芝生まじりの丘 さんの感想・評価
4.4
物語 : 4.5
作画 : 4.5
声優 : 4.5
音楽 : 4.5
キャラ : 4.0
状態:観終わった
少女アニメのような抽象的な何か
少女向けアニメってあまり見ないのでよくわからないけれど微妙に聞くタイトルの作品だとは思っていた。視聴してみると実際火のないところに煙は立たないというか、予想以上のユニークな力作で驚かされた。
演出や話の筋は随所で非常に独創的だが、ベースにあるのはセーラームーンなどの変身して闘う少女漫画であり、変化球ではあれそのエンターテイメントとしての形式は十二分に保たれている。
ストーリーをざっくり説明すると、容姿端麗でスポーツにも優れ学園の人気者であるウテナが、「世界の果て」の揺り動かす「薔薇の花嫁アンシー」と「世界を革命する力」を巡った決闘に巻き込まれていく、というもの。
全39話で大きく3部にわかれる。個々の思惑から世界を革命する力を求める生徒会執行部メンバー、中盤登場する学園理事長代理が中心となるキャラクターであり彼らの中の一人にスポットライトがあたり、1-3話で完結する形で物語は進行する。各部で登場人物をだいたい一周するので3部で計3週する形で、それに総集編的な回やネタ回が挿入される形である。
劇をモチーフにしているということもあり、繰り返される変身シーン、反復される状況と口上ゆえに、形式的な趣が強く感じられる。
脚本はどこか冷めているように見える。基本的には各章で一人の人物にスポットが当てられ、その問題が暴かれ、話が進行するのだが、基本的に問題が決闘によって本当に解決されるということはない。ただ少しづつ状況が成り行きで変化していくだけ。この手の作品にありがちなように主人公が彼らの問題に深入りしたり、説得したり影響を与えるということはほとんどない。彼らはただ物語に用意された宿命に従って順序正しく問題を起こし、そして決闘の場へと向かうのである。
序盤中盤までは比較的普通に児童アニメらしく進行していくが、特に終盤は物語の進行はかなり曖昧で詩的になり、果たしてターゲット層が話の筋をまともに理解できたのかは謎である。
単体の話としては7話の樹璃の話が好きだった。{netabare}奇跡の存在を否定する彼女が他の決闘とはいささか異なる宿命的な敗北をする様はあまりに美しくアイロニーを誘う。{/netabare}
終盤はもう少しアンシーの存在感をもう少しあらかじめ強調しておいたほうが良かったような気はするが久々にアニメで熱い想いを感じさせられた。{netabare}最後は当然ウテナの革命的で華麗なる勝利で終わるものとばかり思っていたため、あのような(良い意味で)微妙な終わり方をしてくるのは驚かされた。このアニメスタッフは本気なんだなと思った。あれを見るに各章の円満解決せず、誰も大して成長しないような描き方もやっぱりわざとやっているのだろう。{/netabare}
この時代のアニメの演出の流れを知らないけれど、演出面は素朴な味を残しながら芸術的で僕好みだった。
少女向け風の空とぼけたあどけなさと、やたらと重く宿命的で象徴的な匂いのミスマッチがどこか不思議な作品だと思う。
それにしても最終部で各話で理事長だかが車の上で上半身裸でセクシーポーズドヤ顔で決めるのは毎回笑ってしまうからやめてほしかった。
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2週目でざっくり本筋の回だけ回ったので再度感想
一度目で感動した箇所ではあまり心は揺れなかったのだが見ながら考えていたことを述べる。
{netabare}
* 世界の果ての昭夫
昭夫が「世界の果て」であるとはどういうことか。
一つには昭夫が大人、それもカッコいい大人であり、それが青少年にとっての未来の自分の姿の指標であり、目標になるということ。
昭夫のモチーフとしてスポーツカーを乗り回す姿がこれでもかと登場するが、そこに大人としてのカッコよさが表現される。
青少年にとっての憧れであり、未来の自分がこうあれたらという目標。それは遠くにあり、希望であると同時に、掴んでしまえば、もはやその先に何があるのか何を目指せば良いのかわからない、他に何を目標にしたら良いかわからないという意味で「世界の果て」なのだ。
「卵の殻を破らねば、雛鳥は生まれずに死んでいく。我らが雛で、卵は世界だ。」と繰り返し述べられる。現代を生きる若者は過去の人々、つまり大人たちの背中に憧れながらも、それと戦い、追い越し、打ち勝たなければいけないという義務感を背負っている。
幼少の目標=「世界の果て」というメタファーはウテナの幼少期の王子様への憧れにもぴたりと当てはまる。ウテナは王子様の真似をして振る舞うという意味で、昭夫を見果てぬ目標として振る舞っているのだし、王子様に再会することを目標に強くけだかく生きているウテナにとって昭夫との再会はそれが得られたら物語が終わってしまうような目標/世界の果てなのだ。古典的な童話において、お姫様は王子様と結婚することで終わる。
もう一つにはパートナーの男性が女性にとっての世界の果て(限界)になってしまうということ。魅力的な男性と恋愛をし、結婚することが女性の目標であるという価値観は徐々に薄れつつあるとはいえ、今も残る現実である。「最も魅力的な男性のパートナーを得ること」が女性にとっての世界の果てであるという虚しい事実を述べているとも言えるし、女性にとって、パートナーの男性が家父長であるとき、パートナーの男性の意思が従わなければいけないルールとして世界の果てを定義しているとも言える。どれだけ優れたパートナーだとしてもそれに従い、腕の中で愚かに笑っているのが定めだというのは少し寂しい。女性性のアイロニーについては随所でテーマとなっている。
あるいは、大人として、完成しきり、もはや成長せず変化してしまうこと、それが「世界の果て」であるとも言える。ここで「世界」とは自分のことであり、自分にとっての限界が世界にとっての限界だと言うことだ。
昭夫は薔薇の門を開こうとするが、ウテナが同じことをやるときには、その奥の棺の戸を開けるなと言う。歳を取らないことなど含め、昭夫は現状肯定と諦観の象徴である。それはもう自分の限界を見限り、変化を恐れ、成長を止めてしまった男の姿である。
「世界を革命する」とは自分を変えることである。
34話の劇中劇において、「世界の光」(=永遠のもの、かがやくもの、奇跡、世界を革命する力)は本当は外ではなく、王子の内側にあったのだと言われる。昭夫は最終話でも世界を革命する力を自分の外に求め、ウテナの剣を奪い、それを使おうとするがうまくいかない。一方でウテナは剣などなくとも薔薇の門を開くことができた。現状を打破する奇跡の由来を自己変容の力に求めることが
ヴィトゲンシュタインが「語り得ぬものには沈黙するしかない」、「私の言語の限界は、私の世界の限界を意味する」と言うような哲学的な意味での世界の果て。つまり世界の果てとは語り得ることの限界、神秘の一歩手前。人は古来より至上の善、至福、絶対、永遠といったものを求めてきたが決してそれに辿り着かなかった。何をなしても、何を得ても人には欲望が残り、人は決して満たされない存在だった。トマスアクィナスはいくら求めても満たされぬものとして人間を「途上にある者」と呼んだ。我々がそれをどれだけ求めるにしても、客観的な意味においては「世界の光」(=永遠のもの、かがやくもの、奇跡、世界を革命する力)なんてものはどこにも存在しない。そして童話の世界における至福の象徴であるような「世界の光」そのものの完全無欠の神様みたいな王子様も存在しない。
いるのはただ、王子様になりきれず、弱り、諦観しハイスペックでエゴイストな理事長という立場に落ち着いた「世界の果て」と、王子様ごっこを続けるウテナであり、結局どちらも絶対の世界の光には届かない「途上にある者」なのである。
* ひっくり返ったお城
決闘場の上にあるひっくり返ったお城は象徴的だ。
これには「童話の倒置」というものの象徴だと解釈をすることができるだろう。
王子様といった語彙や各話冒頭の演出など童話のモチーフが随所に見られる一方で、「白馬の王子が悪役であること」、「女性が剣を取る主人公であること」、といった点で童話の枠組みを転倒させようとしている。
{/netabare}