ナルユキ さんの感想・評価
2.8
物語 : 3.0
作画 : 2.5
声優 : 3.0
音楽 : 4.0
キャラ : 1.5
状態:観終わった
第1話に騙されるな
1st seasonを酷評した手前、その続編のレビューを書くのは少しねちっこいかなとも考えたが、最終話で奈落に落ちた巴マミの安否、そして魔法少女の真実を知った後、ドッペルという救済が掲示された魔法少女たちの選択とその行く末はずっと気になってたところだ。
そして第1話の評判が巷で良かったので視聴してみたところ、本当に良かった。 『魔法少女まどか☆マギカ』の陰鬱で険悪な空気を踏襲しつつ一転、前作主人公・鹿目まどかの情熱的な台詞と行動によって、なんとあの暁美ほむらと美樹さやかが共闘し共に“魔法少女”の道を貫いていく胸熱展開である。
これは期待していいんじゃないか──?
そう思った私は最後まで観てみることにしたのだ。
【でもココがひどい:作画が!!!】
しかし本作、1クール枠を用意していたのに実質の話数は8話ということで、嫌な予感はしていたが案の定、作画が全然安定していなかった。
変身や戦闘シーンなどの見どころは美しく描かれているが、むしろこれが作画の統一感を妨げてると言ってもいいくらい妙に陰影が濃く綺麗過ぎる。そして下を見れば……出ました顔面ホームベース。第3話のドッペルの中で空想の魔女と闘う環いろはの顔が見事な五角形をしているではないか(笑) フェリシアの突撃もガクガクしている。アニメーター間での力量差がここまで激しく出ている作品は『Fate/Grand Order 絶対魔獣戦線バビロニア』以来か。
「神作画」と呼ばれているシーンの数々も顔のアップを多用したり、魔法少女という題材にしては異常に速い戦闘スピードや独特のアングルによって正直「何をやってるのかよくわからない」という率直な感想が強く出てきてしまい、素直には評価できない。
【ココもひどい:魔女化問題を軽く見ている主人公たち(1)】
まあ総作画監督がまどマギ~マギレコ1stと同じ人という時点で作画やキャラデザには初めからそんなに期待していない(おい)。問題は脚本だ。
脚本については第1話で抱いた大きな期待があった。1stが間延びしていた分、見どころや面白い展開を本作で一気に披露してくれると確信していたのだ。しかし、物語を追う内にある違和感が募っていく。 {netabare}──いろはたち……魔法少女が魔女になること、軽く見ていないか?──と。
ご存じの通り、魔法少女はソウルジェムが黒く濁りきると魔女という怪物になってしまう。その時点で魔法少女としての個は死亡し人々に危害を加え始めるため、魔法少女の誰もが絶対に回避したい現象の筈だ。マギアレコードではマギウスと名乗る魔法少女たちが魔女化を「ドッペル」に置き換えてなんとか事なきを得ている状態だと1stで明らかになっている。なので多くの魔法少女がマギウスに救済を求めており、主要キャラの何人かもマギウスの翼に入団した。当然のムーブである。2ndは過激さを帯び始めたマギウスのやり方に疑念を持ついろはややちよが事を構える、といったストーリーとなっている。
では、マギウスのやり方を否定する主人公たちは魔女化についてどう考えているのか。本作ではその思想がいまいち見えてこない。
一番否定的な環いろはと、マギウスの翼に入団していた黒江の会話を振り返ってみる。
「環さんは……弱くて明日にも死んじゃいそうな魔法少女ばかり神浜市に集まってきたら、どうする?」
「もちろん手を繋ぐよ。私がそうしてもらったみたいに」
何も具体性がない答えだ。結局今まで通り魔女を狩ってグリーフシードを獲る日々を送るということだろうか?
確かに徒党を組めばどんなに強い魔女でも──例えワルプルギスの夜でも倒すことができるだろう。しかしそもそも魔法少女の成れの果てが魔女であることを知った娘が今まで通り魔女狩りをすることができるのか?もし出来ない娘がいたらその子の手も繋ぎ続けることができるのか?もしグリーフシードが無い時に親しい魔法少女のソウルジェムが穢れきった場合、その娘を介錯することができるのか?────マギウスの救済を否定するということはこれらの問題にも背を向けずに向かい合わなくてはならない。“手を繋ぐ”なんて曖昧な答えに黒江は「そう…」と返しても私は「はぁ?」と返していると思う。
魔女化はとても難しい問題だ。各キャラクターが自分なりの答えを見つけるのには確かに時間がかかる。だがしかし、そんな問題に具体的な解決法を示しているマギウスと未だ示していないいろはたち。視聴者がどちらを支持しやすいのかは明白だ。 {/netabare}
【ココもひどい:魔女化問題を軽く見ている主人公たち(2)】
{netabare}ところがマギウスの翼に入団した魔法少女たちも話が進むにつれてどんどん裏切りいろは・やちよ側についていく。この心情変化はわからなくもないものもあるが、目の前で示されていた救済を振り切る決定打かと言われると疑問でしかない。
例えば秋野かえでがドッペルの使いすぎで「ドッペル症」という魔女化と遜色ない状態に陥ってしまったことで、彼女と仲の良かった水波レナと十咎ももこは「話が違う」とマギウスを抜けることにするのだが、本来は一発アウトになる穢れきったソウルジェムを何度も浄化できていた時点で十分な“救済”だと私は思う。全くのノーリスクではなかったとはいえドッペルは十分に有用にしか見えず、それを作ったマギウスに表立って反逆する理由がよくわからない。
さらに確証は無いようだが、マギウスの計画が成功すればドッペル症患者は元に戻ると八雲みたまは言う。それを聞いた上でマギウスの計画を止める選択をするというのは隔離された秋野かえでらを見捨てることと同義ではないだろうか。 {/netabare}
【そしてココがつまらない:キャラの掘り下げが雑で不公平】
そもそも各キャラが魔女化についてどう考えているのかわからないのは掘り下げが甘過ぎるからだ。
1stからさらにキャラクターが追加された上で尺が1クール未満……これで当然起きたのはキャラクターの掘り下げ不足。主要キャラ全員を掘り下げるのはおろか、闇堕ちしたキャラクターたちでさえ掘り下げに不公平感が漂ってしまった。
{netabare}1st最終話でいろはとやちよに襲いかかった巴マミと、マギウスに入団した由比鶴野。2人はマギウスの本拠地を防衛するボディーガードとしてウワサを憑依されていた。彼女らを取り戻すためにまどかたちはマミと、いろはたちは鶴野と戦うことになる。素直に考えればとても熱い展開だ。
しかしその心の闇を暴いていくのは鶴野だけ。マミはというと鶴野を取り戻すまで魔法でずっと拘束しておく──言わば放置プレイである。そして鶴野のウワサが剥がされた後でまどかとさやかの合体魔法で額を一突き……実にあっけなく、苦渋の決断でマギウスに入団した巴マミの物語は幕を閉じたようである。1stでラスボスまで張らせて小林幸子みたいな格好をした闇堕ちキャラを押しつけたにしてはあんまりな扱いではないだろうか。
そもそもウワサを剥がしたらどうして鶴野とマミが仲間に戻ったのかも意味不明だ。精神のコネクト()で都合よく明かされた鶴野の過去には魔女になった仲間を気付かず殺してしまったトラウマや、仲間を作っても1人の死別を切欠に離散して孤独になったという“手を繋ぐ”の失敗例がある。鶴野とマミは完全に魔法少女そのものに絶望していた筈だ。それを何故だか“強い自分を強要した心の歪み”にすり替えて「弱いままでいい」「弱いまま支え合いましょう」「苦しみは私たちも背負います」というとんちんかんな言葉と抱擁で救われている。そんなことで魔法少女の凄惨な運命からは逃れられないのだが。 {/netabare}
【他キャラ評】
七海やちよ
{netabare}マギウスに与する者は魔法少女の責任から逃げた臆病者。自分たちの願いの対価がそんなに安いわけがない────この人、なんかインキュベーターと同じようなこと言ってるんですけど……(汗
1stでも中々だったがその不快度は2ndで大きく増している。最早いろは以外の人物を思いやれていない冷たい性格は第7話のコネクト失敗のための布石として描かれているのだろうが、いささか仕込みすぎて終始、嫌味で脳筋な年長者にも写る。
マギウスへの恨みが募っていたのかも知れないが、同行することになったまどかたちにマギウスやドッペルについてありのままの情報を渡さないのはどうなの?と感じた。おかげでまどかたちはドッペルの存在を知らないまま見滝原に帰ることになる。原典からのゲストキャラだからこそ救済をちらつかせられたときにどういった反応をするのかも期待していた部分だったのだが、その機会をやちよに潰された形だ。彼女を筆頭にマギアレコード発の魔法少女はどうも年相応の思慮深さがなくて好きになれない。 {/netabare}
里見灯花・柊ねむ
{netabare}割とマギウス擁護目線で観ていたが、そもそもこの娘らがもう少し穏便な手法で計画を進めていれば魔法少女同士が争うこともなかった、ということも忘れてはならない。
世界中の魔法少女を救うという目的自体はとても素晴らしいが、そのために市内に沢山の魔女──あわよくばワルプルギスの夜も含めて集めるということで神浜市の甚大な被害が予想される。大勢を救うために少数を犠牲にする……正に非道なる功利主義者である。
しかし、主人公側にその功利主義を跳ね返すハッキリとしたエビデンス(根拠)とパッション(情熱)が無ければ、まどマギを視てきた視聴者はこの2人の目的を正義だと捉えるだろう。 {/netabare}
【総評】
全体的にクオリティーにムラがある。だから「神作画」と「作画崩壊」、話が「面白い」と「つまらない」でレビューが乱立しているのだと分析した。今回「神作画」と評される戦闘シーンを描いているのはひろんど(長田 寛人)という方だが、彼と他のアニメーターの画力の差が如実に現れており、前作と同じく作画の統一感に欠ける1番の要因にもなっている。先ずは“顔面ホームベース”と揶揄されないために柔らかく弾みそうな頬を描けるよう会社全体で教育すべきではないだろうか。
物語としての脚本はそこまで悪くないが、まどマギのスピンオフとしての各キャラクターの心情描写や掘り下げは最悪の部類と言っていい。『魔法少女まどか☆マギカ』で散々と思い知らされた作品特有の残酷な魔法少女の本質を、本作の主要キャラの殆どがまるで向き合えていないように見える。「自分たちが助かるために無関係な人や街に迷惑をかけてはならない」という大義名分を掲げさせたいのは解るが、それをドッペルという相手方のシステムが無ければ魔女=他人に迷惑をかける存在になるばかりの魔法少女に持たせることに多大な無理が生じているのだ。
せめてマギウスの計画に、未だ行方不明である環いろはの妹が犠牲になっているとか、魔女を呼び寄せる場所を神浜ではなく視聴者の思い入れの深い見滝原市に設定して魔女に襲われる鹿目まどかの家族や志筑仁美を描写するなど、主人公側を応援したくなる決定的な部分を作っておかないとどういう視点でこの作品を見るのが正しいのかわからなくなってしまう。単に「誰かの犠牲の上で自分の命を成り立たせるなんて後味が悪い」のが理由であれば劇中でそうハッキリと明言しつつ、事件が終わった後に自らのソウルジェムを叩き割るくらいの覚悟を見せてほしかったのだが、未だ各キャラの今後の展望はぼかされたままだ。
原作では「みんな死ぬしかないじゃない!!」や「そんなルール壊してやる!」など良くも悪くも魔女化に対する回答をきちんと見せてくれた鹿目まどかたちも、本作の中途半端なスタンスに呑まれてしまっている。 {netabare}せっかく1話丸々と見滝原の魔法少女の絶望と決意を描いて神浜の争乱に参加させたのに、ドッペルや魔法少女の解放については何も知らされずに巴マミを回収したらさっさと見滝原にご帰宅だ。 {/netabare}第1話で活躍した原作キャラは完全に本作を視聴継続させるための客寄せであり、私はまんまと乗せられてしまったということだろう。我ながらチョロすぎるな(笑)
ここまで酷評すると本作の褒められそうな項目はもう声優と楽曲しか無いのだが、私は今回、“声優”という項目も低めにつけることにする。
当然キャスティングは悪くないのだが、その声優たちの台詞がぶつ切りにされていたり、キャラクターが口を動かしているのに台詞が無いシーン(最終話はモノラル演出だということは知ってるよ、そこじゃないよ)が見受けられ、結局制作が“声の力”を最大限に活かしていないように思えた。5~6話辺りの現象なので疑う人は見直すなり調べるなりしてみてほしい。よってもう褒める箇所はOPのClariS「ケアレス」が良曲だという所しかない、という結論になってしまう。
「ムラがある」という表現で誤魔化そうとしたがムラがあるというのは結局は雑なのだ。アニメ制作会社シャフトは『化物語』からの悪癖が未だに治っていない。「シャフ度」なんていう独特な演出が受けたばかりに自社のキャパシティを超えた仕事ばかりを引き受けている。『魔法少女まどか☆マギカ』という輝かしい成功があるとはいえ、そのスピンオフ作品が2~3クールになるというのならそのままシャフトに制作依頼するのは悪手だったのではないだろうか。