薄雪草 さんの感想・評価
4.3
物語 : 4.5
作画 : 4.5
声優 : 4.5
音楽 : 4.0
キャラ : 4.0
状態:観終わった
想い入る思いと、思い出への想い。
スタジオコロリドと言えば、私は「ペンギン・ハイウェイ」を思い出します。
本作も同じながれをくむ作風ですが、主人公は小学6年生と少し上の年齢。
「雨を告げる」、「漂流団地」は、彼らの心情に寄り添った素敵なテーマだったなと、一人悦に入っています。
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お話は、まさしく12歳のジュブナイル。
思春期の入り口に差し掛かった個性豊かな小学生たちの"ど真ん中な冒険活劇"です。
内容と言えば、「小学生の漂流物語」というニュアンスからはほど遠く、想像をはるかに超えるクライシスぶり。
中学生どころか高校生でも手こずるような場面設定でした。
始まって30分くらいはのんびり構えていたのですが、いつのまにかハラハラドキドキを通り越して、もはや身体のあちこちが痛々しくて困るくらい。
そこで、ちょっと不思議だったのは、ここまでのシナリオにする必然性、通底するファクターは何だったのかということです。
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種明かしは、本当に終わりぎわまで待たねばなりません。
キーワードはやっぱり"団地"にありました。
余分な言葉は雑音にしかなりませんから、今回は完全封印です。
もしもこれからご覧になられる方は、どうぞ気を抜かないで、どのキャラも、どんな背景も、舐めるように観てくださいね。
それにしても、12歳の心象が本作にシンクロするのであれば、私は彼らの想像力と創造性への豊かな共感について、その見立てをいくらか変えねばならないかもと感じました。
つまりそれは、石田監督の"思い入れ"ということになるのでしょうけれど、ね。
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とは言え、すこぶるSF的な解釈もできそうでしたし、えっ?と驚くくらいなファンタジックな演出も、どっかりてんこ盛りでした。
ペンギン・ハイウェイでは、お姉さんがアオヤマ君にいろいろと謎かけしては掻き回していましたが、本作にはそういうキャラはいません。
となれば、大人の感性をのせられないわけですから、ストーリーを詰め切るにはコツが必要です。
せめて、大人アタマとジュブナイルの心を、上手に使い分け、ときには主人公たちのキモチに全振りしてみるのが突破口になるのかもしれません。
私としては、視聴後の気持ちをまとめるのは少してこずりそうですが、率直に「観て良かった。とても面白かった。」と深い満足を得られました。
だって、すっかりジュブナイル色に染められてしまっている琴線です。
それでいて、ガチガチな演出が、抜かりなくさりげなく用意されているのですから。
手始めは、{netabare} 団地の屋上に通じる蓋でした。
開かずの扉、異界への入り口・・・、いかにも特別な通過儀礼って感じでした。 {/netabare}
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さて、公式ホームページのグッズ欄をながめると、「上映劇場限定販売のブルーレイ(数量限定)」が紹介されています。
詳細はお読みいただきたいのですが、販売対象は「当該劇場のチケット半券をお持ちの方に限る」というもの。
今後、通販展開がないのであれば、購入の機会はこの数日が勝負になるのかもしれません。
お小遣いで買うにはちょっとお値段が張るので、私の半券はポケットのなか。やむなくパンフレットで我慢しました。
皆さまには、ぜひ視聴していただきまして、「これは!」と思うところがございましたら、よろしくご検討くださいませ。
おまけ。
{netabare}
登場人物は12才の少年少女たちであるにもかかわらず、なぜか上映は夏休みが終わってからという不思議。
小学最後の夏を過ぎ越し、もう一度「君たちの夏休みはどうだった?」と言わんばかりなのですが、そこは案外ひねりが効いていて、私は心憎いなぁと感じています。
小学6年生にとっては、最上級生として、最初で最後の夏休み。
それは青空ばかりではなく、雨を告げるようなシーンもあったでしょう。
どんなふうに立場や環境に流されたとしても、自分なりにがんばってベストを尽くしたことでしょう。
本作は、12才の痛みや喜怒哀楽も、全部抱え込みながら自分を作っていく総仕上げの時期にいよいよ来ているんだよと、そんなことを教えてくれていたように思います。
その意味で、やはり本作視聴のメインは、"夏休み明けの12才の皆さん" になるのでしょう。
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さて、もう一つ。
メインゲストが12才だとするなら、ホスト役の大人と児童との鑑賞条件の前提について少し触れておきたいと思います。
前述したように、シナリオ上の荒唐無稽さ、首尾一貫のなさ、奇想天外ぶり・・・。
そんな演出にする必要性は何だったのだろうかと感じています。
大人の目線で言えば、本作の動機は、夏芽の喪失感が第一で、航祐とのすれ違いが第二のように見えがちです。
大人の才覚であれば「根拠はそこにある。展開もきっとそこから始まる。」と期待するのも訳ないことですね。
でも、留意すべきなのは、大人と児童では、持っている時間の総量、密度の違い、それらを振り返る能力などに、天と地ほどの違いがあるということです。
とあるレビューに「冒険活劇」と評価されていましたが、まさにその通りだと思います。
世界観設定(あるいは世界観認知)は、12才の目線と想像力の範囲のなかに描かれていたと言っても良いでしょう。
夏芽も航祐も、もの心ついてからのほぼ全部を、同じ団地(112棟)で過ごしています。
彼らの時間はそこにあり、持ち合える価値があり、掘り下げられる過去があります。
二人がサッカーのツートップという設定は、恋愛感情に寄せるよりも、競い合い、助け合う良きライバル(=フラットな対等性、信頼性)という意味合いを強化しています。
サッカー仲間(譲と太志)と、別のクラスの女子児童(特に航祐に思いを寄せる令依菜)が絡むのも、それぞれが等間隔なポジションを保つ役割と意味合いを明確にしています。
お話の入り口は夏芽の団地への執着心でしたが、途中、令依菜のエピソードが盛り込まれていることからも、6人が一致結束するなかで、それぞれの帰還(≒ 古い居場所からの心的な卒業)を果たすという「集団的成長譚」として収束し結実を見せていきます。
それに、のっぽ君は、もしかしたら転校生のような立ち位置なのかもしれません。
そんなことを考えていると、本作のベースラインは、やはり12才の子どもたちの心的な成長に主題があるように思います。
大人から見ると、夏芽と航祐の関係性のなかに作意を見いだしがちです。
でも、子どもから見れば、彼らの関係のなかで一緒に乗り越えていくという作調のほうが、よりフィットするんだろうなと思っています。
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ゲストとホストで見方が変わるのは、作品に深みがある証拠です。
小学生なら、夏から秋への実りへの期待とか希望とかの実感でしょう。
でも、大人にとっては、過去から現在への秋波とか、現在から未来への余波がじんわりと効いてきます。
例えてみるなら、一粒で二度おいしいグ○コのキャラメルでしょうか。
甘やかな風味が口の中を満たし、いつの間にか蕩(とろ)けて消えちゃってる。
そんな嬉しさと寂しさの記憶が、芳醇なノスタルジーとなって鼻先をくすぐらせる。
大人だってジュブナイルだったんだし、そんな夏休みがあったのです。
全く心憎い作品です。
{/netabare}