エイ8 さんの感想・評価
3.7
物語 : 3.5
作画 : 4.5
声優 : 3.5
音楽 : 3.5
キャラ : 3.5
状態:観終わった
視聴者VS作者
『恋は雨上がりのように』(こいはあめあがりのように)は、眉月じゅんによる日本の漫画。2018年1月から3月まで、フジテレビ「ノイタミナ」枠ほかにて放送された。(wikipedia)
タイトルを今風に変えるなら「しがないおっさん店長の俺に17歳JKがグイグイきて困ってる」みたいな感じか。まあでも大体そんな感じ。但し主人公はJKの方。ある意味珍しいのはJK主人公の方が美形で狙われるおじさんの方が冴えないキャラ設定となっている。
ヒロイン?の近藤正己(45・男性・バツイチ子持ち)が文学少女……じゃなくて文学中年の設定。画風は昭和テイストで描かれている中年男性像も正直古い。
ある意味女性が考える「人格的に理想の大人の男性」みたいなところがあるように感じて、ようするに若いおなごにグイグイこられてもそれを毅然とはねのける力が近藤にはある。アニメで見る限りではそこまで性欲や孤独感との葛藤のようなものは描かれてない。全くないということはないが、大体は少女に翻弄されながらも線引きはきっちりする大人の構造。
よくこの作品の評価として「おっさんの薄汚い願望の現れ」みたいに言われるがむしろ事情は逆で、女性の側から見た「大人の男性たるものこうあって欲しい」という願望の現れとして見る方が適切じゃないかと思う。アニメでは最後あきらが正己に一礼して去っていくシーンがあるが、あれは成長したあきらからの「今までご迷惑おかけしました」という図、かと。勿論、散々アプローチをかけたにもかかわらず手を出さないでくれて助かったという意味も込めているだろう。あきらのその時の感情ではなく未来を見据えてくれた大人への感謝であり、おそらくこれは作者からのメッセージでもあるだろう。
もしあなたが少女でこの作品を読んでいたのなら、その時の感情に流されないようにして下さい。その恋心はぽっかりと開いた心を埋めるための逃避に過ぎず本当のものではありません。あなたはただ雨宿りをしているに過ぎないのです。
もしあなたが大人の男性でこの作品を読んでいたのなら、その時の劣情に流されないようにしてください。相手は未来のある若者であってあなたを満たすための存在ではありません。仮に相手から迫られても決して本気にしてはいけません。少女はただ雨を凌ぎたいだけなのです。やさしく導いてあげてください。
……てな具合に。
もっとも現実にこういうことが起きたとしても大抵のおじさんはとりあえずビビる。理由は捕まりたくないから、ただそれだけ。ひょっとしたら何とかJK卒業まで気持ちを留めさせようと躍起になる人もいるかもしれないが、今の時代は普通にリスク回避にのみ尽力する。結果として正己みたいな行動を取るおじさんが多いんじゃないかな。(そして後に言い寄られてたことを思い出し「あーあの時ええかっこせんかったらよかった。でもそうするとつかまってたかもしれないし……」みたいな葛藤ループに陥るわけです。)
とはいっても実際のところはおっさん視聴者がJKとのワンチャン願望込みで見てたというケースが大半だったようで、放送当時はあまり良い結末として受け入れられなかった。さらに原作の最終回が出た時には荒れに荒れた。
「あにこれ」で原作の話をするのはあまりよろしくないだろうがタイトルにも関わってくることなのでちょっとだけ。一応原作ネタバレになってくるのでご注意を。
{netabare}最終話であきらが「雨宿りをしてただけ」という台詞がある。これは当時結構物議を醸した。タイトルでは「恋は雨上がりのように」となっているからだ。そこで様々な考察がなされたわけだが、個人的にはこれは視点の違いによるものだと解した。ようするにあきらが恋をしている間は「雨上がりのよう」だったが、恋が終わってから見れば単に雨宿りをしていただけに過ぎないと感じたわけというように。(勿論雨とは陸上ができない状態のことを指す。)
自分としては結構自信のある解釈だったのだが後に作者が正解を出しちゃったようだ。「恋は雨上がりのように ブログ」などで検索すれば出てくるが、ようするに「恋」自体が雨上がりのようにそのうち陽に照らされ消えていく(忘れていく)ということらしい。
勿論作者としては別にこれを「恋」全般に対してそういうものだと主張しているわけではないだろうが、個人的には正直やたらペシミスティック(悲観的)な考え方だなと感じた。文学的な発想といえばそうなんだろうけど……
作者はこの作品において成就した恋(雨上がりの空)というものを、あきらにおいては「陸上」、正己においては「小説」として、どちらの恋も成就したハッピーエンドとして描いたらしいが、だとすると人間との恋については達観しているように映ってしまう。
一つ気になったのは、正己はこのことを「ずっと忘れない一日(最終巻)」として、あきらは「いずれ忘れてしまうだろうかけがえのない一日」としていたことだ。この辺はよく言われる「男は名前を付けて保存、女は上書き保存」的な感覚から男は引きずるが女はカラッと忘れる前提で自明の如くそうしたのかもしれないが、正直偏見だよなあとは思った。
この物語の肝は、恋物語であるのに実際のところは人間に恋しているわけではなかったということにあるのかもしれない。ふたりの恋は「雨宿り」に過ぎなかったわけだから。しかしながら少なくとも作中におけるあきらの主観では真剣な恋をしている。にもかかわらずそれを「雨宿り」つまり偽物の恋としたことは相手が正己という中年男性だったから納得がいってしまうが、そうなると今度は「結局恋って属性なの?」という疑問が湧いてくる。というのも、これが同級生の恋物語であれば「実は恋してたのは陸上の方ですw」とは多分ならなかった筈だ。その場合は「恋」より「夢」を選んだとなり、そしてこの恋は大切な思い出としてあきらの方でも「ずっと忘れない一日」となっていたことだと思う。
実際原作では正己のifとしてあきらと同級生だったなら、のようなシーンがあった(うろ覚え)が、多分その場合なら成就していたかもしれない恋だったということを言いたかったのだろう。恋は陸上でも文学でもなくやっぱり人間同士だったというわけだ。
こうやって見てみると、恋心は陽の光によって照らされ消えていくなんてそれっぽいこと言ってるけど、結局のところやっぱり歳の差につきるって身も蓋も無い話にしかならないよなあと感じる。
或いは若いうちの恋は偽物、歳の差の恋は偽物、挫折した時に抱いた恋心は偽物という発想がもとにあるのかもしない。だとしたら本当の恋とは何?って気もしなくもないが。
ちなみに最後の日傘をさしたシーンで「あきらはまだ正己を諦めてないのではないか?」と考える人が結構いたが自分はそうは思わなかった。
何故ならおじさん視点からすればおじさんであることは「今」なのだから、別にこれからJKとなんかあったってええやないかとか思うかもしれないが、おばさん視点からすればJK時代は過去の話の筈で、仮にその時の恋が成就したとしても自分が正己の年齢になる頃には相手はもう還暦を越えている。介護のことや相続のことも考えないといけないわけだから考えるだけで寒気がしても不思議ではない。だからあの日傘をさしているのは、陸上という強い日差しに呑み込まれないためとか、次に雨が降って来たとしても安直に疑似恋愛に逃げることが無いようにだとかそんなとこだろうなと思った。これに関しては正解が出されていないようなので実際のところはわからないが、少なくともおじさんが期待するようなことでないことだけは確かだと思う。
ついでにいうと、正己には現状若いだけが取り柄のあきらよりは元妻の方がふさわしいと思った。正己の身勝手な事情で別れて尚気にかけてくれるわけだし。あきらなんかより遥かに濃いドラマががあって結婚してるだろうしね。そういう視点で見るとこの元妻(みどり)の方の恋は雨降って地固まった状態なのかもしれない。 {/netabare}