「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||(アニメ映画)」

総合得点
84.1
感想・評価
442
棚に入れた
2036
ランキング
299
★★★★★ 4.2 (442)
物語
4.0
作画
4.4
声優
4.3
音楽
4.2
キャラ
4.1

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ネタバレ

薄雪草 さんの感想・評価

★★★★★ 4.5
物語 : 4.0 作画 : 5.0 声優 : 4.5 音楽 : 4.5 キャラ : 4.5 状態:観終わった

オモイ、ムカウ、オモイ。

本作への関心は、過去作品への諸処の思索や無数の推考などとも絡みあって、さまざまな期待と、いよいよ見納めという複雑な心情の相まったものでした。

今は、少し、さみしいかな。





お話しとしては、奇を衒わぬオーソドックスな終劇にまとめていただけてあったかなと、心なしか安堵の気持ちになっています。

演出と作画といえば、それはもう庵野節が十二分に表現されていました。
技術的な手法はともかく、その意図するところは考察の域であれこれ楽しめると思います。

そんな諸事万感なわけですので、これからご覧になられる方も、その思いを存分にぶつけていただけることだろうと思います。





さて、一見すると「人類補完計画」とは何ぞや?という疑問が残ります。

見終わって間もない私ですので、後世の私自身のためにいくつかのヒントを残しておきたいと思います。


テーマは "愛と自決権との統合" としました。

キーワードは "社会的包摂=インクルージョンの捉え方" としました。

ガイドラインは "忍耐と寛容" あたりでいいかなと考えています。





半ば狂気がかった「人類補完計画」などという大それた立案名。

使徒の襲来という"有事" は、人類史にとっては"世界大戦" を彷彿とさせます。

ならば、活劇も史実も、だれのための自己実現だったのか。

だれに捧げようとした人類浄化だったのか。



終劇の余韻に包容された空気感のなかに、あらためて "?" を置き土産に残した "シン・エヴァンゲリオン" からの微かなメッセージ。

私は、どんなふうに受け止めていくだろうか。

日本は、どんなふうに受け止めていくんだろうか。

そう感じています。





どんなに苦い過去であっても逃げださず、それぞれの今を精一杯に生き抜こうと悩みぬき、{netabare}ついに手を取り合って未来に駆け出していく{/netabare}シンジの姿。

本作に通底する彼の生き方は、これからの私たちに許されてあってもいいのだろうと、私は信じてみたい。


「愛と自決権との統合」、「社会的包摂」、「忍耐と寛容」。

これが私なりの "エヴァンゲリオン・アフター" の今のとっかかり。


そんな想いの向かい方を楽しみとして、今ひとたび過ごしていきたいと思います。





追補です。

(長文・散文ですので、たたんでおきます。)

{netabare}

私、何度も "使徒" に出くわしています。

一番最初の(最も古い記憶の)使徒は「オカタヅケシナサイッ!!」でした。

2番目の使徒は「サッサトタベナサイ!オクレチャウデショ!」

3番目は、「オマエノカーチャン、○○ソ!!」
4番目は、「セ~ンセ~ニイッテヤロ~♪」

5番目、「アンタノアダナ、××ニキメタカラ!」
6番目、「シチノダン、マダオボエラレナイノ?」
7番目、「△△クンガスキ?アリエナイワヨ!」

8番、「□□コートーガッコー、サクラチル。」
9番、「コノバイトセイ、ツカエネーナー!」
10番、「メンセツナイテイ、イマダニゼロ。」

11、「ゴメン、キミトハ、ツキアエナイ。」
12、「キュウリョウゼンゼンアガラナイ。」
13、「ジシン、カミナリ、カジ、ツナミ。」
(ツナミは文脈上の比喩表現です。気を悪くされましたらごめんなさい。)


日常を揺るがす有機物。
存在を危うくさせる無機質。
人災・天災をおりまぜた「災禍厄難」。

それが私の感じる "使徒" なんです。
今では「あれはぜんぶ(エヴァ的には)"使徒" だったんだ。異相世界のモンスターたちだったんだ。」と受け止めています。





エヴァをシリーズとして俯瞰するときの私の視点は、上記のような「拗(こじ)れ」の上に立って見ています。
そこで、庵野さんにとってのエヴァはどうだったかと、同じ視点で洞察してみることにしました。

庵野さんの生地は宇部市です。まずはその郷土史に触れてみます。
宇部市と言えば、宇部興産、ではなくて "宇部炭田" です。

江戸時代からの地場産業で1960年の閉山まで300余年にわたり、宇部の街をこさえ、成長を支え、空気を汚し、しかし清浄な地に生まれ変わることで消えていきました。

その炭田。宇部市にはいまも象徴的な遺構が残っています。
宇部海岸の東部、"床波海岸" の沖あいに、「ピーヤ遺構」を見ることができます。

かつての海底炭田の「水非常」の史跡なのですが、未だに事故の犠牲となられた183柱のご遺体は遺されたまま、魂は鎮魂を見ぬままです。

もしも宇部市を聖地と巡るのでしたら、ぜひ夕刻時に、足を運んでいただければと思います。

なぜなら、海上に突き出たピーヤ遺構は、○○インパクトを想起させるに十分な "名と実" を感じさせますし、海面下の昏くて長い坑道は、地下要塞ジオフロントを彷彿とさせる "雛型" としてしみじみ実感できるからです。

海底炭田開発にともなう宇部市の発展と "かつて美しかっただろう床波海岸" との相関性は、地下に構築されたネルフ本部や、風光明媚な芦ノ湖北岸に構築されたビル群にも、モチーフとしての相似性が見つけられます。

おそらくは、綾波、式波の "ネーミング" もこの地名から取られたものでしょう。

綾波は、満ち潮。
式波は、引き汐。

ふと、そんなイメージが頭に思い浮かんできます。





エヴァシリーズの "使徒" は、異形異質な造形で表現されていますが、それらは庵野さんが、幼少期~少年期に感じられた "心象的なイメージを具現化したもの" だろうと感じています。

インスピレーションの元になっているのは、宇部市史の逸話、ご家庭・地域・世相の様子、学校などの対人関係性などから得られたものでしょう。

具体的には、その場その時の心に引っかかってしまう違和感や、言葉にしにくい矛盾。声を大にして叫びたい不条理などです。

それらが複雑に絡まり合って、庵野さんに「拗れ」を生み出し、作品に「拗らせ」を描かせたのではないかと推察しています。

「拗れ」をひと言で言い表すと、社会の有りようとご自身の立ち位置との居心地の悪さから発せられる「得も言われぬ怒りの心情(=碇の言動)」。

"序" 、 "破" 、"Q" で、碇ゲンドウとシンジの拗れまくったシーンが執拗に描かれたのも、もしかしたら、お父さまにまつわる「何か」が雛形になっているのかもしれません。

あるいはまた、お父さまの背中越しに見えていた世間や社会の「何か」に向けられているのかもしれません。

そうした「拗れ」は、庵野さんに内実する本質的なもので、無限に生産される膨大なエネルギーが、エヴァ表現の原資になっているように思います。

ひとつの例を出すなら、先のNHKの番組で、お父さまのことを語られた庵野さんですが、当時の障がい者の福祉制度は今ほどのものではなかったのは自明です。

その頃の法律によれば「措置」という行政機関の運用でしたが、その決定に従うほかにすべのなかった時代です。

ゆえに、福祉の支援を受けようとすれば、自己選択も自己決定もできないまま、「お上の世話になる」という主客の転倒に直面し、主体性が削り取られてしまいそうに感じられるのも十分に理解できるところです。

それは、あたかも、碇ゲンドウの命令(客体)によって、シンジが苦しんだ姿(主体)に重なります。

もしもそのような視点やファクターがエヴァシリーズの世界観に転写されているとしたら、"使徒" とは、庵野さんの心と精神を圧迫し続けた世相そのもの・社会そのものだといえそうです。





次に、ヱヴァンゲリヲン(エヴァンゲリオン)とはいったい何を雛形にしたのだろうか考えました。

私は、 "使徒" は郷土史の事象とか、ご自身の生活史の心象とかを表象しているものに感じるのですが、同時に、どこか「逆説的な意味」を感じています。

本来ならば、"使徒" とは神の使い。
「正統性」のイメージやニュアンスを含んでいるものです。

だとすれば、当時の世間一般の常識とか、社会通念上の多数意見とかが「当然のこと」であるべきです。

ところが、「逆説的なこと」となれば、"使徒" は「それらの常識や通念を "正の概念" としては受け止められなかった」という捉え方になります。

NHKの番組では「その原点にいつも何かが欠けていた」パートで、お父さまが不慮の事故で足を失ったエピソードが紹介されています。

庵野家の内実を窺い知ることはできませんが、一般家庭において、親の労働者性がスポイルされていたのなら、子どものセカイにとっても重大ごと。

「欠けていたもの」に対する庵野さんの思いは、「家を守らなければならない」というものと「どう守ればよいのか分からない」というものの二律背反する心情だったでしょう。

であれば、庵野さんが構想として、ネルフが守る日本、碇ゲンドウが守る妻、エヴァをしてパイロットを守り抜かせようとする意図に、宇部市史、家族史を込めていたとしても十分に理解できようものです。

例えば、ネルフは、海底炭田の煤煙に苦しめられる市民の暮らしを、とことん守ろうと努力された方々の意志から想起されているように感じます。

また、碇ゲンドウは、庵野さんが「守りたい」とする感情をガチガチに固め込んだキャラクターのようにみえます。

なれば、エヴァを生み出したものは何か。
二つほど、考えてみました。





一つ目は、大日如来にそば仕えする "四天王" 、あるいは薬師如来を護る "十二神将" にヒントを得ているのではないかと思います。

大日如来は天照大御神の本地仏。
薬師如来は衆生の病苦を治す法薬を与える医薬の仏です。

四天王も十二神将も、如来の化身。
その仏性に触れるなら、母の優しさとともに厳しさも感じて、どこか懐かしい安寧が得られそうです。

ですが、一転して、わが子を守る "鬼子母神" の逸話にも、源流がたどれるとの思いも持っています。


そもそも子どもにとっては、神も鬼も異界の住人です。畏敬の気持ちとは裏腹に、忌避する思いも抱きあわされている "負の存在" です。

でも、大人にとっては、コミュニティーに結束と安寧をもたらし、あるいは規律と調和を整える "正の存在" です。

鬼に賦与されているのは、地域的な逸話はいろいろですが、共通する特異性は、こうした二律背反する二重構造性です。

ふだんは結界の中に鎮まっていますが、ひとたび人に懸かると、いかようにも自在性を発揮して、福与善導の先陣を切ります。

大人の鬼舞い・神舞いは、子どもに世間のしきたりを体感させ、子どもは、伝承を感じ取り、ゆるやかに大人性を形成していきます。

やがて "ハレ" の日を迎えると、鬼神はついに "少年性" を焼き切り、社会的包摂という新たな "神話" の1ページを開かせるのです。

庵野さんが創り出した鬼神たち(=シン・エヴァ)は、現代的にリビルドされた "シン・お伽話" とは言えないでしょうか。

その "神力" は、モニターの内側にも外側にも、アンコントラーブルなまでの超絶さであまねく発揮されるのです。


アスカがエヴァに噛み砕かれるシーンなどは、本当に鬼子母神の独りよがりする所業そのままです。

それは、大人性を獲得し始めたアスカと、大人性を獲得し切れていない碇ゲンドウの "アイデンティティーの激突" でもあったのです。

ですが、もう一方では、シンジが自分自身の大人性に気づいたり、碇ゲンドウが愛の初発に立ち戻る姿もありました。

また、そんな2人を慈しむレイとユイだったり、2人に代わってシンジを愛おしむマリの態度だったりも、きちんと描かれていたことを忘れてはいけないでしょう。


もしも、鬼を善神と見立てれば、エヴァにも「守護・救済」のお作法を具現化する有意性があらたかに顕現してきます。
つまり、穢れを祓い清めるという神力を宿らせることが十分可能になるのです。

その神力を碇ゲンドウに付与するならば、ネルフもゼーレも、彼自身を「守護し救済する」ための "ひとり舞台" 。

自作自演に酔いしれる "パントマイム" です。

それは、幼少期の庵野さんが希求していた無限円環たる思いでもあると思います。

また、シンジにその神力を授ければ、綾波レイにこそ "かけがえのないもう一人の自分" だとして「守護し救済する」ための "エヴァへの搭乗" 。

自他肯定を育成する "マザーズラブ" です。

それもまた、庵野さんに潜んでいる未分化なままの自我、一体混在化している精神性への叱咤だと感じます。


こうした入り組んだ二重構造性は、鬼のごとくに造形されたエヴァと、繊細に過ぎるパイロットの心が、シンクロするさまに見て取れます。

例えば、ヤシマ作戦での零号機・初号機とで連携して戦うシーンは、"使徒" という穢れを祓い清める二人舞いする姿に見えます。

そこには、友情以上の気遣い、恋情以上の寄り添いが感じられます。





二つ目は、エヴァの名称には、唯一無二にして初発でもある "母性愛" をニュアンスとして感じ取れることです。

その名は、シンジとレイを愛おしく体内に抱きとめる "慈愛と恩寵" です。
その身は、子どもに仇なす悪を排除せんとする "憤怒・怒髪" の権化です。

と同時に、その咆哮は、ジェンダーとセクシャリティーを二重に希求した碇ゲンドウの "父性愛" の妄執を叫ばせています。

もしかしたら庵野さんは、エヴァンゲリオンを "わが子" と見立てて、"母性" と "父性" を共々に焼きつけようと試みたのかもしれません。





エヴァは、すべての "使徒" を退けることで庵野さんに内包されていた「拗れ」を消化し、全ての使命を果たしたことでそれらを昇華させたようにも捉えられます。

また、父と子とで、同じエヴァを戦わせたことは、両者の "葛藤する質量" が拮抗に達していく姿のようです。

ながくシンジに強く圧しつけていたゲンドウの "低い自己効力感" は、ついに大人へと脱皮していくシンジの "高い自己効力感" に、とって代わられたのです。


碇ゲンドウの魂は、その手応えからシンジの語り口に妻の魂の在り処を感じ取り、妄執する生ではなく穏やかな死を受け入れました。

それは、碇ゲンドウにしてみると、"夫婦だけの愛" から "父母としての愛" への立場性への全移行であり、子どもの主体性を大人として尊び、その社会性を後押しするという意識改革の証だったのでしょう。


もしかしたら、こうしたプロセスが、碇ゲンドウがぶち上げていた「人類補完計画」の "内実" であり、"完遂" だったのではないだろうか?

あるいは、ゲンドウの少年性が "神話" として捉えていた生と死への向かい方を、大人性として習得、獲得する「お作法」だったとは言えまいか?

そんな自問を重ねつつ、本作を受け止めたいと思っています。





「さよなら、エヴァンゲリオン」。

すべての物語世界は、庵野さん自身の手によって、彼と彼のファンの "少年性" を完全に切り離しました。

この四半世紀を思い返せば、シンジが、庵野さんの "眞志" として変容し、ついに "真路" へと転意していくことが、長きに渡る "マラソン神事" だったのかもしれません。

終劇の行方は、エヴァ構想の初発でもある宇部市に回帰し、あの "けり" の付け方も、庵野さんにしてみれば、そこ以外に選択肢はあり得なかったのでしょう。

庵野さんのアングルが宇部市を高く俯瞰したことで、ご自身の幼年期・少年期の心象風景が、令和の写実のそれとしてフレームの枠に "きれいに" 収まった・・・。

そう言ってもいいのかもしれません。


ただ、印象としては「リビルドされたお伽噺」。
味わいとしては、ほんのちょっぴり薄味でした。





ところで、早くも、次回作が発表されています。

庵野さんは還暦を迎えられ、脂がのりきっているみたいです。

より大きな愛と、自らのアイデンティティーを定立させるステージにお立ちになられたのでしょう。

スタッフの皆さまも、険路激流を乗り越えて素晴らしい作品へと仕上げてくださいました。

だからだから、この先も、増しまし×2の物語となる「シン・○○」が、益々×2のアングルで見られることが楽しみでなりません。





ここまで長々とおつきあいくださいまして、本当にありがとうございました。

心からの感謝を申し上げます。


桜が、青い空に、柔らかく舞っています。
{/netabare}

投稿 : 2021/04/23
閲覧 : 358
サンキュー:

21

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