退会済のユーザー さんの感想・評価
3.4
物語 : 2.5
作画 : 3.5
声優 : 3.5
音楽 : 4.0
キャラ : 3.5
状態:観終わった
拭えない尻すぼみ感
ようやくアニメが完結したとの事で、
1期から全部を一気見。
総評を先に書くと
1.2期はかなり面白かった。心理描写、作画、音楽、セリフ回し、どれも
最終結論を抜かせば良作と言って差し支えないと思う。
感情の移り変わりや、人間関係のリアリティは
現代の日本人若者に焦点をしぼり、徹底した表現は素晴らしかったと思う。
特に言えば八幡兄妹は微笑ましかった。
少々、妹が中学生離れして賢過ぎたけど笑
全体的には概ね及第点かなと。
では酷評部分
{netabare}
メインテーマ
本物ってなんじゃろな。
さてさて、本物とはかなり曖昧な主観的なものだ。
幸せ、豊か、満足、成功等と同様な抽象的な、
あくまで言葉に過ぎない、個人によるものだ。
また、この物語はタイトルでも扱われている様に
間違っている、正しいという言葉が頻繁に用いられる。
これも同様に個人による、抽象的なものだ。
なぜなら人生において正誤は本人の捉え方次第だからだ。
※簡潔な例で言えば『アイツと友人になったのは失敗だったが、
嫌な奴への抵抗力がついたから成功ともいえる』みたいなね
話を戻して
本物は
八幡に言わせれば
裏表のない関係性であり
正しいのは
姉に言わせれば
望みを正直に叶えようと行動する事
そして
言葉だけでは表しきれない
それらの気持ちをどう伝えるか?に
この作品は徹底してこだわり、表現を駆使し描き切った。
その表現はとても美しく描かれていた。
が
が
正直、根本のストーリーは少々弱かったし、
最終的な結末は、結果テーマに矛盾を感じた。
まず弱かった点は
雪ノ下が『貴方が好きです』と言葉にしてしまった事だ。
見ていた側は『結局言うんかーい』だし
あの歩道橋の場面で雪ノ下も八幡も言葉にしなかったシーン自体が
逆説的に、間違わない様に探り探りの行動であったように映り
今まで八幡が否定してきた周囲の人間、と同義の行動に成り下がった事だ。
※まぁもちろん八幡の求める『本物』は
ただのコミュ障のこじれによる偶像であり、
他の人間は上手に探り合いが出来る(そう努力してる)から、
そんな偶像を生み出さないし、拘ることは少ない。
結果矛盾して
『ンじゃぁ結局本物ってなんだったんだよ?』ってなる。
ただの言葉で切り取らず、裏表隠さず、直接的な心情を
伝え合う事だったんじゃあないのか????
うーん見終わった直後の乱文的感想なんだけど、
なーんか辻褄が合わない様に感じてるなう
いやねつまりね
なーんかコミュ障のどうでもいいような
描くにはかなりハードルの低い、斜に構えた世界観から
大多数の世界への脱出?みたいな?
話になってた様に思う。知らんけど笑
残された話数がない最終話のあのシーンで
八幡がちゃんと『俺も好きだ』って返せば
主人公としては受動態だしダサいけど
『やっと言えたじゃねぇか…』ってなって
ギリギリ間に合ったと思うけど…うーん言わなかったからなぁ
やっぱつれぇわ…
そんでもって由比ヶ浜ちゃん
あんなフラれ方、納得できるんか??
最悪中の最悪じゃん。
もしね、八幡が『俺とお前の関係性は言葉だけでは表しきれない関係性だからあの言い回しがベストで伝わってくれ』って事だったら
本当にクソだと思う。
いくらね、いろんな経験を通して仲良くなったって
男と女、恋愛感情持ってしまったら、ちゃんと振ってあげないと
もっと傷つくし、引きづるだろ。それこそ悪者になれよ。
雪ノ下には友達とかの関係にはなれないから、
好意があるって伝えたじゃん。
自分には区切りをつけて、これだけ助けられた由比ヶ浜には
あんな言い方すんの?はーだっさ。
結果、あんな終わり方になっちゃったじゃん。
ていうか、あのまま3人続くんだったら、それこそ偽物じゃねーかよ。
稲中で出てきたうんこかぶらされる3人まんまだぞあれ笑
{/netabare}
尻すぼみしてしまったなぁ。
4/22 修正&追記
どうにもこうにも なんで3期が刺さってこなかったかを
他の方のレビューを拝見し終えて、自分の為の整理として追記。
{netabare}
作品が一貫して表現する言葉の切り取りについて。
主人公は八幡であり、視聴者の焦点も八幡だったにも関わらず
最後の障害『好き』と言ったのは雪ノ下だった為、
ストーリーラインが大幅に崩れた。
八幡はこの『好き』という言葉を嫌がり最後まで使わなかった。
それはまるで自分の雪ノ下への感情がそれだけに限定される様な、
膨大にある複雑な感情が損なわれてしまうような、伝わらないとさえ
思っていたからか。
果たしてそうなのだろうか?
だからこそ、言葉を駆使して一つの感情を
浮き上がらせているのか?※先生とのシーン抜粋
物語においてセリフは、重要なシーン程、
その膨大な感情にまつわる言葉から選びに選び、
削ぎ落し、磨き上げた言葉だ。
無論、そのセリフを登場人物に言わせるまでの展開にも
作者は全神経を集中させている事だろう。
改めて
言葉は果たして切り取りなのだろうか?
それこそありったけの気持ちと決断の意思を込めて
正々堂々、飾らず、脚色せず、正誤も無い、
本物の言葉『好き』と言うからこそ相手に響くのではないか。
だからこそ、八幡と雪ノ下の歩道橋のシーンでのやりとり、
どうにも自分には刺さってこなかった。
この期に及んでまだ『正しい』『間違い』に、
伝わり切らない可能性に怯えた告白。
結局は自分が傷つかない、もしくは好意を負担にしたくないとでも
思っているかのような言い回し。
なんとも卑屈だ。
むしろ物語を通して成長したのにもかかわらず、
最も卑屈になってはいけない場面で、
八幡らしさを描く為に卑屈に描かれてしまっていた様にさえ感じた。
そしてさらに最後の雪ノ下の『好き』だ。
なぜあそこで『好き』という言葉を言わせたのか?
言わせるのならなぜ、あの歩道橋のシーンではなかったのか?
なぜ八幡の恋心にまつわるきっかけや要因を描かず、
ヒロイン側のみを描き続けたのか?
明らかに不具合を起こしている。
どうにもこうにも比べてしまい大変申し訳ないが
親友に逃げるなと怒り、追いかけ、走りながら、
転びながら、鼻血を出しながら、大声で
『私は高須君が、高須竜児が好きだよ!』
と叫んだ少女の、あの激しく、美しいシーンには
遠く及ばなかった。
{/netabare}