薄雪草 さんの感想・評価
4.5
物語 : 5.0
作画 : 5.0
声優 : 4.0
音楽 : 4.0
キャラ : 4.5
状態:観終わった
味わい深い作品です。
岡田麿里さんと言えば、お母さまとの関係性を抜きにしては語れない作家性をお持ちの方です。
本作の題名 "さよならの朝" は、お母さまに向けての言葉でありつつ、ご自身の初監督作品として自立する未来への光明を得たことを感じさせるように思えます。
また、"約束の花をかざろう" は、お母さまとの暮らしの中で織り伏せてきた思いを、手ずから紐解き、また、結い合わせた自らへの祝言だろうかとも感じます。
岡田さんは、本作の演出において、彼女なりの "赦し" をヒビオルのように織り上げようとしたのではないだろうか。
そして、そのための装置として、これほどに美しく、類を見ない濃密な世界観を必要としたのではないだろうか。
そう感じています。
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どなたにも "母" がいらっしゃいます。
産みの母、育ての母。
代理の母、養護の母。
誇らしくある母、母とも呼べぬ母。
子どもにとっては、悲喜こもごもを織り交ぜるのも、愛憎に塗れるのも、母がいてこその感情なのだろうと思います。
本作では、3人の特異な母が登場します。
里の長老でもあるラシーヌは、人間への愛の儚さを説きます。その教えは彼女なりの経験則で培われたものなのかもしれません。彼女が愛した人は男性なのか女性なのか、あるいは子どものことなのかは想像の域を出ませんが、それもまた岡田さんに存在している歴史の蓋然性なのだろうと思います。
次に、主人公のマキアですが、彼女には生母の記憶がありません。しかも戦禍の中に赤子を養育することを選択します。これは長老ラシーヌの教えに背くものでもありますが、女性性としての一つの生き方の提唱であり、親子の関係性(ここでは養母)に対する岡田さんなりのアプローチでありアンサーでもあるのでしょう。
マキアが多くの方に受け入れられているのは、いわゆる里親という立場性における情の深さや愛の豊かさに強く感じ入るからでしょう。
たとえ血は繋がっていなくても "無償の愛" は紡げるもの、理屈抜きで分かち合えるものとのメッセージでしょう。
ですが、むしろ血を分けた子どもだからこそ、なおのことそんな愛があってほしかった。そういう底意があるようにも感じられます。
マキアは私たちのイメージする "母" たる器をはるかに超える立ち位置にいるキャラクターです。
逆縁の不幸を知りながら、だれとも知れぬ子を養育し、母離れにも耐え、ついに死まで看取るのです。
そんなことは普通は起こり得ません。そんな前提においても、マキアが息子エリアルとつづった日々が、連弾の回想シーンとなってスクリーンに打ちだされたとき、私のそんな矮小なバイアスはいとも容易く消し飛んでしまいました。
マキアの生きざまや行動原則は、本作の根幹をなす重要な問いかけになっています。
イオルフという特殊な設定によって、思春期の娘マキアから見える世界(恋しさ)と、養母マキアからの視点(愛おしさ)という "複眼二重のフレーム" を持ち合わせた演出になっているのです。
このため、これを観る方々は、いずれの立場性においても、また、幾星霜を経ても、それぞれの人生経験に嵌入してきます。
その意味で言うならば、血筋だとか生い立ちとかには関わらず、等しく命の尊厳に深く心を打ってくる普遍的な愛を訴求する作品と言えそうです。
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そしてもう一人の母がレイリアです。
彼女は恋を知らぬままに敵国メザーテの兵士イゾルによって誘拐され、望まない形でメザーテ王子の子を身籠ります。
その子は娘メドメルと名付けられますが、レイリアはメドメルからは隔絶・幽閉されています。
ここにも岡田さんの母子関係が反映されています。
同じ建屋にいて同じ時間を過ごしながら、どうにも詰め切れない理不尽な壁。
思春期を迎え、自我への思索と女性性の実体感が進むほどに "家族の母性" よりも "自身のセクシャリティー" に生きるお母さまの姿。
岡田さんは複雑な思いをお持ちになられたのではないかと推察しています。
私が最も長く悩まされてきたのは、レイリアとメドメルの別れのシーン。二人の表情と振る舞い、言葉の意味するところでした。
劇場公開の初日に鑑賞して以来、3年の月日の間、悶々とし鬱々としてきたのですが(汗)、先日、ある方のレビューを読ませていただく機会を得て、目から鱗、まるで霧が晴れたかのような知見に至れたのです。
「お母さまはお綺麗な方」。
これは娘メドメルの言葉です。
「お綺麗な方」。生みの母と初めて言葉を交わしながら、情愛の一つも結べないままに生き別れするという今わの言葉としては、どうにも違和感だけが残りました。その意味するところは一体何でしょうか?
表面的には、ひどく場違いでぎこちなく、随分と他人行儀のように感じます。
でも、メドメルの思春期心理を鑑みると、精一杯の背伸びのようでもあり、愛憎への当てつけのようにも、愛着への言い訳のようにも感じられます。
一瞬のシーンではありましたが、私の心には鋭く刺さりましたし胸を深く抉られました。
その意味では、本作の核心の一つであり、岡田さんならではの神髄とも言える演出だったと捉えています。
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加えて、レイリアの行動です。
彼女は城壁から飛び降りてメドメルの目の前から忽然と姿を消すのですが、着地したのは龍の背中です。そして一気に空を駆け上がり存在自体を遠い世界に消してしまうのです。
レイリアにとっては、その龍はかつては故郷のイオルフに攻め込んできた忌むべき仇敵であり、彼女に足枷をつけることになった憎むべき存在です。ところがレイリアはその龍を頼りにして跨るのです。
その実、龍を手なずけていたのはマキアであり、その龍はマキアとは心を通わせているように描かれていましたので、この逃避行するシーンの二人の心情の対比や、龍との関係性はとても興味深いものがあります。
龍は "男性性" の象徴でしょう。
さらに支配者層の男性性によって "支配される男性性" としての存在でもあります。
さらに死にゆく種族でありながら、なお "張りぼて" として活用される寂しい存在でもあります。
逆説的には、そこまでして武力や権威付けとして絞りつくさんとする "男性性" の浅ましさでもあり、おこがましさでもあるように感じます。
イオルフの種族にも龍と同じ扱いをしているように見えます。
どういうことかと言うと、女性性を支配するのはつまるところ男性性であり、生命を紡ぐ女性性に対する非平和性、非対等性、力に依存する社会構築を人倫の本とする都合よさです。
岡田さんが本作にそこまで込められたかどうかは分かりません。
でも、3人の母とメドメルの言葉と振る舞いには、男性性が見え隠れしています。
それゆえに岡田さんの人生観とか男性観が、それぞれの女性性に投影されているのは間違いないことだと思います。
それに触れるにつけ、わたしの心は、岡田さんの母への思いを超えて、男性性にしずかに震えてしまっています。
今もなお、その感情が一体何なのか、これ以上の言葉にはしがたい思いですし、また、女性性としてどのように担うべきかを模索するばかりです。
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終わりに、マキアとレイリアの養育者としての立場性の相違についての所感です。
一見では、"養母" と "生母" ですね。
"子育ての辛苦をも歓喜とする無上" と "授乳もおむつ替えも許されない無常" という配置。
"男の子" と "女の子" のジェンダー観への母心の温度差。
"看取りへの責任" の捉え方。(レイリアは描かれてもいませんが。)
そして、イオルフと人間の間にある時差軸への整合性です。
これは、それぞれの母性から見た "愛する者の生と死への態度のとり方" と言いかえてもよさそうですね。
そんなことを羅針盤として、あらためて、岡田さんの作家性に触れてみようかと思っています。