「月がきれい(TVアニメ動画)」

総合得点
93.9
感想・評価
1808
棚に入れた
7619
ランキング
9
★★★★☆ 4.0 (1808)
物語
4.1
作画
4.0
声優
4.0
音楽
4.0
キャラ
4.0

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ネタバレ

oxPGx85958 さんの感想・評価

★★★★★ 4.8
物語 : 5.0 作画 : 4.5 声優 : 5.0 音楽 : 4.5 キャラ : 5.0 状態:観終わった

文学・映画に対する挑戦状

文学・映画に対する挑戦状

通俗的なアニメの味付けを抑え、ハイ・アートの位置づけにある文学・映画に対する挑戦状として作られた、脚本、演技、演出、カット割り、音楽のあらゆる面で細かく計算された大傑作。みたいにまとめたくなりますが、現実には、いまの日本映画界にはこういうものは作れなくなっているんじゃないでしょうか。私としては、アニメが黄金期の日本映画の後継者になっていることを示す例の1つだと思います。

要するに素晴らしい作品だった、ということは大前提として。見ていて唯一違和感を覚えたのが、最終話での盛り上げ方でした。それまでのリアリズム指向から一転して、シナリオの面でも演出やカット割りの面でも別の方向に進んだように思えたのです。でも本サイトを含め、本作を肯定的に捉えているレビューのほぼすべてで、この最終話は賞賛されています。このズレはどういうことなのかなと考えているうちに、これも作り手側の計算の内だったんだろうなと思うに至りました。本作が素晴らしい作品であるということは他の方々がたくさん書いているので、私はこの点に絞って書いてみようと思います。

本作の脚本はリアリズムを指向してよく練られていますが、私が特に凄いなと思ったのは、各エピソードのタイトルに文豪たちの作品のタイトルをつけるぐらい「文学趣味」であるのに、小太郎の小説家志望という側面をきわめて冷徹に捉えているところでした。{netabare}出版社の編集者には才能がないと言われてライトノベルを書くように勧められ、古書店の主人には君の書いているものはライトノベルと大差ないと言われ、母親には女心がわかっていないと評され、国語の点数はかろうじて平均点よりは上というぐらい。{/netabare}

{netabare}「文学志望の若者の挫折」はよく扱われるテーマだけど、この小太郎のように、これほど最初から才能がない者として描かれるケースも、中学三年生という若さで諦めるケースも、(これは解釈の違いもあるかもしれませんが広い意味で)「生活のために」あっさりと諦めることをこれほど肯定的に描いているケースも、私はほとんど見たことがありません。{/netabare}

作話上の仕組みとして何よりも興味深いのは、{netabare}小太郎が書いていた小説のテキストを視聴者には一切見せなかったことでした。「文才がなく女心がわかっていない中学三年生が書いた純文学」のテキストを作るという難問は回避しているわけです。ところが最終話で、高校受験に失敗した小太郎は、心境の変化があって「ライトノベル」を書いてウェブ小説サイトにアップロードする。そのテキストの内容が、茜が読む場面で、視聴者に初めて明かされます。{/netabare}

{netabare}
最終話を見ていて抱いた違和感の1つに、千夏から小太郎のテキストを見せられた茜は、どこでどれだけの時間をかけてそれを読んだのだろうか、ということがありました。親から電車で来ていいよと言われ、千夏と葵と一緒に過ごす時間を与えられた茜は、そのあとどんな流れであれを読み、コメントを付けたのか。一緒に喫茶店に入って、「私これ読んでるから二人でおしゃべりしてて」とか言って、たとえば1時間かけて読んだのか。そんな時間的・心理的余裕があるのか?
{/netabare}

{netabare}
でも最後まで見て、ネット上のレビューなどを読み、いろいろと考えていてわかったんですが、たぶん茜はそれこそ5分とか10分の短時間で読み終えたんです。小太郎のウェブ小説はそのように読めるものだった。考えてみると、茜は文学はもちろん本一般を読む人として描かれていません。そのような人が、作中で紹介される太宰治の『女生徒』の、「先生は、私の下着に、薔薇の花の刺繍のあることさえ、知らない」みたいな文を読んで咀嚼することはもともと不可能なわけです。
{/netabare}

{netabare}
小太郎がなぜ文学からライトノベルに転身することにしたのか、その動機ははっきりとは説明されていませんが、私の解釈では、自らの才能の欠如を自覚したということもあったでしょうが、高校受験の失敗の後、茜との未来を現実的に考える中で、編集者の助言にあった「食える仕事」という観念を受け入れたということなのでしょう。後日譚から察するに、その後、ライトノベル作家になることも諦めたようですが、それも含めて、ほとんどの視聴者はこの転進を肯定的に捉えているようです。
{/netabare}

{netabare}
上に書いたように、この「生活のために諦める」というモチーフがこれほど前向きに屈託なく扱われている作品は珍しいと思うんですが、これを支えるための重要な仕掛けが、最終話の流れだったということに気づいた、という次第です。要するに、小太郎が茜に通じるようなライトノベルを書いてウェブ小説サイトにアップロードしなければ、茜との将来の生活自体がなかったわけです。
{/netabare}

{netabare}
この仕掛けは別の角度からも描かれています。小太郎は茜の高校生最後の陸上大会をこっそりと見に行く。小太郎は茜が何をやっているかを知っていて、実際に見た。しかし茜は、小太郎の祭りでの舞は見たけれども、小太郎が書いている小説は読んだことがなかった。それが最終話で初めて私小説的なライトノベルの形として彼女に届き、実際に彼女の心を、最も重要な、意味のある形で動かした。
{/netabare}

本作の作り手たちが、文学や映画への強いあこがれを持っていることは明らかです。そういう人たちがアニメというフィールドで、「文学青年の挫折」という古くからのテーマをこんなにプラグマティックな形で料理している、というこの構図を、ちょっとイヤらしく感じる人もいるかもしれません。私も正直言って、諸手を挙げて賞賛していいのか迷います。だいたい、最終話のエンディングで描かれる主人公たちの行く末を、作り手たちが「ほんとうに」「全面的に」肯定しているのか、私には確信が持てないし。でもその曖昧さを踏まえた上で、本作のこの問題意識はパワフルだなと思ったし、まさに純文学的なテーマだとも感じました。

さらに言うと、本サイトのものを含めて、ほとんどすべてのレビューで、この作品の流れとエンディングが「ハッピー・エンディング」と受け止められていることは、アニメのマーケットが文学のマーケットをあっさりと超克していることを示している、と言えなくもないと感じます。文学のファンなら「文学を舐めんな!」と怒り狂ってもおかしくない事態です。作り手たちはこれを見てほくそ笑んでいるのでしょうか。幾ばくかの哀しさを感じているのでしょうか。

最後に、千葉翔也と小原好美が素晴らしいのは言うまでもありませんが、その他のキャストも全体的に良く、特に、千夏の村川梨衣、葵の白石晴香、小太郎母の井上喜久子が強く印象に残りました。

投稿 : 2020/07/28
閲覧 : 280
サンキュー:

9

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