かがみ さんの感想・評価
4.4
物語 : 4.0
作画 : 4.0
声優 : 4.5
音楽 : 5.0
キャラ : 4.5
状態:観終わった
手をつなぐということ
「大きな物語」と呼ばれる社会的神話が失効したポストモダン状況が加速したゼロ年代においては、それぞれ異なる「小さな物語」を生きる個人にとって新たな成熟観とは何かが社会思想からサブカルチャーに至る様々な文脈で問われ続けていた。そしてその一つの到達点が「つながり」と呼ばれる擬似家族的な紐帯であった。こうした「つながり」の思想の背景には言うまでもなくゼロ年代後半におけるソーシャルメディアの台頭がある。当時は多くの人が、ソーシャルメディアによる新たな「つながり」が切り開く未来の可能性に何かしらの希望を預けていた。けれどもソーシャルメディアが実際にもたらしたものは見たい現実と信じたい物語だけを囲い込んでしまう肥大化した情報環境であった。こうした環境下では「つながり」は容易にクラスター化して、その内部には同調圧力が発生し、その外部には排除の原理が作動する。そういった意味で2010年代とはまさに様々な「つながり」たちが世界を友敵に切り分けあった「動員と分断」の時代でもあった。
この点、魔法少女同士の熾烈な抗争劇が展開される本作は、このような2010年代における社会状況が見事に反映されている。「魔法少女の運命=魔女化」を解放する「ドッペル」とは、いわば希望と絶望のマネジメントを可能とした革命的システムである。そしてドッペルを開発したマギウスの首領である天才魔法少女、里見灯花が第1期最終話で行った圧巻の大演説はあたかも「動員と分断」を扇動するメタ決断主義者のプロパガンダのようだ。そして、こうしたプロパガンダに踊らされた哀れな決断主義者たちがマギウス配下の羽達であり、あるいはマミや鶴乃であった。こうした中、いろはは異なる思想信条を持つ魔法少女同士でも「手をつなぐ」ための可能性をなんとか探ろうとする。手をつなぐということ--コネクトするということ--それは他者との関係性を「つながり」の物語に閉じることなく、常に「つながりの外部」へと開き続ける社会的紐帯のあり方に他ならない。こうした意味で本作は今日的な「動員と分断」の時代に対して鋭い批判力を行使する作品といえる。