フリ-クス さんの感想・評価
4.2
物語 : 4.5
作画 : 4.5
声優 : 4.5
音楽 : 3.5
キャラ : 4.0
状態:観終わった
アンチ涼宮ハルヒの消失
大人気作品なんだけれど、どうにも主人公に感情移入できない。
そういう作品って誰しも一つ二つはあるんじゃないか、
そいうふうに勝手に思っております(もしなかったらごめんなさい)。
僕にとってのそれはSAOのイキリトくんであったり、
リゼロのスバルくんであったり、
あるいはFATEシリーズのシロウくんだったりするわけです。
あくまでも好き嫌いの話、
ピ-マン嫌いのがきんちょみたいな話ですから、
嗜好が違う方、気にしないでおくんなまし。
で、『涼宮ハルヒの憂鬱』のヒロインである涼宮ハルヒも、
僕にとっては長い間、好きになれないキャラクターの一人でした。
エキセントリックなようで実はわがままなだけだし、
人の気持ちあんまり考えないし、
やることなすことジャイアニズムほとばしらせてるし。
その性格の発端となった野球場の話なんか、凡庸過ぎてためいきでちゃいます。
美少女に振り回されたいという方々の思いはわからなくもないけれど、
僕にはそういう願望がないから、パスです。
実体験的に、ひたすらめんどくさいし、腹立ちますもん。
さて、本作『涼宮ハルヒの消失』は、
そんなワタクシの涼宮ハルヒ観に一石を投じてくれた作品です。
テレビシリーズを見てない方は丸ごとおいてけぼりなので、先にそちらをどうぞ。
物語は、テレビシリーズと同じく能天気なSOS団の日常から始まり、
いきなり『SOS団がなく、ハルヒもいない』朝がやってきます。
長門有希も朝比奈さんも、存在はしているものの、キョンのことは覚えていません。
そしてそこからしばらくは、
失われたSOS団を求めさすらうキョンの姿が重苦しく描かれていきます。
{netabare}
消失から長門有希の残してくれたメッセを見つけるまで、なんと35分。
もう、ぐったりするほど絶望的な、光のない展開が続きます。
そして、そこからハルヒに出会えるまで、さらに24分。
ほとんど60分、テレビ尺に直すと丸々三話分ぐらいの尺が、
タイトル通り『涼宮ハルヒが消失した世界』の描写に使われているわけです。
正直、見ていて『しんどい』のですが、
これぐらい長いからこそ、
キョンが『失ったもの』の大きさを観る側が共有できるわけです。がまんしろ。
さらに、その再会から元の時空に戻るまでが、またまた約60分。
ハルヒと出会えたことでようやく歯車が動き出し、
真相の解明と解決にそれだけの尺が用いられていきます。
ここはキョンの冒険譚みたいな流れで、
観る側は手に汗握りながら、衝撃の真実と直面することになります。
本作は160分という長尺作品なのですが、つまるところ
プロローグ 約20分→能天気・楽しさ(動・快)
消失世界編 約60分→焦燥・絶望(静・鬱)
解明・解決編 約60分→冒険・解明(動・興奮)
エピローグ 約20分→感動・平穏(静・安堵・納得)
というメリハリの利いた起承転結で構成されているわけであります。
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作品の評価としてはAランク、Sでもおかしくありません。
テレビシリーズを見た方であれば、
2時間40分という尺が、あっという間に感じられるのではと愚考いたします。
映像は、さすが京アニ劇場版の一言。
どこをとっても作画の乱れがないどころか、
登場人物の被服の質感までもが、ほぼ完璧に表現されています。
役者さんのお芝居についても、安定の一言。
そして演出も、素晴らしいの一言です。
たくさんあり過ぎてとても語りきれないのですが、
特に感銘を受けたところを二つだけご紹介いたします。
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一つ目は、長門有希がキョンから入部届けを返されるシ-ン、手のアップ。
ただの紙切れ一枚を受け取るのに『空振り』しちゃうんです。
この、台詞も劇伴もないSEだけの、
表情すら描かない演出で、
長門の受けた衝撃・失望の大きさが痛いほど伝わってきます。
手が逡巡する演出というのは他にいくらでもあるのですが、
一度『空振り』するというのは初めて見ました。
ふたつめは、キョンの自問自答シーン……じゃありません。
(あれはあれで、アーティスティックでよかったけれどね)
それよりも、キョンを刺した朝倉がナイフを引き抜くシ-ンが強烈でした。
踊るように、軽やかに、くるっと一回まわる。
ただそれだけ、わずか一秒足らずの演出が、その直前の笑顔と交錯して
彼女の『狂気』を瞬時にして観る者に伝えます。
このシ-ン、サバイバルナイフの柄の抑え方といい、
体重が一点にかかる身体のぶつけ方といい、
いやほんと作画の魂入ってます。
それにしても朝倉さんっていいキャラだわ。
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こういう優れた演出ができるのって、
やっぱり原作上で『人のカタチ』がしっかりできているからなんですね。
だから、脚本家も余分な説明セリフを書かなくていい。
それが共通認識としてコンテに受け継がれ、魂の入った作画に繋がるわけです。
まさに理想的な好循環と呼べるのではないかと。
人物造形だけでなく、ストーリーもよく練り込まれています。
テレビ版からかなり引っ張っている点が多いので、
僕みたいに三歩あるいたら忘れる人間には難易度高めですが、
ちゃんと繋がったら「おお、なるほど」と。
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着地点は長門有希の総どりみたいな感じになっていて、
ああ、これでまた長門キ〇ガイの諸兄が増えてしまうんだろうなと、
納得してみたりげんなりしてみたり。
{/netabare}
ちなみにストーリー上、ハルヒ自身はあまり重要なポジションにありません。
ただ、それでも、この作品で、
僕は涼宮ハルヒというキャラクターを一から考え直すことになりました。
その起点は台詞とかストーリーではなく、描かれた『目』でした。
{netabare}
物語も中盤になって、ようやくキョンがハルヒを見つけ出します。
光陽園学院の正門前で、不審者のごとく待つこと暫く。
ようやく姿を現したハルヒの『目』は、怒りと倦怠と鬱屈に満ちていました。
(キョン曰く『敵のいない格闘家みたいな目』ですね)
その目を見た瞬間、僕はこの時空間軸が、
キョンにとって『SOS団のない世界』であったのと同じように、
ハルヒにとっても『SOS団のない世界』であったことに気づかされるわけです。
性格が改変された長門を除くと、
キョンも、朝比奈さんも、古泉も、話し方や外観に変化はありません。
ただ一人、ハルヒだけが『SOS団ロス』による変貌をしていたのです。
そこでまた、僕は気づかされるわけです。
涼宮ハルヒがSOS団にとって絶対無二の存在だったように、
SOS団は涼宮ハルヒにとって絶対無二の『受け皿』だったんだなあ、と。
つまるところ、神のごとき力があろうがなかろうが、
涼宮ハルヒという人間は内在するエネルギーなり器なりが『大きすぎる』んです。
だから、普通の人間には理解できない、受け止めきれない。
それを無理に、きちんとした生徒ばっかりの進学校なんて『箱庭』に放り込むと、
そのエネルギーをどこにも放出できず、歪んでしまいます。
ハルヒという人間のエネルギーを受け止めるには相応の『器の大きさ』が必要で、
それが宇宙人、未来人、超能力者であったり、
あるいはキョンみたく『器の大きな』ただの人間であったりするわけなんです。
SOS団結成前のハルヒを思い起こしてみると、
確かにキテレツな言動はあったものの、
誰かをいじめたり無理を言って困らせたりとかはありませんでした。
ハルヒはハルヒなりに、
自分を受け止められる相手というものを推し量っていたのだなあ、と。
だから直感的に、自分が自分であれる相手を選んでSOS団を作った。
それが嬉しくてたまらず、
ついつい暴走して何度もキョンのひんしゅくを買うことになった、みたいな。
だからといって朝比奈さんを好きにいじめていいとは思えませんが、
SOS団のない世界でのハルヒの『目』を見ていると、
彼女がいかに深く『受け皿』を求めていたかがビリビリ伝わってきます。
一番すごいのは、
わずか数カットの『目』の描写だけでそれを語り尽くしちゃう京アニさんですけどね。
キョンと会ってから時系列での、ハルヒの『目』の変化、鳥肌ものです。
{/netabare}
そんなわけで、僕はこの作品を見たことによって、
涼宮ハルヒのことを少なくとも『嫌い』ではなくなりました。
好き、とまでは言えないけれど、人間として理解はできるなあ、と。
ちなみに、当時はヲタ芸の代名詞となっていた『ハレハレ』ですが、
あれ、素人さんがやっているの、
いま見てもこっ恥ずかしいですよね。
当時、調子に乗って非ヲタの皆さんの前で披露しちゃった方、
いまや立派な黒歴史となり思い出すたび身悶えされているのではと、
心よりお見舞い申し上げます。