因果 さんの感想・評価
4.1
物語 : 4.5
作画 : 3.5
声優 : 3.0
音楽 : 5.0
キャラ : 4.5
状態:観終わった
わたし自身のものではない罪を背負うこと
たとえば大きな戦争が一方の敗北宣言によって終結を迎えたとして、その「終結」とは単にポリティカルな意味において、である。実際は大勢の無関係な人々が数え切れないほど犠牲になっているわけで、そうした人々のパーソナルな怨嗟や憤怒には行き場がない。戦争はなおも続いているのだ。
奪われた人々の悲しみや怒りが今もなお存在するという事実は妥当かつ不変であり、さればこそそれらに対する連帯や贖罪といったものもまた必ず存在せねばならない。でなければ人間社会はおぞましい空洞を随所に抱え続けることになる。
村上春樹の『騎士団長殺し』では日本軍の南京大虐殺についての記述が出てくるが、ここにはそれを事実として受け止めたうえでの、明確な贖罪の意識が織り込まれている。
「おびただしい数の市民が戦闘の巻き添えになって殺されたことは、打ち消しがたい事実です。中国人死者の数を四十万人というものもいれば、十万人というものもいます」
発売以来、本書が一部の界隈から歴史修正主義あるいは反日思想といったレッテルを貼られたことは想像に難くない。
しかし彼はそういった意図において上記の記述をしたわけでは決してない。エルサレム章授賞式における有名なスピーチにおいて、彼はこう語っている。
「もしここに硬い大きな壁があり、そこにぶつかって割れる卵があったとしたら、私は常に卵の側に立ちます」
ここには彼の、二元論を超越した連帯の意識が表れている。事実が具体的にどのようであるか、あるいは自分がそのことにどれだけの深度で関わっているか、といった問題はもはや軽微なレトリックに過ぎない。
さて、『刻刻』は「止界」という超越世界への入り口である「石」を所持している家族と、それらに襲い来る宗教組織・友愛会との戦いを描いたSF活劇である。クリストファー・ノーラン的イマジネーションが梅津泰臣の丸っこいキャラデザインのもとで繰り広げられるミスマッチがかえって気持ち良い。
私が本作を評価しているのは、主人公である樹里が佑河家という大きな罪を背負おうとしている点である。
そもそも「石」をめぐる抗争の発端は、元を正せば佑河家が「石」や「止界」にまつわる情報を半ばタブー化し、中途半端に隠匿していたことにある。でなければ間島は家族を喪失せずに済んだだろうし、友愛会とも非暴力的に折り合いをつけていられたかもしれない。
しかし何はともあれ事は起こってしまった。同時に、決して少ないとはいえない犠牲も。
ここで樹里に目を向けてみると、彼女ほど不憫な立場もない。気づいた時には家族を誘拐され、「止界」に閉じ込められ、友愛会との戦いに参加させられてしまっている。言ってしまえば彼女だって被害者であるのだし、そのことを前面に出したところで誰も文句は言えないはずだ。
そうであるにもかかわらず、彼女は最後まで十字架を背負い続けようとする。自分と直接関わりのない、しかし自分から伸びた補助線の先の先で確かに触れ合っている(いた)誰かに、何かに、絶えず償おうとする。自分もまた佑河家に籍を置く一人の共犯者である、というオブセッシブな自認のもとで。
だからこそ樹里は(じいさんが窮地に追い込まれているという文脈があるとはいえ)「石」を躊躇なく破壊することができたのだし、一連の事件の残酷な結果としてインカーネーションを果たした佐河を、樹里は終ぞ殺せなかったのだと思う。
最終話、自分以外の人間を自身の特殊異能で現実世界に帰した樹里は、文字通り「止界」でただ一人の生者となる。彼女は自己欺瞞の上塗りを繰り返すことでなんとか自己崩壊(=贖罪の相手がもはや存在しないことを悟ること=カヌリニ化)を食い止めようとするが、彼女の身体は徐々にカヌリニ化していく。
するとどこからともなく「止界」の創始者の妻なる人物(=神)が現れ、彼女のカヌリニ化を食い止めるとともに現実世界へ連れ戻す。
このあたりの展開をご都合主義と断じることは容易いが、寄る辺のない孤独が絶えず押し寄せるこの止まった世界の中で、最もか弱い存在は他でもない彼女である。そのとき「壁」は「止界」であり、「卵」は「樹里」なのだ。誰かが寄り添ってやらねばならない。
しかし「石」という唯一の契機を失った今、「止界」に人間の誰かが立ち入って彼女を救い出す、というシナリオは不可能である。そこで代わりに人間のコードを超越した「神」が現れた、というのはご都合主義どころか、むしろ必然なのではないだろうか。
ディビッド・リンチ『ワイルド・アット・ハート』やコーエン兄弟『未来は今』の終盤に何の脈絡もなく登場する神や天使と同じように。