フリ-クス さんの感想・評価
3.2
物語 : 3.5
作画 : 4.0
声優 : 1.0
音楽 : 4.5
キャラ : 3.0
状態:観終わった
ワリ喰う人々
冒頭から私事で恐縮なんですが、
僕はここのレビュ-で『声優』という言葉をなるべく使わず、
作品に声をあてている方を『役者』と表現することにしています。
(『中の人』も使いますが、まあ、それは置いといて)
といっても、昔は『声優』という言葉をふつうに使っていました。
ですが10年ぐらい前、
たぶん名前を知らない人は少ないであろう某有名役者さんと飲んだとき、
こんなことを言われたんです。
フリさんさあ、その『声優』っての、できればやめてくんないかなあ。
俺はさ、自分のこと『役者』だと思ってんの。
自分の仕事っつ~か商品ってのは、
何かを表現するための『芸』であり『芝居』であると思ってんだよね。
そのことに誇り持ってるし、持てるだけの努力もしてるしさ。
だから『役者』としてアテレコもするし、ラジオも出る。歌も唄う。
機会があれば舞台にも立つし、もちろん顔出し仕事もしてる。
声だけじゃなく、俺の芸全てが俺の商品、
というか、俺の生きざまそのものだったりもするわけでさあ。
だからさ、俺の『声』だけを切り出して俺の仕事だと言って欲しくないっつ~か……
俺はさ、『声』をあててるんじゃなくて『役』を演じてんだよね、
エラそうなこと言って悪いんだけどさ、
そこんとこ、もうちっとだけ、わかってくれたら嬉しいんだよなぁ。
もちろん『酒の上での話』ではあるのですが、
僕にはガツンときました。
そういう思いを製作サイドの僕に対して正面から語ってくれたことも、
人として認めてくれたみたいでうれしかったですし。
(実際のところ、それってかなりリスクのあることなんです)
それ以来僕は、現場でも書きものでも、
リスペクトを込めて『役者』という言葉を使うよう心掛けています。
ごく一部『声優』も使っていますが、
それは『第三者が一般に用いる呼称』として使用するときに限っています。
勘違いして欲しくないのですが、
その『声優』という呼称に誇りを持っている方もたくさんいらっしゃいます。
そのことを否定するつもりは毛頭ありません。
『声優』と呼ぼうが『役者』と呼ぼうが、
マイクの前に立った瞬間、求められるのは『芸』だけです。
そこに矜持があり、
そして矜持を抱くに値する『芸』の力があるのなら、
呼称なんてのは、極論、どっちでもいいことなんだと僕は思います。
さて、本作『竜とそばかすの姫』は、
はっきりと『アテレコ役者の力量』に問題を抱えた作品です。
とりわけ、主人公すずを演じる中村佳穂さんに関しては、
お金をとって劇場で聴かせることができる『芸』ではない
というレベルにしか、僕の耳には聴こえてきません。
だけどそれはまあ、あたりまえの話で、
彼女は『役者』ではなく『ミュージシャン』であるわけです。
音楽に関しては長い修練と努力を積み重ねてきた方ですし、
その点に関してはリスペクトすべきですが、
お芝居については、何一つ積み上げたものがない『素人さん』なんです。
もちろん、自主製作映画程度の作品ならば
『声質がいい』『素人のわりにがんばってる』という評価はアリだと思います。
ただ、本作は何億円もの出資を募って製作され、
一般の方々から高額な鑑賞料金をいただく『商業作品』なわけです。
その主演が『素人のわりにがんばってる』ではダメなんじゃないかしら、と。
もちろん、そのことが作品すべてを否定することには繋がりません。
映像はそこそこ美しいし、音楽は素晴らしい。
脚本も、個人の好き嫌いや細かな突っ込みどころを考慮しなければ、
よく練られていると評価していいレベルにあると思います。
{netabare}
『仮想現実』と『リアル』の狭間で揺れ動く『人間』も描けているし、
その『残酷さ・無責任さ』と『暖かさ』の対比も充分です。
そして、ただそれを描きっぱなしにするのではなく、
ジブリ作品みたいにがばがばじゃない、
現代に通じるきちんとしたメッセージが内包されています。
もちろん「いやそれは違うだろ」とか「考え、古くね?」とか、
人によってつまづきそうなところがあちこちにあります。
脚本として評価するなら、言葉選びにキレがないところも多数見受けられ。
ですが、細かいところに目をつぶり、
あくまでも娯楽作品なんだよこれはと俯瞰するなら、
きちんと一つの世界観を構築しているものではあるよなあ、と。
{/netabare}
ですから『映像娯楽作品』という意味では、
一定以上の評価を与えられて然るべき作品であると思います。
興行収入62.7億円という立派な数字も、それを証明していますよね。
ただし一方には、アニメとは『総合芸術』だ、という考え方があります。
映像だけでも音楽だけでも、ましてや脚本や芝居だけでもダメ。
それらすべてが複合的に折り重なって
一つの作品・世界・メッセージを創造するのがアニメなんだ。
そういうのは『制作』に関わる方々多くの共通認識でもあります。
その観点からすると、
少なくとも僕にとってこの作品は『総合芸術作品』ではありません。
ゲ-ジュツなどと呼べるお芝居にはほど遠く、
お金をたくさん稼いだ映像娯楽作品、という位置づけです。
同様に、本作の細田守監督に対しても、
優れた映像作家・ビジネスマンであることは認めるところですが、
芸術家としては、首をひねらざるを得ないところです。
特に本作は「役者と歌唱は同一人物でなければならない」という、
ほとんど意味をなさないこだわりのもと、
オ-ディションを経て監督本人が確信的にキャスティングしたわけですから、
役者の演技品質については、100%、監督の責任です。
{netabare}
ちなみにこの作品、『音響監督』がクレジットされていません。
細田監督が東映アニメーション時の経験を引っ張り、
監督が音響監督を兼ねるやり方を貫いているのだとか。
音響監督というのは、BGMやSEも当然扱いますが、
同時に、お芝居のスペシャリストでなければいけません。
監督の意向・イメ-ジを咀嚼してキャスティングを進行し、
(もちろん『提案』であって、決定権は監督にあります)
実際のスタジオ収録現場にあたっては、
役者の解釈と監督のそれを一致させる通訳兼演技指導者として、
それぞれの役者に的確な指示を与えていきます。
オ-ケストラに置き換えるならコンマス以上に重要な役割で、
現場によっては監督が『作曲家的立ち位置』で音響監督が『指揮者』、
みたいになることも珍しくありません。
で、細田監督が音響監督を兼ねるということは、
フルオ-ケストラを相手に単なる音楽マニアがタクトを振る、
みたいな状況に、かなり近いと考えていいと思います。
なにせ、細田監督は完全な『アニメ-タ-上がり』であって、
自分で演じた経験も、先輩音監について専門的に学んだ経験もありません。
平たく言えば自分の『感覚』だけでやっているわけです。
それでも、そのオケがプロの演奏者ばかりなら、
素人が聴いて破綻しているとすぐわかるような演奏にはなりません。
誰が指揮者でもそれなりに鳴らせるからこそ、プロなわけで。
ただ、本作を演じるオケには『楽器を握るのも初めて』みたく、
音を出すのもやっとこさっとこな方もいるわけで……
はっきり言って、ぜんぜん鳴ってません。てか、鳴る道理がない。
ちなみに、同じようにテレビ俳優さん等を多用する新海誠監督は、
あたりまえの話ですが、きっちり音響監督をつけています。
細田監督の『サマーウォーズ』と新海監督の『君の名は。』、
どちらも主演は神木隆之介さんなのですが、
そのお芝居は、なんかもう、雲泥というか月とすっぽんというか。
(後者が『よかった』というより、前者が『ひどかった』)
もちろん、七年という時間軸の差はありますが、
神木さんがアニメで声をあてるのは『サマーウォーズ』で六作目です。
当時でも実写ではすでにキャリア10年、
あの『風のガーデン』で倉本聰作品にも出ていた実力派だったわけで、
若かった・経験不足だった『だけ』だというのは、ちょっと違うかな、と。
つまるところ、音響監督とはそういうものであるわけです。
そして、この演技品質の差がすなわち、
新海監督と細田監督の『総合芸術家』としての矜持の差、
みたいなものだと僕は考えております。
{/netabare}
作品全体の評価は、僕個人としてはB-からCといったところです。
仮想空間の表現や『美女と野獣』ママパチ演出が好きくないのもありますが、
やはり役者さんのお芝居が『自主製作レベル』なのが最大要因です。
主演の中村佳穂さん以外にも『問題のある』演技が散見され、
しょっちゅう引っかかったりつまづいたりで、
作品そのものに集中することができませんでした。
調律の狂ったピアノの演奏を聞かされているようで、
曲想やメロディがアタマに入ってこなかった、みたいな。
おまけに一つ一つの音の粒も粗くて、
『その音がなんのためそこにあるのか』ということが伝わらない、
ただ音を出しているだけの演奏(演技)であったような気がします。
{netabare}
いやいや、この作品、カンヌ国際映画祭でも上演されてんだよ、
世界的にも認知された芸術作品なんだよ、
なんていう方も少なからずおられるとは思いますが、
日本語の演技を評価できる審査員、まずいませんから。
カンヌに限らずジャパニメーションに対する海外の評価って、
日本語役者の演技品質って、ほぼ『対象外』なんです。
海外のアニメフリ-クには、吹替ではなく字幕版を好む人が多いですが
それは日本人独特の『かわいい声質』が好きなのであって、
なにを言ってるのかなんてこれっぽっちもわかっちゃいません。
{/netabare}
もちろん『芸』にこだわるのは僕個人の嗜好・思い入れですから、
そういうところにおおらかな方は、
もっと違った、内容に踏み込んだ感想になるのではと思います。
映画の楽しみ方は、人それぞれ。
どのような視点でどのような感想を抱いたとしても、
そのことを否定するつもりは全くありません。
あくまでも僕は単純に、
自分が尊敬する『芸に全てを賭けた方々』が侮辱されたように感じたので、
ネガティヴな評価になったに過ぎません。
視野の狭い、古くさい矜持に固執するバカ野郎のいうことなので、
本作を楽しく視聴されたみなさん、
どうか気にしないでやっておくんなまし。
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ここから先は、作品本編にほとんど関係ない『役者』の話です。
興味のない方は読む必要のない、読んでも仕方ない内容ですので、
いつものとおりネタバレで隠しておきますね。
{netabare}
現実問題として『声優』と呼ばれるアテレコ役者さんは、
一部の心ない製作・制作関係者から『軽視』される傾向にあります。
芝居の『し』の字もわからない、
モノローグとデンマークの区別もつかないような連中が、
したり顔でキャスティングに口をはさんでくるなんて日常茶飯事です。
泥臭い話で恐縮ですが、
アニメのアフレコとテレビドラマの役者一話あたりのギャラは、
(もちろん尺や拘束時間が全然違うというのはありますが)
ふつうに一ケタ、主演クラスだと二ケタ違うというのが実情です。
ものごとの価値をカネでしか判断できない連中にとって、
アフレコ役者の報酬は『エキストラに毛が生えた』程度のものなんです。
だから、その金額が仕事そのものの評価額である、つまりは
誰にだってできる簡単なオシゴト
実写で通用しなかった役者のするオシゴト
ということなんでしょう、みたいな認識であるわけです。
ですから、リスペクトみたいなものは頭から存在しません。
あの史上最悪アニメである『もしドラ』のEDクレジットなんか、
主演役者や先輩役者を後回しにして、
ろくに台詞もなかったAKB歌手を最初に表示させたりしてますし。
制作サイドがブチ切れるの、あたりまえです。
いやほんと、月夜の晩ばっかりじゃねえ……ないんですのよ、おほほ。
まあ、制作に一切かかわらない連中は致し方ないにしても、
前述のように監督が『アニメ-タ-あがり』であることによって、
とんちんかんなキャスティングが成立してしまうケースも存在します。
誰でも知っている某おじいちゃん、はっきり言ったら宮崎駿監督は、
「媚びた声がいや」「注文通りの芝居になり過ぎる」
とか言ってましたが、それはちょっと違うんじゃないかなあ、と。
そういうのって、どういう芝居が欲しいのか
自分の要望を役者に伝える語彙力がないだけのことなんですから。
そしてその「媚びた声がいや」発言を岡田斗司夫が全肯定したりして、
それが識者の意見みたいに拡散される。
ほんと、いやな世の中になったもんだとつくづく思います。
もちろん、現場に『声優』として送り込まれた方々は、
それぞれが『与えられた仕事』として大真面目にやっています。
専門的な訓練を受けたことがないから、
専業の方々と比べて技能的に劣る方が多いだけで、
決して、アテレコという仕事をなめているわけじゃありません。
中には、専業の方々と遜色ない技量をお持ちの方もおられます。
そういう方は、本当にすごい。感心するしかありません。
また芸の『味』という意味では、
あの『DEATH NOTE』でリュークを演じた中村獅童さんなんか、
既存の役者では出せない、素晴らしく『味』のある芸だったと思います。
つまるところ、きちんと『役』を演じることができるなら、
別にテレビ俳優でもお笑い芸人でもミュージシャンでもかまわない、
というふうに僕は考えています。
ただ『声優』とは役を演じるのではなく『声をあてる』仕事だ、と考え、
だったら誰でもできるじゃん、
そんなら有名な人の方が客よべるじゃん、
お金もうけには集客大事じゃん、
ということを本当に実践してしまう輩が多いからハラ立つだけで。
ですから『鬼滅の刃』が興行収入の一位に躍り出たとき、
ほんとうに、マジで、南極大陸に降り立ったような気持になりました。
ざま-みろ。
ざま-みろ。ざま-みろ。ざま-みろ。
ざま-みろ、ざま-みろっ、ざま-みろっ、ざま-みろっ!
……ああ、おとなげない。
いいトシこいて、なに言ってんだか。
{/netabare}