ナルユキ さんの感想・評価
3.2
物語 : 1.5
作画 : 4.5
声優 : 4.0
音楽 : 4.5
キャラ : 1.5
状態:観終わった
ハイジとクララなら2時間で同じ感動を与えられる
私は予めネタバレを観てしまった状態で視聴を始めたので本作に焦らされることも落胆させられることもない──非常にダメージの少ない状態で完走することができたが、この作品を初見かつ地上波で追った方達の“もどかしさ”と“失望感”はきっと計り知れないものだろう。
作画、音楽、演技がトップクラスの高クオリティを示す中で“泣きゲーのパイオニア”たる麻枝准氏の脚本……『Angel Beats!』も『Charlotte(シャーロット)』も賛否両論な評価であるが、本作は前2作とは比べ物にならないやらかしをしてしまっていた。
【ココが面白い?:のじゃロリ少女の出現と予言による大きな期待】
修道女のような格好をして神を名乗り、爺さん口調で偉そうに喋る典型的な「のじゃロリ」少女・佐藤ひなを、あやねること佐倉綾音が演じる可愛さが一先ず本作のウリと言えるだろう。そんなキャラクターが唐突かつ普通に現れて主人公・成神陽太(なるかみ ようた)に「我は全知の神・オーディンなり」「30日後に世界が終わる」としつこく告げる。
陽太は最初ひなを只の「中二病の迷子」として接していくのだが、少し共にしただけで彼女は「予報にない雨を察知して傘を買い求める」「競馬の馬の順位を全て言い当てる」など神憑りな力を発揮し、驚かされてしまう。
彼女は本当に神様なのか……!?
陽太と視聴者ともにそう思わせていくことで、ひなが告げた世界の終わりという突拍子もない予言に真実味が帯び始める。本当だとしたら世界はどのように終わるのか。それを告げる少女・ひなの正体、世界を終わらせない手段を平凡な日常からどう模索していくのかetc. 色々と考察できる部分が第1話から存分にあり、先の展開がとても気になる構成になっている。
【しかしココがつまらない:日常回が多すぎ】
世界は30日後に終わる。
そんな衝撃的な未来に対して、ひなと陽太は「世界が終わる前に充実した夏休みを過ごす」というどこかズレた方針で動き始める。まるで「明日世界が終わるなら、あなたは今日どんな1日を過ごしますか?」のスケール拡大版だ。もっとも、陽太は世界の終わりを信じきれておらず、受験勉強に手をつけてはひなに「世界が終わるのに勉強なんかしても意味ないやろ!」とノートをひっくり返されるのが御約束となったが。
こうして始まった日常パート、結論から書いてしまえばとんでもなく長過ぎた。
{netabare}毎話の最後に世界の終わりまでの日数が表示される。30日→24日→17日→13日→11日→9日→6日……と刻々と日付が進んでいる。その割には「世界の終わり」に対して何も進展がない。日付を数えてもらえばわかるが7話終了までは全く話が動かない日常回なのである。
何かが起こりそうな伏線めいたシーンはあるものの何も起こらない。日付と本作の尺だけを只々浪費していく様に、何かが起こりそうな期待感となかなか何も起きない焦燥感にやきもきさせられてしまう。{/netabare}
日常の内容も若干キツい。{netabare}第2話ではひたすらに『アルマゲドン』『ロッキー』『シザーハンズ』など、有名ではあるが微妙に古い映画のパロディを連発してスベり倒すシーンが挿入され、非常に共感性羞恥を煽る内容になってしまっている。口で「バシッ」「ドカッ」って擬音をつけるのは小学生時の黒歴史だから止めてほしい(笑)
3話は妹のOGが経営するラーメン店を再生する話だが、これも『情熱大陸』だか『カンブリア宮殿』のパロディ風になっており、陽太役の花江夏樹さんが愉しそうに演技していることだけは伝わってくるが……(汗 と言った内容。
4話に至っては真面目に観ていない。天を仰いだりスマホを弄っていたりした。陽太が麻雀で変なことをしているというのは理解できるのだが、当方、麻雀知識はからっきしなのでどんな面白いことをしているのかがまるで伝わらなかった。{/netabare}
笑える笑えないは個人の好みではある。しかしそれを差し引いても本作はギャグを入れ過ぎていると思う。前半はコメディ、後半がシリアスというのがKey作品の伝統らしいが、日常コメディに割く尺の取り方が明らかに前作の『Charlotte (シャーロット)』より増加しており、悪化の一途を辿ってしまっている。
【ココがひどい:“世界の終わり”の真相】
{netabare}第8話でやっと話が動き出すのだが、ネタばらしは唐突だ。
ひなは生まれた時から「ロゴス症候群」という不治の病に侵されており、本来は歩くことも喋ることもできなかった。私たちの世界で言えば脳障害由来の“筋ジストロフィー”患者だったのだ。
そんな彼女を治療したのが亡き祖父・興梠博士であり、様々な分野の権威であった博士はひなに超高性能な量子コンピュータチップを埋め込むことで健常者──いや、それを通り越して全ての事象を演算によって予知することができる“神”になったんだと。{/netabare}
うーん、チープ(笑) ここまでひなの正体を未来人説や異星人説、はたまた本作が『Charlotte (シャーロット)』と世界観が繋がっている説など様々な考察をしてきただろう視聴者にとって、この真相はそれらで組み上げられたハードルの遥か下を潜ってしまった。
{netabare}そして「世界の終わり」というのも飽くまでも「ひなの世界が終わる」=頭の量子コンピュータが奪われることを指しており、そのことに気付くのが終わりの当日という体たらくである。
そこからシリアスな逃亡劇が始まるようで始まらず、ひなは謎の組織に捕まって行方をくらませてしまう。{/netabare}
【ココもひどい:やらかしまくりな“普通”の高校生】
{netabare}次に陽太が再会できたひなは案の定、難病患者に逆戻りしてしまっており──てか組織はよくひなちゃんを生かしておいたな。人の頭開いてチップ取り出す倫理観なら殺すことにも抵抗無さそうに思えるのだが──、陽太は彼女を引き取るために孤軍奮闘することになる。そんな彼へのヘイトが恐ろしいほどに高まるのが10~最終話だ。
「大きな声を出さないでください」と注意されているのに何度も叫ぶ、そっぽを向くひなを力ずくで自分の方に向かせようとする、ゲームをやらせて指示を出しまくり上手くできないと「あ~○○しちゃった~」と責めるetc. 病人にとっての「無理」を強いる人物というのは観ててどうしても不快に思ってしまうものである。
ただ、成神陽太という人物は良くも悪くも“普通”の高校生だ。特別な能力もなければ秀でた才能があるわけでもない。一朝一夕でサナトリウムの職員と同程度の適切な接し方ができるわけもない。そんなリアルな人物設定がよりにもよってこの終盤に牙を剥いてしまった。制作側にとっては陽太の「努力」ないし「愛情」をトライアンドエラーで描写したつもりなのだろうが、それに病人のひなが嫌がる・苦しむシーンが付随することによってたまらなく不愉快──所謂「胸糞」要素に感じるようにできてしまっている。 {/netabare}
【他キャラ評】
鈴木央人(すずき ひろと)
{netabare}代表として彼の名を挙げておくが、ハッキリ書いて陽太とひな以外のキャラクターは只の舞台装置でしかない。2人だけで回せる終盤になると陽太が北海道のサナトリウムに向かうという形で皆フェードアウトする。これまで登場してきた重要な意味をまるで持ち合わせておらず、個々に与えられた役割はモブでも果たすことができるだろう。
このキャラもそうで、陽太たちの裏で興梠博士の研究を調査・ハッキングすることでひなの頭の中にある量子コンピュータを突き止めてしまう戦犯だ。しかし、それに罪悪を感じて陽太をサナトリウムに連れていくのが最後の出番となる。凄惨な過去も自身の能力を利用し続ける大人への敵意というのも全く活かされない。これならハッカーが量子コンピュータの場所を突き止めていくというシナリオ自体が余計な尺稼ぎにも見える。 {/netabare}
【総評】
冒頭にも書いたが作画は「P.A.WORKS」、音楽はOPとED共に「麻枝 准 × やなぎなぎ」で送るトップクラスの高クオリティを誇りながら、脚本はまるでそれに見合わない出来だった。
描きたかったことは理解できるし、それをなんとか示したい。本作では司波素子(しば もとこ)という名有りのキャラクターだったが、その介護士が問いかける。
{netabare}「あなたの知ってる女の子は本当の彼女ではなく機械が演じたものだったのでは?」{/netabare}と。
この残酷感・絶望感は確かに痛烈であり、それを信じたくない主人公の奮闘、絶対に彼女を連れて帰るんだという信念は熱い。そしてもうダメかと思われた時のわずかな奇跡、主人公の想いが通じたボーイミーツガールとしてのグッドエンディングで視聴者の感涙を狙ったに違いない。この“制作側がやりたかったこと”が詰まった終盤だけを切り取って観れば決して悪い出来ではなかった筈である。
ただ、その感動的な結末から逆算的に物語を作って、そして力尽きてしまったかのような詰めきれていない設定とキャラクター、だのにそれらを意味ありげに見せてくる第1話等の演出が多くの視聴者の考察を促して、そして白けさせてしまったのだと思う。「勝手に期待して勝手に失望したのはそっちでしょ?」とでも言いたげな、ある意味で非常に図太い作品だ。
もう少しシンプルに、2時間映画でぎゅっとまとめられたら評価はまた違ったかもしれない。だがもっと厳しく書けば本作が狙った“泣きの原点”も原点に帰りすぎて最早『アルプスの少女ハイジ』の「クララが立ってる…!」と同じ種類の感動になってしまっている。歩けなくなった少女が歩けた。喋れなくなった少女が「好きだ」と告白した。素直に観れば泣けるけれどもそんな昭和の感動を令和で見せること自体そもそもの間違いだったのではないだろうか。