ひろたん さんの感想・評価
4.0
物語 : 4.0
作画 : 4.0
声優 : 4.0
音楽 : 4.0
キャラ : 4.0
状態:観終わった
表面上は子供向けのほっこりするおとぎ話だけど、その根は深く、とてもよくできた二重構造の物語
異形(妖怪)が出てくる、少しほっこりする「おとぎ話」です。
原作は、児童文学のためか、特に後半の展開は、子供っぽい感じがしました。
しかし、この物語は、それとは反対に思いのほか根が深いものでした。
この物語は、良く晴れた爽やかな青空の下、やわらかい曲とともに始まります。
しかし、そこに広がるのは、愕然とする光景でした。
それは、震災、つまり、地震による津波で壊滅した街並みです。
そこを、この物語の主な登場人物の三人が歩いているのです。
その三人のうち二人は子供で、17歳の「ユイ」と8歳の「ひより」です。
そして、もう一人は、謎のおばあちゃんの「キワ」です。
実は、この3人は、家族ではありません。
当然、二人の少女は、姉妹でもありません。
しかし、あることをきっかけに、岬にある一軒家に一緒に住むことになるのです。
そして、その家とは、なにやら不思議なことが起こる家なのです。
この謎のおかげで、物語序盤からストーリーに引き込んでくれます。
■トラウマの原因の置き場所
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ユイは、父親との関係が上手くいかず、自分が壊れそうになり家出をしました。
父親のことを思い出したり、似た人を見るだけでパニックになります。
ひよりは、両親を事故で無くし、失語症になってしまいました。
二人は、トラウマからPTST(心的外傷後ストレス障害)になっていたのです。
この物語の舞台は、震災後の岩手の海沿いの町を舞台にしています。
しかし、二人の少女のトラウマの原因は、実は、震災とは、直接関係のないものでした。
普通に考えたら、震災による不幸が原因のトラウマを描くのではないかと思います。
しかし、この物語では、その原因を震災とは関係のないところに置いたのです。
このことが、とても大きな意味を持ってきます。
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■「なんで私だけ」
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二人の少女は、各々、自分の身に起こった不幸に「なんで私だけ」と思っていました。
しかし、おばあちゃんはそんな二人をなぐさめます。
「だれでもつらくて悲しい目に合えば、そう思ってしまうものだ」と言うのです。
おばあちゃんのこの言葉は、この二人に対して向けたものです。
しかし、この物語では、震災で被災した一人一人にもあてはまると暗に言っています。
この物語では、「アガメ」と言う化け物が登場します。
それは、退治すべき対象です。
しかし、その実体は、被災した一人一人が持っている負の感情の集合体です。
被災した地域には、いろいろな思いが渦巻いています。
「あの時ああすればよかった、ああしなければよかった」と言う後悔。
自分だけが生き残ったという悲しみ。
多かれ少なかれ、「なんで私だけ」と思っているかもしれません。
被災地には、そんな思いがたまりにたまって渦巻いていると言うのです。
この物語では、直接的には、二人の少女の負の感情を描いています。
しかし、その裏では、間接的に被災地に渦巻く感情も描いているのです。
二人の負の感情は、トラウマから立ち直ろうとする歩みにブレーキをかけます。
当然、それは、被災地の復興に立ちはだかるみんなの弱音を投影したものです。
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■マヨイガ
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「マヨイガ」とは、「訪れた者に富をもたらす山の中の幻の家」のことです。
東北に伝わる伝承とのことです。
おばあちゃんも子供のころ、裏山で迷っていたら、たどり着いたそうです。
この「迷っているとたどり着ける」と言うことがテーマへとつながってきます。
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■「いっぱい考えて迷ってこらん」
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おばあちゃんがユイに、「この先、将来どうする?」と問います。
そこで、ユイは「考えたことはない」と答えます。
興味あることも、やっていて楽しいことも、好きなことも無いのです。
そこで、おばあちゃんがユイに言います。
「まぁ、考えてごらん。
いっぱい考えて迷ってこらん。
そうすれば、どこかにたどり着けるかもしれないよ。
マヨイガにたどり着いたように。」
さらに付け加えます。
「そうやって、自分にできることをやるんだ。
みんな、自分にできることをやるしかないのさ。」
17歳と言ったら、やはり将来に対し悩んでいる時期ではないでしょうか?
おばあちゃんは、そんなユイに対し、夢みたいなことは言いませんでした。
「考え、迷い、そして自分にできることをしろ」と言ったのです。
そうすれば、きっと「たどり着ける」のだと、とても地に足がついたアドバイスです。
実は、これはユイだけに向かって言ったことではないことはすぐに分かります。
そして、これがこの物語のテーマでもあったのだと思います。
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■震災復興へのエール
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この物語は、児童文学らしく子供へのエールになってしまいした。
子供は、親との関係、境遇、その他、将来にむかっていろいろな葛藤を持っています。
しかし、そうやって、考え、迷うことは、当然のことであり、大切だと言うのです。
そして、自分にできることをやるしかないと言うのです。
そうすれば、いずれどこかにたどり着けると言うのです。
実は、これは同時に、これから復興していく人々へのエールにもなっていました。
震災後に残された人々の中には、渦巻く葛藤があるにちがいありません。
しかし、そうやって、考え、迷うことは、当然のことであり、大切だと言うのです。
そして、自分にできることをやるしかないと言うのです。
そうすれば、いずれどこかにたどり着けると言うのです。
{/netabare}
■まとめ
主人公の二人の少女は、震災とは関係ない理由でトラウマを抱えていました。
そこがこの作品の上手いところなのです。
もし、震災が原因で抱えたトラウマだとしたら直接的なものになってしまいます。
それは、逆に直接的すぎてエールにはなりません。
ただの慰めにしかなりません。
人によっては、哀れみに捉えてしまうかもしれません。
しかし、この作品は、震災とは関係ないところに二人のトラウマの原因を置きました。
それを、震災の復興のなかで克服していくことにより、間接的にエールとしたのです。
つまり、二人の少女と同じく震災のトラウマを乗り越えてほしいという願いなのです。
このように二重構造になっているこの物語は、なかなか文学的だなと思いました。
最後、化け物の「アガメ」は、退治されましたが、その後、祀られます。
人の思いは、負の感情であっても認めて居場所を作ってあげるべきなのでしょう。
この物語は、最後に負の感情も否定しなかったところも上手だなと思いました。
また、他ではなく被災地の東北の伝承をモチーフに描いたところもまた上手なのです。
この作品は、被災地支援プロジェクトの一環だそうです。
それに相応しく、力強い応援メッセージが込められていた作品だったと思います。