ひろたん さんの感想・評価
4.5
物語 : 5.0
作画 : 4.5
声優 : 4.5
音楽 : 4.0
キャラ : 4.5
状態:観終わった
食べちゃいたいほどあなたが愛おしい、ガウガウ
若干、猟奇的なワードチョイスをしてみましたが「愛おしい」とはどういうことでしょうか?
「つらい」の意味も含まれますから、たぶん「苦痛で心身を悩ますほどに愛している」という解釈もありだと思います。
それをここまで隠すことなく前面に押し出した作品は、他にはありません。
だって食べちゃうぐらいなのですから。ガウガウ。
それより、なんて刺激的なオープニング映像なんでしょう。
いったい、自分は、いま、何を見せられているんだ!
と、言う気持ちはさておき、この作品が伝えたいことは明確です。
【ユリ】、【熊】、【嵐】ってなんだろう?
この疑問とともに考えてみたいと思います。
******
まず1つめは、「愛おしい」です。
ちなみに「愛しい」ではありません。意味が薄くなってしまいます。
主人公のお母さんがらみの事件について、前半早々なんとなく「だれ」が犯人か予想がついてしまいます。
しかし、それは、この作品で迷子にならないためのやさしさなのです。
むしろ大事なのは、その「だれ」かではなく、「なぜ」かの方だからです。
つまり、この「なぜ」こそが、「愛おしい」のなれの果てだからです。
「愛おしい」と言う気持ちは、時には冷静さを失わせ、間違った判断をしてしまうのです。
「愛おしい」とは、それだけ強い力を持っています。
猟奇的と言う表現もあながち間違っていないのです。
この、「愛おしい」が持ってる猟奇的な側面の象徴が【熊】だと思います。
******
つぎに「集団心理と自分の本当の気持ち」です。
人が集団を形成すれば、必ずと言っていいほどついてまわるのが同調圧力です。
このやっかいな集団心理、いわゆる「見えない空気」は、すごい力を持っています。
KY(空気を読めないもの)を「悪」とみなし、排除しようとします。
特に感情に抑止力が効かない学校生活では、それがあからさまに目に見える形となって現れてしまいます。
これを、この物語では「透明な【嵐】」と呼んでいます。
さて、自分の好き(大切)な友達が集団の中で、今、まさに排除されようとしています。
あなたは、どうしますか?
もちろん助ければ、自分も排除対象です。
ここで試されているのです。
それは、自分が本当にその友達のことが好き(大切)なのかと言うことを。
もし、その好き(大切)が本物であるなら、きっとあなたはその嵐の中に飛び込んで、その友達を助けていることでしょう。
******
それにしても、この作品、本当に素直じゃない・・・。
伝えたいことはすごくシンプルなはずなのに、見せ方をシュルレアリスム(超現実主義)ばりの前衛美術に昇華させちゃっています。難解。
しかし、伝えたいことがしっかりしている分、その難解な表現の意図が分かってくると、癖になるほど面白い。
例えば背景1つとっても、普通に見えて普通の背景は1つも出てきません。
必ず表現したいことの意図が形になっています。
他のアニメの背景なら、物語に説得力をあたえるため、設定に従ったリアリティさを追求することに主眼がおかれることでしょう。
あくまでも登場人物を際立たせるための背景としての役割です。
しかし、この作品は、登場人物以上に背景がこちらに何かを訴えかけてきます。
しかも、細かいところ1つ1つにも意味があります。
こちらは、それを解釈しようとしますが、最初は処理能力が追い付きません。
分かりやすいところでは、学校のとある一室の背景に並ぶ引き出しです。
これはまるで心の内面、つまり、大切なものをしまっておきたい心の中の引き出しそのものです。
らせん階段のシーンは、まるで答えを見つけようと、ぐるぐる考えているかのようです。
もうすでに、この作品に心の中と現実と言う区別は存在しないのです。
通常、人は、肉体は外にあるもの、心は内にあるものとして区別します。
しかし、この作品では、もう肉体だろうが心だろうがどちらも登場人物なのだからと、いる場所については外も内も区別しておらず、それがそのまま背景になります。
シュルレアリスムとは、「意識の下に閉じ込められている無意識の欲望を描くもの」だそうですが、この作品はまさしくそんな感じがするのです。
******
大切なことがもう1つあります。
この物語は、【ユリ】ですが、ユリではないと思っています。
もっと深いのです。
「ユリ熊嵐」と言うタイトル、刺激的な場面、これみよがしにユリにちなんだ人名、随所に登場するユリの花。
なにかおかしいと思いませんか?
もし、本当の百合ものなら、ここまであからさまにユリユリしくはしないでしょう。
そもそも「ユリ」を隠します。
この作品では、必要以上にユリを強調しすぎています。
つまり、これは、本当に大切なものを隠すため、目を欺く罠なのです。
ユリは、あくまでも表面的なものなのです。
一番伝えたいことを際立たせるための演出であり、このユリと言う表現方法が一番適切だったからにすぎないのです。
それは、もしこれが男女の恋愛だったら、そこに下心的なノイズが入り込み、純粋な「愛おしい」を描けなかったのではないかと思うからです。
いくら綺麗に取り繕っても、観ている側からすれば、どこかでそう言う見方をしてしまいます。
しかし、同性の場合、生殖本能に関係ない真の「愛おしい」を描けるのです。
つまり、この物語は、「ユリ」を描きたかったのではありません。
その向こう側にある、究極の「愛おしい」であり、「苦痛で心身を悩ますほどの愛」であり、そして、それに一直線に突き進んでしまう彼女らの姿を描きたったのではないか、そう思うのです。
特に、クライマックスの展開は、冷静に考えれば愚かです。でも、本人たちが一直線に進んだ結果、掴んだ答えなのです。
なんて愚かで愛おしいんでしょう。
集団心理に流された透明な空気人間なんかより、よっぽど人間らしいからそう感じるのです。
******
それにしても、なんだろう・・・。
最後、あんなに美しい終わり方なのに、すごく切なさを覚えるのは・・・。
やはり、直接的な表現は避けられていますが、クライマックスのあのシーンから想像される結末は1つしか考えられないからではないでしょうか。
好き嫌い分かれそうな作品ですが、自分は、「ほんと、素直じゃないんだから!」って思える、このような作品は好きです。