薄雪草 さんの感想・評価
3.5
物語 : 3.5
作画 : 3.5
声優 : 3.5
音楽 : 3.5
キャラ : 3.5
状態:観終わった
チキンでも。キチンとでも。
おもしろい作品でした。
ヒゲを剃る。
"オトナ" の "オトコ" の "チセイ" という意味なのでしょうか?
道ばたで出会った女子高生が、困り顔して助けを求めてきたら、どう対処するか?
可能性はともかく、蓋然性としては "今どきの話" です。
おおかたの大人は吉田の気持ちを一部もっているでしょうし、だいたいの高校生は、沙優の心を一部に持っているでしょう。
だから、シチュエーションさえまとまれば、誰にだって当事者になりえます。
問題にするなら、公としての法律(知性)と、私としての仁愛(感情)の "落としどころ" でしょうか。
目の前に困っている人がいる。
その事象だけが、一善の徳行を為す根拠です。
さあ、どのような振る舞いをするのが最適解か。
それは、いったい、何への、誰への「責任」なのかという「自覚」のこと。
そう感じています。
〜 〜 〜
「助けになる。」・・・このことを何と呼ぶと思いますか?
「資する。」と言うんです。
よく、「体が資本だから。」なんて言います。
それは、あくまで、主体者としての大人の「労働力」の意味。
未成年に、その理屈を当てはめるのは、「筋」が違っています。
小学生に言えないことを、高校生になら言えるなんて、どんな理屈ですか?
法律は、基本的には「大人の性善説」に基づいています。
「そんな悪いことは起きないだろう。」
「起こすようなザンネンな大人はいないだろう。」
「もし起きたとしても、厳罰ではなく、更生の余地を、大人だけど、残しておこう。」と、こうなります。
なので、課題は、子どもに対する成人の側の社会性(いうなら存在価値)にあります。
わが国の法律は、明治期の激動期にその根幹を辿ることができます。
当時のリーダーは、列強国、とくに英・米・独の法治国家に、将来を担う多くの青年たちを派遣し、学ばせました。
そして一つの柱を立てました。
端的に言えば、天皇への忠義を柱にした、家父長制の意義とその発展に、新政府の執るべき姿を求め、描いたのです。
明治維新は「天皇を元帥として国家を創造する。」という "造られた文化性の源" なのです。
戦後になって「日本の民主的変革の基本原理」ともいえる最高法規、「日本国憲法」が公布・施行されました。
現行の憲法下では「天皇を象徴として、個人の基本的人権をもとに、国家を創造する。」という国家運営に、文化の流れが変わったのです。
ですから、日本人は象徴として天皇制(家)の維持を念頭に置いて、精神的な柱として相互に持ち寄り、それぞれに支え合っているのが、日々の営みの根源だと言えるでしょう。
法律は、そうした象徴に心を寄せながら、家族、地域、社会全体が、幸福を追求していくことを資するために存在しています。
人と国のそれぞれに、善としてのはたらきを求めているし、担ってもいるのですね。
なれば、吉田が沙優に対して、疑似家族としての行為を執った=資するのはごく自然な発想だったのだろうと感じています。
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近頃、眞子内親王の恋バナが「ゴシップ化」されて久しくあります。
秋篠宮家という「家」と、眞子さんの「個」。
法としての象徴(公)と、理としての実態(私)とを織り合わせる作業の一環なのでしょう。
両者の関連への意味づけ、新しい価値の見つけどころが、国民の関心どころ。
新世紀エヴァンゲリオン=福音=文化レベルだといって差し支えないとわたしは思っています。
(シンジ君とマリのペアリング。びっくりでしたが私は普通にアリです。)
くどいようですが、憲法の第一条を再掲いたします。
「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」
後半にある「総意」。ここに重い重い意味があるのです。
天皇に「なるかならないか」ではなく、「なれるかなれないか」は、国民の「総意」が、法理としてどうしても必要なのです。
一国民で、成人で、アメリカに居て、ひげを剃る男。
かつ、それなりのローンの返済も抱えて居そうな男。
国民の総意が必要なのは「公としての天皇になるときだけ」です。
すべての日本人は、憲法のもと、「法治国家」に生きているのですから。
(余談ですけれど、二人には、宇部新川駅のホームから、全力疾走で駆け出していただきたいものです。アングルが決まるまでは、何度でも。)
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親鸞聖人は「善人なおもて往生を遂ぐ、況んや悪人をや」と説いています。
この言葉、教科書とかで、一度くらいは耳にしたことがあるかもしれません。
時代差性、常識の壁、立場の違いを越えて、「救済の法」を説いているわけです。
苟も大人であるなら、心身の救済の神髄を知らないで、どうして日本人と大言できるでしょう。
詳しくお知りになりたいのであれば、原典や解説書をお読みいただくか、門主や貫主、主管にじかに尋ねてみてください。
間違っても「自助、共助、最後に公助。」などと宣う御仁には、耳をお貸しなさらないように。
もしも、現代的な法理をいくらか深堀なさるのでしたら「法哲学」を参照してみてください。
法理とは「法は過去の文」、「理は今の判断」にあることがわかると思います。
すなわち「つねに流動的である。」ということです。
およそ行政機関は「法」で目的化され運用されています。
例えば、警察の目的性の一つに、社会の安定があります。
ですので、吉田の行動は「法律上の不法行為」となりえるし、然るべき法執行に至る可能性が否定できません。
それは「現行犯」の扱いだったり、「被疑者」の扱いだったりするわけです。
吉田の事案は、警察から検察へと移され、検察官が「起訴または不起訴」を判断します。
不起訴なら「前科」は付きません。
「前科」とは、「検察に起訴」されて、かつ「裁判官が有罪」と裁可して、初めて付くものです。
地裁、高裁、最高裁が示すもの=判決が「法理の理」です。
世の中は、社会も自然も大激動期です。
「生まれてこの方経験したことない」とか「教えられていないから」などとうっかり言ってはいられません。
「善人は "これ" です。」、「悪人は "これ" です。」
そんなものは、時代性で、いとも簡単にひっくり返るものです。
あの港町の出来事がその一例です。
それにしましても「わが思想は特別」とか「私の派閥が第一」だなんて言いながら、子どもたちの心が、救われている実感が少しも持てないのは、いったいどうしてなんでしょう。
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日本には、日本独自のモラル、マナー、道徳観、コモンセンスなどがあります。
要は、TPOに応じて使い分ければ良いわけなのですが、どうしたって一朝一夕では身に付きません。
だから学ぶ必要があります。
ですが、こんな大事なことが、学校では教科にはないですし、家庭でも十分には教えられていません。
日本文化の喪失は、それだけ社会が全体的に劣化してきているわけで、それが「わたしたちの生きている現実」です。
いえ、もちろん全部がそうだとは言っていません。
でも一部にそれがあるから、沙優のような子が生まれてくるのです。
それは運命?
仕方のないこと?
子どもはその環境で生きていくしかないの?
そんな時こそ、ひげを剃ったオトナの「出番」なのではないのでしょうか。
略取とか誘拐とか、そんなことを心配する前にやるべきことがあります。
「セックスだろ?」なんて下卑たことを嘯いていてはお話になりません。
「ついにツキが来た!」と思うのなら、発揮するのは仄暗い欲情ではなく、煌々と照る満月を思い出してみてください。
ハナから、太陽なんかにはなれっこないし、なる必要もありません。
だいたい家出をするには「それなりの理由」がちゃんとあります。
「どう言いあらわしていいのか分からない。」
「まっすぐに向き合って、聞いてくれる人がいなかった。」
「解決に向けて、寄り添ってくれる人と出会えなかった。」
それって、「オマエが責任を取れよ」って話ではありません。
でも、それが現実だから、「それなりの理由」を盾として "手放せなくなる" のです。
だって、それしか、今夜のこころの寄る辺が保てないのですから。
そのやり方でしか、何の価値もない身体に、何かの必要性があるのかもしれないと、思い込むことができるのですから。
そうして身についてしまう『常識』もあるのです。
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常識だと思いますが、子ども専門の窓口に、法律の専門家がいるわけではありません。
でも、担当者は、当事者(子ども、ときには関わった大人)なりの事情があることは理解していますし、傾聴してくれます。
それに、すぐに警察に通報するわけではありません。
仮にも、通報者がひげ面であったとしても、被疑者扱いすることはありません。
みな、法哲学に基づいて、善意で動くわけですから。
偏に残念なことですが、「だからこそすぐには解決しません。」
行政機関(専門家集団)と言えども「法理」がそのまま「魔法の杖」になることは絶対にありません。
だって、「運用の最適解を出すまでに、相当な時間がかかるからです。」
吉田だってそうだったでしょ?
できることは「沙優の(ときに家族の)やむにやまれぬ思い」に、トコトン寄り添うことからです。
沙優なりの「考えや判断、理屈」に、彼女の主体性があるのは、何よりの真実。
同じように、沙優の母にも「考えや判断、理屈」が、事実として厳にあるのです。
なら、母親が吉田を告発すれば、沙優の心が救われたでしょうか。
そんなことは、たぶんないでしょう。
その意味では、吉田が、沙優の母に、自明の理を語ったこと、母親がいったん受け止めたことが演出されていたのは、ひとつの示唆を含んでいたと思いますし、評価すべきことだろうと思います。
なぜって、それも一つの "インフォーマルな方法(=公式ではないの意味で。)" だからです。
わたしの吉田への評価はこの部分です。
彼自身の道理と、沙優への覚悟を貫徹したことなんです。
ゆるゆるぐだぐだに思われている制度かもしれませんが、フォーマルな手法も時間をかけて内実化・血肉化されてきています。
窓口では、弁護士やNPO法人などと連携を取りあい、本人(ときに家族)にとって "よりベターな生き方を考えあう" のをベースにしています。
情報を共有し(これが難しい)、問題を見える化し(これも難しい)、課題をプラン化し(やっぱり難しい)、スケジュールを作ります(結局、全部難しい)。
ビジネスモデルなら、表面的には、企画のプレゼンや契約行為、収益性への創意工夫、目的の達成と成果としての報酬は、何よりの歓びとなります。
ぶっちゃけ、損得勘定が判断基準なのかもしれませんが、でも、本質的には、事業の継続、雇用の確保、地域の活性化などもあるわけですから、人の幸せが目的であることには間違いありません。
これらのことは、大人の吉田には全部わかってのことでしょうから、沙優の対応を途中で投げ出さなかった理由(なんなら行政を選ばなかった理由)に触れておくのが肝要でしょう。(あくまで推測ですが・・・。)
法理は、人の心の救済の糸口を示すこと、改心への気づきを後押しすることを、その目的性の真(芯)に持っています。
裁判官が裁可を下ろす際に「被告は良く反省をして。」という言葉を述べることがあるのも、その趣旨からです。
吉田が、沙優にも沙優の家族にも、それに近い態度で接したことにわたしはほっと安堵しています。
もちろん相当なリスクを抱えてもいます。ですが、彼は、個人の努力の範囲内で、それがやり切れると覚悟し、実行したのでしょう。
こうしたシナリオは、義憤に駆られたからとか、博愛の精神があったからとかで、さも正当性が担保されたかのように思えるかもしれませんが、実際のところはなかなか難しいものです。
一番の問題はものごとを「見えない化」させてしまうからです。
二番目は「人の心は容易に変わる」からです。
そういった事実経過は、結果的に、第三者からは「何か疑わしさがある」と評価されてしまい、苦しい説明に追われることになるでしょう。
吉田が、行政の会議などに参加したり発言したりすることはまず不可能です。
それでもと思われるのでしたら、地裁などの傍聴席に座ってみることをお勧めします。
学校や職場、テレビや書籍では学べない深すぎる人生訓が、よほどのリアルで得られることと存じます。
そしてなにより、出自不明な与太話などが一掃できて、ご自身の神性を穢すことにならなくて済むだろうと思います。
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わたしは、吉田の念頭には、"まずは親身には接してみようかな。" という考えが浮かんだのではないかと感じています。
でも、彼は、親にはなれません。
なれませんが、吉田自身の親への思いが、彼をして沙優を支えたのではないかと推し量っています。
吉田の母は、弱気なときの吉田を、どういう想いで対応したのだろうか。
吉田の父は、強がっている吉田に、どういう態度で対処したのだろうか。
そんな親の姿を見てきただろう吉田の想いが、彼の沙優への振る舞いに反映されていたのでは?と感じ入ってしまっています。
法を盾にして論じるだけなら、善意でも犯罪を犯してしまいそう。
悪意ならなおさら犯罪だと理解できるでしょう。
フツーの大人なら誰だってそう判断できます。
今どきは、人の行ないを見れば、すぐに法に照らし合わせて、あれこれと論じる傾向が強くなっています。
言論は自由ですから、それは間違ってはいないと思いますが、安直に過ぎている危うさをかなり覚えます。
ある国など、まさにそうではありませんか?
代表者が権力を振りかざして、法理を捻じ曲げたり、独善的に解釈したりするから、国民ひとりの主義主張などがひとたまりもなく押し潰され、不幸に陥っています。
なんだか、世界的な手詰まり感というか、国際関係も二進も三進もいかなくなってるなぁというのが気の毒でもあります。
そんなのは、誰のための、何のための法律かと思うことは正直あります。
でも、これが法理・法律の特性なんです。
権力は、立法の権限をもってすれば、ものごとの道理を容易に捻じ曲げたり、だんまりのミテミヌフリができてしまいます。
いやしくもヒゲが生える年齢になったのなら、道心が欲心を上回ってほしいものです。
「一宿一飯、一夜のおあとはヨロシク♡。」
そんな言い分に "いっときの安全を与えた" とか "おおらかな善意からだった" とかで言いつくろっても、ちびた言い訳にすぎません。
是非を問うなら、抵抗のできない弱いものに向けるのではなく、法律、常識、世間体、社会のほうに広く注力すべきなのが、大人のカッコよさというものです。
だって、法律というものは、原則的には、大人にむけた最低限のルールを定めているものなのですから。
「法へのナニカ正義感的な、曖昧な意識っぽい概念」で、子どもの人生を支配していいなんて法理など、露ほどにもありません。
そんな意識の水面下にあるのは、大人の見苦しい弁解と、薄っぺらい都合だけです。
まぁ、親もいろいろなんでしょうけれど・・・。
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吉田は、社会の "ヒーロー" なんかじゃない。
沙優を、主役に戻した "黒子" にすぎない。
でも、わたしにとっては "嬉しいインフォーマル" だったのも事実です。
ちなみに、第1話で沙優が制服を着ていたのは、未成年であることの「記号」にすぎません。
「大人びた私服を着ていたから、成人だと思った。」
「本人がそう言ったから、正直に受け取っただけ。」
どんなに弁舌が立っても、言い訳、言い逃れです。
閻魔さまの前では、こころは明け透けになり、誤魔化しは一切合切、効きませんから。
どうぞ、どうぞ、あしからず。
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え、そんなの笑っちゃう、ですか?
では、わたしが、ある貫主から聞きかじった "小噺" をひとつ。
{netabare}
これは、欲情にかまけた方専用の、とある浴場のお話です。
三途の川を渡る手前で、無地の浴衣に着替えましょう。
さて、渡り終える浴衣に色がついていますよ。
よく見ると、紫、白、青、黄、赤、緑、茶、黒・・・。
あなたの浴衣と言えば、鮮やかな赤に黒味がいくらか混じっていますね。
おや?あなたの手は、なにかの紙切れを握っていますよ。
どうやら、お風呂の入湯券のようです。
似たような浴衣を着た方が、そこここにいらっしゃっいます。
すこし込み合うかもですが、そこは譲り合ってお入りください。
時間制限はなくて、いつまでも浸かっていられます。
ちょっと変わっているのは、設計が底なしになっております。
疲れないようにするのは、ちょっとしたコツが必要です。
お気を付けて!
人の一番大事なところを足蹴にしたあなたたちですから、今度はあなたが足蹴にされるかもしれませんよ。
困ったコツです。
もちろん、筋骨たくましい赤鬼、青鬼があなたを大事に見守ってくれています。
"ステキな歓待" が、期待できそうですね。
そろそろお気づきのことかもしれません。
清らかで、あたたかなお湯だった天然の温泉が、いつの間にか、汚臭と汚物、血だまりにまみれたドロドロの"ジャグジー" になっていることに。
・・・そうですねぇ。
人によりけりですが、改心の髄に至るまで、だいたい400年くらいでしょうか。
もちろん、「心を込めて」というのが大前提です。
・・・独りよがりな性欲にまつろった魂が、自然と行きつく場所だと。
そう、聞き及びました。
{/netabare}
吉田は、沙優のヒーローなんかじゃありません。
自分自身の、です。
「施せし {netabare} 情は人の為ならず {/netabare} おのがこゝろの慰めと知れ。我れ人にかけし恵は忘れても ひとの恩をば長く忘るな」
出典:『[新訳]一日一言:「武士道」を貫いて生きるための366の格言集」 新渡戸稲造著より。
★ とっても大事なこと ★
もしも、判断に困ったときに「通告(相談)」というやり方があります。
「いちはやく」=189
厚労省、児童相談所虐待対応ダイヤル。
全国統一の電話番号です。
自分で掛けてもいいですし、子どもに伝えるだけでもいいです。
一緒に、お話しするのも一手です。
もちろん、途中で通話を切っても、匿名でも大丈夫です。
それで、捕まるようなことはありません。
もう一つ。
24時間子供SOSダイヤル(こちらは、文部科学省。)
0120-0-78310(なやみいおう)
「いちはやく」と同様の扱いで大丈夫。
もしものときは、がんばって!
ちなみに、これらの「通報(相談)」は、全国民に課せられた「義務」です。
エビデンスは、児童福祉法第25条。
児童が、安心して眠れる場所がないとき、「国は、その児童、係わっている人、保護者・家族に対して、"必要な支援をしなければなりません"。」
これが、法の言わんとする "主旨" です。