かがみ さんの感想・評価
4.5
物語 : 4.5
作画 : 4.5
声優 : 4.5
音楽 : 4.5
キャラ : 4.5
状態:観終わった
ゼロ年代的想像力における政治と文学の再統合
前作終盤でこれまでの各世界は梨花の繰り返してきた平行世界であった事が判明する。そして本作では梨花の随伴者であるオヤシロさま=羽入が物語へと介入する。
この羽入は原作ゲームにおいてはプレイヤーの隠喩である。同作の原作ゲームは形式的にはゲームであるにも関わらず選択肢によるシナリオ分岐が生じないサウンドノベルである。
本作においてプレイヤーは繰り返される惨劇をただ眺める事しかできない。この点、これまでの世界において繰り返される惨劇をただ傍観する事しかできなかった羽入はプレイヤーのアバターとして機能する。
そして最終章祭囃子編においてついに羽入=プレイヤーはゲーム世界へと降り立ち、物語内のキャラクターだけでは解決不可能であった事態を見事に解決する。ここに本作のゲームとしてのカタルシスがある。
ゆえに東浩紀氏は本作は一方で「小説のようなゲーム」であり、かつ他方で「ゲームのような小説」でもあるという。つまりこの作品は単純にゲームとしては大きく退化した上で再び、ゲーム的リアリズムの作品内への再導入を試みる「ゲームのような小説のようなゲーム」とでも呼ばれる作品である。
また本作はゼロ年代的想像力における「政治と文学」の一つの回答でもある。
この点、ゼロ年代前期においては、経済成長神話の崩壊に伴う社会的自己実現への信頼低下を背景に他者性なき母性的承認を希求するセカイ系的想像力が一世を風靡した。
これに対して、ゼロ年代中期においては、米同時多発テロ、新自由主義的政策による格差拡大といった社会情勢を背景に様々なセカイが決断主義的に正義を奪い合うバトルロワイヤル系想像力が台頭した。
こうしてセカイ系において一旦切断された「政治(正義/悪の記述法)」と「文学(ナルシシズムの記述法)」はバトルロワイヤル系の台頭により再統合を求められるのである。
この点、本作は「昭和58年6月」というバトルロワイヤル状況(政治)にゲーム的リアリズム(文学)によって介入する。ここで「政治と文学」は様々な物語(シュミラークル)を生成するシステム(データベース)をハッキングする欲望のもとに再統合される事になる。
そういった意味で本作は、物語(シュミラークル)とシステム(データベース)から成るポストモダン的二層構造における実存の在り処を照らし出した作品と言えるのではないか。本作がゼロ年代の代表作の一つに数えられるのは故なきことではないだろう。