薄雪草 さんの感想・評価
4.6
物語 : 5.0
作画 : 4.0
声優 : 4.5
音楽 : 4.5
キャラ : 5.0
状態:観終わった
ゆめみる少女は青春ブタ野郎の背中を押す
「孤立」とか「劣等」とかでは、ない。
「挫折」とか「疎外」とかでも、ない。
「わたしの将来」が、一切掻き消されるということ。
「わたしの人生」に、何ひとつ残せないということ。
ようやく小学4年生になった彼女は、そこからの3年間。
どれほど時間に抗い、しかし、未来に花ある人生を夢見ただろう。
そんなとき、翔子は咲太に出会うのです。
初恋の人と、最後まで笑顔で過ごすために。
叶えてくれた夢の福音を、最初まで差し戻すために。
~ ~ ~
時空を超えて邂逅するのは、ご都合主義ではないと思います。
この時間軸に生まれた不思議と、この座標で生じた事象の不可思議。
それを譬えていうのなら、量子もつれだったり、超ひも理論だったり、相対性理論の応用ということになるのでしょうか。
詳しいことは皆目見当つかないです。
だけれど、世界という概念を量子のカタマリとして、時間の不可逆を相対性理論で見返してみたい。
そうすれば、見えない空気にも、見通しの効かない人生にも、希望を見いだせるんじゃないかと、なんとなく頷けるのです。
そのきっかけは、誰にでもあるのかもしれないし、いつどこにいようとも、手ずから起こしうるのです。
なぜなら
時空の壁は、常に、人の自意識のなかにそびえているのですから。
一期一会も、日夜、人の何気ない奇縁に届けられるものですから。
それを切り結ぶ "何か" が、きっと本作のテーマなんだろうと思います。
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精気をすり減らすような思春期症候群。
その生起をたどるように重ねた思考実験。
心の叫びをぶつけあって解答を求めるのが青春なら、彼らの導きに "必要なもの" は何だったろう。
少女らの言葉のなかに、そのヒントを私も探してみたくなる。
やさしさにたどり着くために。
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青春ブタ野郎たちは、そこに行きついたのだろうか。
咲太の背中を押すのは、花楓、理央、のどか、朋絵らの気立てだった。
翔子は、咲太から向けられる哀しみを観測し、愛おしさから押し戻そうとする。
麻衣は、咲太への愛(かな)しみに覚悟を定めて、脇目もふらずに押しとばす。
咲太は、麻衣と翔子を同時に喪失する悲しみに、完膚無きまで押し圧(へ)される。
自己犠牲をどれだけ自負心に高めても、自分の至らなさに打ちひしがれるのです。
託されたものを背負いたい気概のなかに、叶わぬ夢を叶えたいとする "翔子の当事者性" を形作っていくのです。
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一緒にご飯を食べたり、キスをしようとしたり、揶揄いあったり、結婚をゆめに語ったり。
相思相愛に過ごしたかった翔子は、ありとあらゆる未来を手離す決断を、咲太へのありがとうに締めくくる。
相思相愛に過ごしていきたい麻衣は、ありとあらゆる過去をやり直す覚悟を、咲太との未来に誓いあう。
一周まわって二周めを周回した咲太の選択は、果たして野生のバニーガールを観測できたのだろうか。
そして、ゆめみる少女との懐かしい想い合いを、七里ガ浜に見つけられたのだろうか。
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一つ違うのは、麻衣の主演するドラマに、新しい価値観が示唆されてあったことでしょう。
私は、それをこう呼んでみたいと思います。
「他者貢献」と「自己効力感」。
あるいはそれを「敬神愛隣」と言い換えてもいいでしょう。
他者のしんどさへの共感でもいい。
自分自身の何かの使命感でもいい。
袖は、振れても触れなくてもいいのです。
自分の住む街の人に、あるいは傍らにいる家族や友人を深く気遣う者なら、どうして目の前の空気の壁などに囚われる必要があるでしょう。
生身の身体を介在させた時にだけ、その気づきと学びが "じかに得られる" のです。
そこに生き方を見つけられるのなら、私たちの世界は少しずつやさしくなっていくのではないでしょうか。
咲太の胸の傷はなくなってしまっても、彼らが残した足跡と「青春ブタ野郎」の称号は、胸に熱く刻まれた思いです。
ゆめみる少女は(もちろん少年も)、この世界に何百、何万、何億人といます。
その夢を見ないままの人生にしてしまっては、自分のゆめも終わらせることはできない。
そんなきっかけさえ与えてくれる "青春ラブコメの真打ち" です。