薄雪草 さんの感想・評価
4.1
物語 : 4.0
作画 : 4.5
声優 : 4.0
音楽 : 4.0
キャラ : 4.0
状態:観終わった
噛んで含める物語です。
思い浮かぶ名前が、その出自を物語るなら、どんなに恐ろしいことだろう。
ラッカ=落下・・・。レキ=轢・・・。
少しのインスピレーションで、不慮の事故(あるいは恣意的?)だってことがたやすく想像できる。
きっと、元の名は愛情に満ちたものだったに違いないのに。
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人里離れて過ごすオールドホームには、どこか省察を促すような雰囲気がある。
町の人とは違うしきたりがあるようで、仕事もそれぞれに見つけるものらしい。
それは、生前の夢の途中だったのか。
あるいは、来世へのささやかな糧になるのか。
それとも、贖罪と敬虔を思索する彼我の境域なのだろうか。
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罪憑きとは穏やかでない。
だが、招かずとも招いてしまったゆえに、憑き物となるのだろう。
ならば、羽をどれほど抜いても、どんなに塗りこめても、記憶の遺伝子はケロイドとなって、過去を打ち続けるのだろう。
そんな灰羽たちが向き合うのは、実のところ誰にも同じで、誰とも代わり得ない今世の因果なのだ。
思想・容姿・境遇に関わらず、魂を向かわせる生き方を、この今に見つけねばならないのだろうか。
沁み焦げた悲しみはあまりにも大きく、一人では癒せない。
灰羽の家は、そんな彼らが温もる宿り木のように見えてくる。
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壁のなかは水脈の円環。
永遠を示唆するその流れは、ラッカに与えられた課題だろうか。
カラスは甦りへの使者だ。
まだ落ちてはならない。まだやり直せる。
そう訴え、死に抗うのだ。
いつまでここにいるのだ。いつ壁をこえるのだ。
そう諭し、再誕へといざなうのだ。
ラッカは、新しい芽吹きに、何を想うのだろう。
いかに語り、どう接するのだろう。
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神話に、天の八衢(あめのやちまた)という言葉があります。
天上世界から地上世界へと降りる途中にある、たくさんの分岐のことです。
人の魂は、その生が志半ばに終わると、やり残したこと、見つけられないでいたことに深く悔やみ、長く未練を残します。
この物語は、そんな舞台の一つなのかもしれません。
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追記です。
{netabare}
あくまで私論です。ご参考程度にお読みください。
気に障るかもしれません。そのときはごめんなさい。
死後の世界は三つに分かれていて、天上界と地獄界、もう一つは中有霊界と言われるそうです。
ラッカが暮らすグリの町は、なんとなくですが、中有霊界に感じます。
生きているうちに特段の貢献もなく、でも罪も犯さずに過ごしてきた人が集うところです。
ですから、基本、善い人しかいません。
死後の世界は、生きていたときの様々な体験と、得てきた価値観や記憶にシンクロしている世界です。
自分がそう思うから、そういう霊界に自然と行き、自分が願うから、あたかもその年齢のままに暮らすのです。
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例えば、キリスト教の世界観だと、もともと人間には原罪があり、神に許されることで天国界に行ける。これが文化的基盤になっています。
懺悔などの行為が、教会で日常的に見られるのが象徴的です。
「神が人を許す」が根本にあるので「自分が自分を許す」なんてことはしないし、できないのです。
日本人の感覚と違うのは、死んだあとでも煉獄という厳しめの世界をわざわざ設定しているところ。
死後に至っても「自らを打ち、神に許されたい」と望んでしまうのです。
これって、言わば、上位たる神と下位たる人間の、一対一の関係性の "呪縛" なんですね。
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では、日本の宗教概念はどうでしょうか。
まず、神道には霊界はなく、アニマという概念に近いです。
自然界に戻り、子孫をそっと見守るという感覚でしょうか。
折々の四季、過ごした故郷に、自然と湧き出す感情には、そこに根っこがあり、魂が共鳴するからです。
故郷に帰ると、どこか癒され、なぜか許された気分になるのはそういうバックボーンがあるからです。
次いで、普通に思う死後の世界観は、多くは仏教に依拠しています。
6世紀以降の国策として輸入された概念で、胎蔵界(たいぞうかい)、金剛界(こんごうかい)という如来・菩薩・明王たちの住む極楽浄土と、閻魔大王や鬼たちの坐す地獄界。
それって、昔の人にしてみれば、まるでアニメのようなものだったかもしれません。
見たことも聞いたこともない世界観、勇者、お姫様、魔法使い、そしてラスボス・・・。
感性がしびれるようなダイナミックなものに思えたかもしれませんね。
こうして俯瞰してみると、西洋はもちろん、東洋もなかなかの両極端を見せる霊界ばかりですから、フツーの人でいることは、いささか居心地が悪く、死んでからでも落ち着いた生活が送れません。
そこで登場する(設定された)のが中有霊界というわけです。
どんなところか、ですか?
もうご覧になっていらっしゃいますよ。
グリの町。あのイメージがそのまんま中有霊界です。
ということで、ラッカやレキの姿は、見かけ上は人の姿としてアニメートされていますが、ほんとうはと言うと、"魂としての存在" です・・・。
そんなふうにしてとらえてみると、案外と、全体を通して理解の助けになるのではないかと思います。
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さて、そんなことを前提にして、ここから後半です。
グリの住民が、ラッカたちを「幸福な人」と話していたでしょう?
それは、彼らの住む世界から、とても早く転生できるって意味です。
霊界は、生きていた時の体験や考え方が似通った人が集まる "想念世界" です。
だから、とにかく気が合って同調してしまうので、魂の成長(気づきのはたらき)が難しいのです。
もう一歩突っ込むなら、現状への妥協が一番にあり、なんらの疑いも感受しないので、転生への切迫する必然性や、自ら環境を変えようとする動機など "ないに等しい" というわけです。
でも、灰羽連盟があることで、中有霊界の住人にもささやかな変化の機会が与えられている・・・。
深いお付き合いができないルールなので、とてもゆっくりなんです。
おおよそ300年くらい、あの塀の中で暮らすのです。
300年と聞くと驚かれるかも知れません。
でも、グリの人たちは、肉体的な負荷などあってないようなものですし、精神的なストレスもほぼ感じずに済む "ケセラセラ&イージーゴーイング"。
好日暮らしを毎日リセットしながら、それを漫然と繰り返しているのですね。
グリの人たちは、転生のことを分かって喋っているわけではなさそうですが、灰羽たちが急にいなくなってしまうことを不審に思わないのも、姿かたちから受ける印象だったり、肯定的な意味合いで何かをキャッチしているのかも知れませんね。
灰羽連盟だけが塀の向こう側に行けるのは、「罪の意識の素因をどこかに感じており、その因由を自らの意志で探求しようとするから」です。
一人では無理でも、仲間の集団と、話師という導きがあるのも、日本らしい "和" の計らいということでしょう。
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本作に通底するのは、「執着バイアスの強さ=既成概念」と「そこからの解脱=気づきの柔軟性」の "意味合い" です。
すなわち、自らの業腹(ごうはら)に冷静に対峙し、その劫罪(ごうざい)をまずは受け止める。
次いで、神性や仏性に許しを乞いながら、逃げずにやり直そうと腹をくくることができるかどうか。
その覚悟に至るタイミングを掴むことが、自らを縛りつけていた執着バイアスが解かれるチャンス。
世界と自分との捉え方に変化が生まれ、壁をこえる=転生するきっかけになるんですね。
そのメッセンジャーが、甦りの象徴たるカラスという訳です。
"この壁はお前の深層意識が作り出している。今こそ羽ばたく時なのだ。"
"さあ越えて行け。海千山千、玉石混交の現世へと飛び込んでいけ。"
と。
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オールドホームの仲間は、みな若く、未熟で、浅学です。
きめ細かく理解しあうこと、懐深く共感しあうことは難しいでしょう。
ラッカやレキたちの会話がどこか噛み合わないのも、生前に積んだ業がそれぞれに違うし、気づきに至るプロセスも自分だけのものだからです。
逆に言えば、グリの住民が自らの意志で転生できないのは、処世をそれなりに上手くこなしてきた "良くも悪くもの弊害" とも言えそうです。
そう思うと、善人ぶって丸く収めようとすることが、果たして全人格の完成というプロセスとしてはどうなのか、なかなか悩ましいところです・・・。
まあ、"悪に強い善" というのが、理想の一つなのかも知れません。
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禅宗には「只今に生きる」という教えがあります。
踏み出す一歩に、呼吸の出し入れに、自分を "新しくする" 。
そういう意味です。
公案は、師と弟子、弟子同士で論じあいます。
そこで得たものがその人の境地であり、心のさま=ものの見方=気づきの力そのものです。
狭小な我執からの解放。これを悟り(差・取り)と呼びます。
本作は、そのアイディアをいくらかトレースしているように感じます。
視聴後の感覚=境地はご自身の宝物です。
ですが、それも「執着の罠」かもしれませんのでお気をつけて。
そんなふうな観点で視聴してみるのも、一興ではないでしょうか。
{/netabare}