ひろたん さんの感想・評価
4.7
物語 : 5.0
作画 : 4.5
声優 : 4.5
音楽 : 4.5
キャラ : 5.0
状態:観終わった
「愛」は自分から差し出すことによって「輪り」始め、そして、「再び」自分に戻ってくる
劇場版の[後編]です。
※ここからは、ネタバレです。
この作品は、TV版に新しい要素を追加して再構成した作品です。
しかし、基本的にはTV版と結末は変わっていません。
にもかかわらずTV版とは観終わった後の印象が180度違う作品になっています。
こんな総集編は初めてです。
さすが、幾原監督。
■「輪るピングドラム」ってなに?
{netabare}
まず、「ピングドラム」ってなんでしょう?
これは、いろいろな解釈ができるのだと思います。
物語を観ていると、その1つは「愛」なんだろうなと思います。
では、「輪る」ってなんでしょう?
リンゴのまわりを円形の矢印がくるくる「輪る」絵。
この物語では、この絵が場面の切り替わりにアイキャッチのように頻繁に登場します。
リンゴは、「ピングドラム」のシンボルなのは分かるのですが・・・。
では、いったい、なんで「輪っている」のでしょう?
この劇場版は、TV版を再編成したものです。
もちろん全部詰め込むには、あまりにも短すぎます。
そこで、二人の兄弟が妹を助けると言うストーリーに集中した構成になっています。
すると、この「輪る」と言う意味がとても分かりやすく浮かび上がってくるのです。
冠葉と晶馬は、小さい頃、檻に入れられ、何も食べるものがなく餓死寸前でした。
恐らくこれは、親から愛されていなかったことの比喩だと思います。
親から愛情をもらえず、「愛」に飢えて死にそうだった二人です。
そんな中、冠葉が発見したリンゴの半分を晶馬に分け、二人は助かります。
ここで二人は、大切なことを学びます。
「愛」は、誰かからくれるのを待っているだけではダメなのです。
「愛」は、自分から差し出すことができるのです。
その象徴がリンゴでした。
そして、物語は、クライマックスです。
陽毬を助けるために冠葉が自分を犠牲にし、死にそうになります。
そこで、晶馬は、冠葉を救うために自らの命を陽毬に託します。
それは、かつて、冠葉からもらった「愛」でした。
つまり、冠葉に助けてもらった命です。
最後に陽毬は、その命、すなわち「愛」を冠葉に届けて助けます。
最初、冠葉から差し出した愛が、輪り輪って再び冠葉にめぐってきたのです。
これで、「愛」は、ひと「輪り」しました。
「輪るピングドラム」です。
リンゴのまわりを矢印がまわるアイキャッチは、これを象徴していたんですね。
「愛」は、求めるだけじゃダメ。
「愛」は、この世界の誰かから与えられるのを待っているだけじゃダメ。
そんなことをしていたら、いつか飢え死にしてしまう。
だったら、自分から差し出せばいい。
そうすれば、それが輪り輪って、再び自分にも返ってくる。
「RE:cycle」。
ただそれだけ。
「愛」って、そう言うものだよね!
この物語のテーマは、そんなシンプルなものだったのではないかと思うのです。
{/netabare}
■「愛」は、観客の中も「輪る」!?
{netabare}
「愛」は、「輪る」もの。
この作品には、これを象徴するシーンが他にもいくつかあります。
クライマックスで晶馬が苹果に「愛してる」と言いました。
TV版では、それに対して苹果は何も答えられないまま、晶馬は消滅してしまいます。
しかし、劇場版では、苹果が「私も」と返事をしました。
ここでも「愛」は、お互いを「輪り」ました。
TV版を知っていると、この違いには、インパクトがあります。
なぜなら、「愛」は、「輪る」ものと言うことがとても印象付けられるからです。
そして、エピローグの浜辺のシーンです。
今度は、幼い登場人物たちがスクリーンのこちらに向かって「愛している」言います。
「愛」は、「輪る」もの。
それは、スクリーンの中だけの話ではなかったのです。
観客をも巻き込んで「愛」は、みんなの中を「輪る」ものと言いたかったのでしょう。
{/netabare}
■『銀河鉄道の夜』
{netabare}
この物語は、『銀河鉄道の夜』をモチーフにしています。
そのため扱っている「愛」が自己犠牲のような崇高なもののような印象を受けます。
でも、実は、それは深く難しく考えすぎているのではないでしょうか?
なぜならカムパネルラからは、そんな崇高な印象はうけないからです。
もっと単純です。
カンパネルラは、川に落ちた子供をただただ助けたかっただけのような気がします。
それが、結果的に自己犠牲となっただけです。
この物語でも、二人の兄弟は、妹の陽毬をただただ助けたかっただけなんです。
二人は、陽毬のお兄ちゃんになりたかっただけなんです。
それが、結果的に自己犠牲となっただけなんです。
{/netabare}
■言葉にすることの危うさ
{netabare}
物語は難しい部分がありましたが、伝えたいことはすごくシンプルだったと思います。
そんな簡単なことをなにも難しくしなくてもと思わなくもありません。
でも、それが大切なんです。
ストレートに「愛は輪るもの」と言われても、逆に心に残らないでしょう。
伝えたいことをいかにストーリーと映像で表現するか。
そこに深みがでます。
言葉と言うものは分かりやすくて便利です。
しかし、その反面、表現したいものを狭めてしまう可能性があります。
先日、美術館で絵画を鑑賞しました。
そしたら、まぁ、これはいったい何を描いているのか、全然わからないのです。
でも、その絵の下にプレートがあり、題名が書いてありました。
それを見るとなぜだかその絵が分かるようになります。
言葉ってすごいなと思いました。
でも、同時にその題名の範囲内でしか、その絵を見れなくなっていたのです。
恐らく絵で表現しようとしていることは、その題名の範囲で収まらないであろう世界。
でも、それに題名をつけてしまうと、その枠をはめてしまう感じになってしまいます。
そうです、作者の表現したいことに制限がかかってしまうのです。
そして、もう一つ気づいたことがあります。
それは、展示されている作品には、「無題」もかなり多いと言うことです。
最初、「無題」って、作者もわけもわからないものを描いたのかな?って思いました。
でも、実は、恐らく作者は、描いたものに言葉がつけられなかったのかと思います。
どんな題名をつけてもしっくりこなかったので、「無題」のままにしたのでしょう。
でも、そのおかげで、鑑賞者の目には、無限の想像が働くのです。
この作品もそうです。
「ピングドラム」とは、具体的に何かとは、語りません。
それを一言で「愛」と置き換えてしまえば、それ以上でも、それ以下でもなくなる。
もちろん、「愛」と言う言葉自体は、いろいろな意味が含まれます。
でも、「愛」と言う言葉の枠でくくってしまっていることに変わりありません。
つまり、「愛」とは、「愛」と言う一言でひとくくりにできるものではないのです。
その証拠にこの作品でもいろいろな形の「愛」が描かれていました。
{/netabare}
■「きっと何ものにもなれる」
{netabare}
TV版では、「きっと何ものにもなれない」と言う命題を突きつけました。
しかし、これに対する明確な答えは示されなかったような気がします。
最後、二人の幼い兄弟は、「どこへ行く?」となって終わります。
なんだかはっきりした答えが出ないままのような感覚をうけます。
この劇場版では基本的な結末は何も変わっていません。
でも、桃果が最後に「きっと何ものにもなれる」と肯定して終わりました。
これだけもこの劇場版には、価値があります。
なぜなら、TV版に対する正統な答え明示したからです。
最後、二人の幼い兄弟は、同様に「どこへ行く?」となって終わります。
しかし、この二人からは、「何もの」かになれた自信のようなものを感じられました。
これがTV版と同じ結末にもかかわらず、印象が180度違う理由です。
ところで二人は、「何もの」になりたかったんでしょうね?
それはきっと単純で、ただただ「陽毬のお兄ちゃん」だったのだと思うのです。
{/netabare}
■まとめ
この劇場版は、TV版の「リサイクル(再利用)」です。
でも、その域を超え、再び何かが「輪り」始めたのを見た気がしました。
タイトル通り「RE:cycle」な作品です。
『銀河鉄道の夜』が、近代の児童文学なら、この作品は、現代の児童文学です。
人間の根源的で、核心的で、そして繊細な部分に触れようとします。
そのため、難しく感じてしまうこともあります。
でも、伝えたいことはすごくシンプルなことなんだと思うのです。