らなかった。
ソフィとミオリネの対比からは、束縛への意識の差を感じる。ミオリネは、デリングからの遠巻きな庇護に愛を気付くことになった。ソフィは庇護を知らず、愛を知らない。戦争という現実から守られているかどうかの差だ。
ミオリネは1期では籠の鳥のような束縛を受けていると感じていた。それを愛とも知らず。彼女へのデリングへの愛と束縛は、ソフィが最も欲しかったものではないだろうか。ソフィとミオリネは持たざる者と持っている者の関係性のように感じた。ソフィは束縛されてでも家族が欲しい、いや、家族との関係性においての束縛を肯定するだろう。しかしミオリネはその束縛を良しとしない。
それが戦争の現実から生まれたソフィという存在と、戦争から庇護され育ってきたミオリネの存在の差だと感じた。
スレッタの親からの自立を促すミオリネだが、親を求めるソフィの姿を見ると、親からの束縛が、必ずしも子にとって不幸であるとは限らないとそう感じる。
ソフィ・プロネ。この作品の描く家族との関係性の中で、最も家族とのつながりを暴力的にまで求めた少女。彼女は戦争の現実から生まれた孤児であり、兵士。家族を持たない、愛を知らなかった少女の叫びが、親の愛を、束縛を求めるその姿が、方法が悪であったとしても、想いが悪であったとは思えない。ただ純粋に求めていたと感じた。
15話~17話
スレッタについて
スレッタがプロスペラに利用されていることは、疑いようのない事実だろう。それは間違いない。
プロスペラがスレッタを見ているかどうかという点について、愛があるのかという点について、恐らく利用されている時点で愛はないと、思う人も見られた。
親が子を利用する事について、悪であるかという点で考えれば、子にとっては悪だろう。
だが、私が今までの彗星の魔女のストーリーを見てきて感じるのは、親子の形には様々な形があり、決して理想の親子像であることはないという事だった。
依存しないミオリネとデリングの親子愛が美しく見せられた反面、ソフィによって描かれた親を求める子の姿は、持たざる者からの欲求を示した。それをミオリネはどう受け止める?
仮初の愛に依存するスレッタを親から引き離すミオリネの行動は本当に正しいのか?
ミオリネとデリングの関係=正ではなく、プロスペラとスレッタの関係性もまた親子であると感じる。子を利用しない親がいるだろうか?本質的には種をつなぐという関係性であり、子を利用しない親という関係性は逆に不自然に感じた。この作品が親が子を利用するなというメッセージ性ならば、現代的な作品に感じる。子に親の手伝いをさせるグエル親子の方がまだ自然な形だと感じた。しかしどういう形であろうと、家族の形を固定化しようとする考え方に違和感を感じるし、その違和感はミオリネから感じている。
スレッタとプロスペラの関係は利用される関係ではあるが、それも親子の形であるように感じる。そこから抜け出させようとするミオリネの行動に悪意がないのは感じ取れるが、不自然にも感じる。スレッタが好きだからという個人的理由で介入してるのであって、ミオリネの行動を社会的正しさからくるものだとすり替えはできない。
今後スレッタはどうなっていくのだろうか。スレッタは人間的成熟がされていないという描写はある。だが、それはスレッタがミオリネになることではない。ミオリネもまた、何か違和感をはらんでおり、その破滅、それを救済するために、スレッタはどこに行き何を見て、何を欲するのか、ミオリネとプロスペラ、家族、そのすべてへの自身の感情の行き場を失った状態から、再びそれらを求めることが出来るのか、スレッタの再起に期待しています。
多分7話くらいまで視聴しました。
現時点で思う事は、各家庭の家族環境とそれに影響される子供の性格について。
ミオリネは父親に何でも決められてしまう環境に嫌気がさし、反抗心を抱いており、その精神状態ゆえに大人になりきれない印象を受ける。
そのために7話におけるミオリネが父親の保護下にいることをスレッタ母から煽り(発破)混じりの会話とプレゼンの場における周囲の反応というもので気付く事で、その成長というものを感じ取ることが出来る。
一方でミオリネ父、デリングは娘に対し、1話で私がミオリネにあってなんになるのか、という自身のメリットにならないような趣旨の発言をしているが、これはミオリネの1話時点での父親との関係性理解した上での、関係が好転しない、ミオリネの成長に寄与しないという意味での発言かも…しれない。そうでなければ、ミオリネ自身が7話で自ら提案し、自身の殻を破ってまで願い出た行動を、承認する理由がない。いつまでも籠の鳥でいさせたければ、まともな提案であっても却下すると想像できる。
ミオリネのストーリーにいえること、それはデリングに娘愛があるかということだ。スレッタと母プロスペラには、愛があると感じる。それはスレッタが母に連絡をして相談もし、何でも聞ける存在と認識しており、母もスレッタを自由にしつつ見守っているように感じる。ミオリネとスレッタ、それぞれの家族の対比から、ミオリネの家族の愛を探っていく展開に、今後も興味の中心がある。
次に、グエル。彼は、自身の荒々しさで、寮を追い出されるまでに至ってしまうほどの人物。彼の父、ヴィムは、グループ内の政敵であるプロスペラ(スレッタ母)への策謀を巡らせている。
グエルは、父ヴィムの政争に巻き込まれて、決闘中のモビルスーツのオートパイロット化によって自身の誇りを失う。(本人が仕掛けた経緯もあるので同情できるかは微妙だが)
彼の場合、初登場時点では、増長した性格であり、鼻を追ってくる相手もいないため、家族からも、役割をこなせば放任されていたのだろう。ただ、スレッタとの出会いにより、鼻を折られ、父親からの信頼を失い、自身のプライドも失って、初めて、自身を支えて来たものを失った。
その状態で、スレッタによる自身のモビルスーツ乗りとしての能力を認められたことは、救いに感じただろう。
グエルのストーリーに感じることは、信じるという事だろう。父ヴィムによって決闘中のモビルスーツの操縦を奪われたこと、それは信用を失ったという事だ。
スレッタは家族の事を信じており、母プロスペラもスレッタを信じている。そのスレッタ母子との対比の中でグエルもまた、失った父からの信用を取り戻すため、あるいは自身の存在を認めさせるため、今後も活躍するだろう。
そして、エラン。彼の場合、家族というものが存在しない。
彼のストーリーで強烈に印象付けられるのは、スレッタにはあり彼にはないものがたくさんあるという事。
彼の登場回でいえること、スレッタは誕生日は歌を歌ってお祝いするものだと思っている。しかしエランには祝ってくれる人などいないため、それはないものを見せびらかされているような、そんな苦痛があったろう。
残念ながら彼は複雑な事情で消えたような消えていないような状態だが、スレッタが誕生日にお祝いをされるような、幸せな家族に囲まれて、情のある人間になったという事実が、今後の展開を考えるのに重要だと感じる。
では、スレッタ。
なぜ彼女の情、が重要なのか。それは、作品中の策謀の中で、母プロスペラの真の目的が何なのか、という解答に深くかかわると考えている。
エランは、使い捨ての強化人間であり、有効活用できなくなれば、廃棄される。彼は、孤独で、誰にも心を打ち明けなかった。それと比較してスレッタはどうだろうか。彼女が使い捨てであるならば、母は、スレッタのいじらしい悩みを聞いたりしないし誕生日をお祝いしたりしない。
つまりプロスペラにとって、スレッタは使い捨ての駒ではないのだ。娘として愛情をかけているし、切り捨てもしないだろう。
なので、スレッタを夫を奪った者への復讐に使うとは考えていない。
そして、話の展開もかなりスレッタの偶然的な出会いから発生しており、それがすべてプロスペラの策略という展開は無理な道筋と感じる。
個人的希望になるが、プロスペラの目的は、娘「達」を生かすという方向にあるように感じる。スレッタだけではなく、時系列的違和感の中に存在する少女の存在をも肯定する道を模索しているのではないだろうか。
「そして我らカテドラルは全てのガンダムを否定します。」
つまり、ガンダム内に存在する彼女を肯定するには、ガンドアーム技術を否定する作品世界に肯定させなければいけない。それが真の目的、終着点ではないだろうか。
そして、そのプロスペラがスレッタへ愛を抱いているのか、スレッタの母への信頼は裏切られるのかという視点で、今後の展開が楽しみだ。
8話の時点でもプロスペラはスレッタに自身の機械化された腕を見せ、ガンドアームへの社会の嫌悪感についてスレッタに語った。スレッタがエランのように経済動物のような存在であれば、社会について伝える事などしないだろう。
スレッタの自主性を尊重しているプロスペラの行動と、第三者的に見れば彼女を利用しているように見えるプロスペラの態度の二面性を楽しめている。
と、いう感じですかね。