ひろたん さんの感想・評価
4.6
物語 : 5.0
作画 : 4.0
声優 : 4.5
音楽 : 5.0
キャラ : 4.5
状態:観終わった
気づいたらあたりが一面が夕闇に包まれていて、帰れなくなってしまう前に・・・。
この作品は、講談社ノベルスから出版されている小説が原作です。
ポスト・アポカリプス、能力者、異形・異種族、そして最後のネタ明かし。
これらの設定はSFではポピュラーです。
物語もジュブナイルやラノベに分類される感じで複雑なものではありません。
そして、伝えたいこともハッキリしていて分かりやすいです。
しかし、スケールが圧倒的に壮大と言うのがすごいところです。
この物語は、現代から1000年後が舞台です。
しかし、飛んで1000年後の世界ではありません。
その間に積み重ねられた黒い歴史の上に成り立っている物語だから壮大なのです。
そして、面白いのは、この物語は、3部構成となっているところです。
主人公がそれぞれ12歳、14歳、26歳の時のことを描いています。
また、エピローグとして36歳の時を描いて、締めくくります。
子どもが知らなくてもいい大人が隠している世界。
そして、その中で成長する主人公の子どもたち。
主人公たちは成長の中で、いったい何を見て、感じて、考えていくのか。
そんな大人になる過程を描いた時間の流れもまた壮大に感じられる理由の1つです。
ストーリーは、とても面白かったです。
主人公たちは、自分たちが置かれている状況を知らずに過ごしていると言うダークさ。
先が読めないミステリーさ。
エグくて、鬱展開のサイコホラーさ。
とにかく見始めたらやめられなくなるそんな話の展開の数々。
全25話と長いですが、一気に観ることができました。
■「偽りの神に抗え。」
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この物語のキャッチコピーです。
この物語は、2つの側面から描かれます。
1つは、主人公たちの視点です。
主人公の子どもたちは、この世界の本当の秘密を知っていきます。
大人たちは、なぜそんなことをやっているのでしょうか?
もう1つは、知性を持った「バケネズミ」の視点です。
バケネズミたちは、人間のことを「神」と崇めます。
しかし、一方でそれとは裏腹に人間に対して思うところがあるようです。
それは、いったいなぜでしょうか?
この2つの謎が分かったとき、「偽りの神に抗え。」の意味を知ることとなります。
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■人間の「業」は、どこまでいくのでしょうか?
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観光牧場で、美味しいお肉になるために手厚く管理されている牛を見たとき。
動物園で、檻の中で寂しそうにしているチンパンジーを見たとき。
水族館とは、現代版ノアの箱舟であり、種の保存について触れたとき。
人里におりてきてしまったクマが駆除されたニュースを見たとき。
もし、人間が反対の立場だったら、どうなんだろうと複雑な気分になります。
この世界は、人間の都合の良いように作られています。
人間は、神ではないのに、この世界を保護の名目で管理下に置こうとしています。
しかし、同じ生き物であっても人間にとって都合が悪いものに対しては冷徹です。
「業」そのものは、ただの行為を表すだけだそうです。
しかし、その行為の結果として善悪がもたらされるそうです。
また、「業」には、輪廻思想も加わり、前世から来世にも関わるものだそうです。
この物語でも、1000年と言う歴史の中で、人間は「業」を積み重ねてきました。
人間は、神ではありませんが、やっていること=「業」は、もはや「神」にも等しい。
これは、まさに「偽りの神」です。
主人公の「早季」は、大人になるにつれ、そんな「偽りの神」に疑問を抱きます。
そして、同じく「偽りの神」に疑問を呈するバケネズミの「スクィーラ」。
彼もまた主人公であり、この二人を中心に話が進んでいきます。
この物語は、二人の視点から描く「偽りの神」に抗う言わば神話です。
バケネズミが「神」と呼ぶ人間「早季」から見るなら、言わば「神」目線の神話です。
一方でバケネズミ目線でその「神」について描く神話でもあるのです。
この2つの神話は、同じ事柄を異なる目線で描いているだけにすぎません。
しかし、この2つの間には、相容れない何か大きくて深い溝があるのです。
立場が変わると、同じ事柄でもそのとらえ方や意味が大きく変わるのです。
果たしてこの物語は、その溝を埋めることができるのかと言うところが面白いのです。
この作品を観ていてふと思い出した映画がありました。
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アニメと同じ年に公開された「クラウド アトラス」の中の「2144年」編です。
この映画に登場するクローン少女が、スクィーラに重なります。
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■「新世界より」第二楽章「家路」・・・なぜこの曲なのでしょうか?
{netabare}
この作品のタイトルは、ドヴォルザーク作曲「新世界より」が由来となっています。
また、メインテーマ(曲)は、その中の第二楽章です。
邦題は、「家路」または「遠き山に日は落ちて」です。
第1話では、それを象徴するかのように遠くの山に日が落ちるところが印象的でした。
この物語では、この曲を毎日夕方に公民館が町内に向けて放送しています。
それは、子どもたちの帰宅を促すためです。
その時の夕焼けはきれいなのですが、日が落ちる寸前の薄暗さは不気味でした。
まるでこの物語のダークな世界観を象徴するかのようでした。
さて、なぜこの曲なのでしょうか?
私は、やはり人間の「業」に対する警鐘なのだと思いました。
人間は、太陽のように世界をあまねく照らすかのように、管理できると思っています。
それは、まるで太陽にでもなれる、神にも等しい存在にもなれると思う傲慢さです。
しかし、太陽だって、あの山の向こうへと沈みます。
人間のその傲慢さもそのうち沈みゆくときがやってきて暗闇につつまれてしまいます。
それに早く気付くべきです。
そして、人間は、本来、いるべきところへ帰るべきなのです。
「神」の領域に人間はいるべきではありません。
なぜなら、そこは「偽りの神」の領域だからです。
つまり、第二楽章は、この物語では邦題の通り2つの側面を表していると思うのです。
「遠き山に日は落ちて」は、人間の傲慢さには終わりがくることを示唆しています。
「家路」は、人間のそんな傲慢さを気づかせ、早く帰ることを促していたのです。
気づいたらあたり一面が夕闇に包まれていて、帰れなくなってしまう前に・・・。
それは、まるで夕方の放送のような役目を担っていたと思うのです。
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■まとめ
物語の最初と最後では、「家路」に対するイメージが異なると感じます。
最初のころは、どこか暗く、陰湿で不気味な感じがしました。
しかし、最終話では、なんとも清々しく聞こえるからとても不思議です。
それと同時にこの長い物語が終わったんだなと実感もさせてくれました。
とても面白い作品だったと思います。