gazabata さんの感想・評価
5.0
物語 : 5.0
作画 : 5.0
声優 : 5.0
音楽 : 5.0
キャラ : 5.0
状態:観終わった
人も狸に化けるのか
1994年の夏休みに子供と一緒に「平成狸合戦ぽんぽこ」を見に行き、クレジットが流れるころには顔面から液体が溢れ出て、その子供に「大人」あるまじき泣き面を見られてしまった親御さんの心中お察しします。
映画の良し悪しを言葉で簡単に説明できたなら、芸術とはこの上なくつまらないものになってしまう。この映画は自分がいくら頑張ってその良さを伝えようとも、言葉では説明できない何かが存在するということを骨の髄まで叩き込まれる映画であると思う。だがそれでもその説明を試みるのもまた、くだらない狸の最後の無駄な抵抗なのかもしれない。負けたとわかっていても、最後にいい景色は見たいものだ。
とは言ったものの、この映画の良かったと思うところを全部説明するのも面倒なもので、文章を書く練習程度に書いているレビューでもあるので、基本的には映画の最後の五分の話に集中しようと思う。
最後の五分以外の感想:
狸たちの葛藤は人類歴史のいろいろなことに当てはめることができるのでそれは良いことだと思う。何か特定の出来事を想定して作られたのかもしれないが、あまり詳細がないことから、人それぞれ自分の好みの出来事に投影できる。それこそ、この映画のほとんどはそれほど特別なメッセージ性を持っているわけでもないので何か映画の背景について知っていなければいけないというわけでもないことがまた優しい。もちろん、自分が知らないだけでどこかにあからさまな題材のヒントが隠されている可能性もあるが、その辺はご勘弁を。
最後の五分:
この映画の最後の五分に感じられる感情の激流を理解し、説明するのは簡単なようで意外と難しい。だが簡潔に言えば、それは人がみな心から感じたことがあるはずの「家に帰りたい」という感情だ(実際に実家にいるときにもこの感情は感じられるもので、家にいるのに家に帰りたいんかい、と自分でもツッコミたくなった方もいるのではないだろうか)。これは、本当に「家に帰りたい」わけではなく、今の状況とは違った昔の(子供の頃が多い)自分(及び世界)がより純粋/単純だった頃に戻りたいという感情だと言ったほうが正確だと思う。
この感情は実に強いもので、映画で描かれているように、服も靴も財布もかばんも化粧も日ごろ自分が被っている人の皮も全部脱ぎ捨てて、全裸で森の中に駆け込みたくなる感情だと個人的には思っている。そしてこの映画はその感情を視聴者から優しく(不思議なことにそれと同時に強制的に)引きずり出すことに見事に成功している。
さて、そんなもの他の映画でもいくらでもあるはずなのになぜこの映画でここまで強く、殴られたように感じることができるのか?そんなことが分かれば、私はどこかで映画評論家になっています。
それでもいくつか思い当たるふしはある。
一つ目はその最後の五分の前の残りの映画のおかげであるということだ。まあ、当たり前のことかもしれないが、最後の五分は残りの二時間のおかげで成り立つものだと思う。だからこの映画が長すぎるという批判は個人的には理解しがたい。狸たちの徐々なる絶望と衰退があり、それでも生きてきた狸があってこそのあのエンディングだと思う。
二つ目は、単純に演出が腐るほど良いというだけだ。狸は何にでも化けられる。人間に化けても、一緒に服も化かせる。なのにエンディングで狸は服を脱ぐ。何故。それはきっと狸が人間になってしまったからではないだろうか?狸は一般社会で生き抜くために自分を偽り、必死になじみこもうとする。だがいつしか狸は自分が人間に化けていることすらも忘れてしまう。人間になってしまう。そして人間は服を着るものだ(まあ、映画では狸も服を着ているから思っていたよりも辻褄は会わないかもしれないが)。だが人間は古き友の姿を見た時、自分が少しづつ失っていったものに気が付く。自分はなぜ人の服を着ているのか。自分は狸だ。狸は服などいらない。狸は財布などいらない。狸は自由だ。自分は狸だ。
「家に帰りたい…」
人間は服を脱ぎ棄て、今まで大切だと自分に言い聞かせていたものをすべて捨て、ほんの短い間かもしれないが、狸に化ける。夢かもしれないし、本当は死んだのかもしれないが、ほんの短い間だけは、家に帰れる。