薄雪草 さんの感想・評価
4.9
物語 : 5.0
作画 : 5.0
声優 : 4.5
音楽 : 5.0
キャラ : 5.0
状態:観終わった
蒼き リミナリティー。
第一楽章
《 あめゆじゅとてきてけんじや 》
あめゆじゅ とてきて けんじや。
『おれはひとりの修羅なのだ。』で有名な宮沢賢治の「春と修羅 心象スケッチ」に載る「永訣の朝」という詩にある一文です。
「あめゆじゅ」は「雨雪」、「とてきて」は「取ってきて」、「けんじや」は「くれませんか」の意味です。
岩手県花巻の方言で、賢治のすぐ下の妹、トシの言葉です。
肺結核を患い床に臥せていたトシが、ついに末期を悟り「雨雪を(口にしたいから庭に降り積もっているのを)取ってきてください。」と兄賢治に頼んだ情景とその気丈。
つとに胸に迫ります。
「あめゆじゅ(雨雪)」は、「霙(みぞれ)」のことです。
霙はわずかな気温差で、雨になったり雪になったりします。
物理学ではこの物性を「二相系」と呼ぶそうです。
みぞれを「あめゆじゅ」と誦するのが奥ゆかしくて、本作のヒロイン鎧塚みぞれにもその印象が重なります。
もう一人のヒロイン傘木希美、そしてふたりの関係においても「二相系」はたいへん似つかわしい言葉のように感じます。
「春と修羅」には「無声慟哭」という詩も載せられています。
これは賢治の造語なのですが、24歳という若さで夭逝したトシの気高さへの "真実" を表わしています。
同時に、本作の "演出" にも通底し、希美とみぞれ、双方の胸奥にも触れ得るものではないでしょうか。
友情とも恋情とも言えぬ境界層。
淡くて激しい疼きの納めどころ。
ふたりの「訣別」を、賢治が亡失した兄妹愛、「永訣と慟哭」から浮き彫りにしてみたい・・・。
そんな気持ちになりました。
(実は、『雲の向こう、約束の場所』でヒロインが朗読するシーンがあります。こちらも象徴的な演出。心が震えます。)
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「響け!ユーフォニアム」は、原作もアニメもぞっこんな私。
本作は、本流・久美子とは一線を画する「もう一つの奔流」です。
水槽の内側にいると、安寧の心地よさはありますが、それでは自らの "少女性" も生半なままです。
"リズと青い鳥" は、うちからそとへ、大人の世界へと踏み出すための "それぞれの挑戦" なのです。
小鳥の少女とリズの語らいは "心躍る歓び" だけではありません。
そこには "微かな煩い" も見え隠れしているのです。
それでも精一杯、おどけあったり、思わせぶったり・・・。
もっと、もっともっと伝えたい気持ちがあるのは本当のこと。
でも、二人は「訣別」を迎えるのです。
・・・ 美しく、卒業するために。
みぞれが日常にもソリにも行き詰まるのは、「訣別」をどう表現すればいいのかわからないから。
いいえ、むしろソリだと思うからこそ、希美を抱き込んでしまうのでしょう。
心をどれほど近くに寄せようとも、道はやがて逸れていきます。
必ずやって来る気色ばむ瞬間を、みぞれは「あめゆじゅの思い」で伝えられるのでしょうか。
切なさと儚さを織りあわせながら、好きな人の幸せを祈り、遠くからいたわりを示すことを知る少女たちの姿。
すっかり心を奪われている私です。
ダイナミズムにあふれる本流・久美子が湧き起こすカラフルさとは明らかに異なっているのは、ブルーを基調トーンとし、視聴覚を転相させる大胆なカット手法。
希美の "音楽" への渇仰と、みぞれの "友だち" への憧憬の "アンビバランス" が、少女特有の神秘性のうちに強調され、シンボライズ化されているように感じます。
比類なき演出に、心が躍ります。
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みぞれと希美は "等身大" の奏者として絶妙なバランスで描かれています。
さきに音楽性を求めてきた者と、あとに音楽性で求めようとする者。
いつも交友を広く浅く扱える者と、交情を深く濃く設えたい者。
ともに実力者でありながら、全国を知らない者と、知りえた者。
不思議な気持ちになるのは、溌剌と自信に満ち、音楽性を希求してきたはずの希美が、自らのそれに拘らなかったことです。
物語としては、いわゆる "技術面での限界" という部活あるあるで理解できないわけではありません。
でも、私には少し引っかかっているエピソードなのです。
原作を読むと気づくのですが、この自己承認欲求への処し方は、久石奏のそれと対比になっています。
希美のポジションは奏のそれに近く、集団のなかでの振る舞いに長けています。
希美にはみぞれが対置されており、奏には久美子になるのでしょう。
そして久美子には、あすか、優子、麗奈ら、錚々たるラインナップが揃っています。
希美と奏の内面性の近似点をよく見ると、みぞれと久美子の感化力の違いがありやかに浮き出してくる・・・そう感じるのです。
本作では、奏はもちろん、久美子ですら脇役です。
とは言っても、本作、原作ともに、まるっきり接点のない希美と奏の間に立っている久美子のポジションは、『響け!』シリーズならではの「ユーフォっぽさ」が十二分に味わえるシチュエーションだとは言えないでしょうか。
スピンオフ作品でありながら、青春群像を動かしている久美子の魅力がここにも活きています。
ファンには垂涎ともなる舞台装置。
なんとも心にくい脚本です。
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物語は「全国へ」と目的を一にする尊さに寄せようとします。
ですが同時に、訣別をふたりの時間に含ませるのです。
「さよならなんて言いたくない。言ってほしくない!」
久美子が自身に、あすか先輩に絞り出した惜別の響き。
それは久美子にとっても欠かせないエピソードでした。
別れは遠くにあるようでも、必ずやって来る最後の情動です。
その慟哭の深さは、懸けてきた時間と熱量とに比例するのかもしれません。
青春の美しさは、日々の繰り返しの一瞬に紡がれる短命。
久美子のそれは、今もなお、胸にするどく迫り来るのです。
かつてのあすか先輩との系譜は、2年生になった久美子を経て、次回作 "波乱の第二楽章(誓いのフィナーレ)" に昇華されるのでしょう。
悲願の全国出場に向けて、どのように描かれるのか興味は尽きません。
そんな思いに耽りながら、「二相系」という修辞をつけて本作を鑑賞しなおしてみよう。
そんなふうに思いました。
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「二相系」は、みぞれの覚醒はもちろん、希美の驚嘆(驚愕と落胆)にも見受けられます。
ところが、二人にフォーカスするほどに、モブでいるメンバーたちの顔がクローズアップされるように思えるのは、私だけなのでしょうか。
ここにも山田尚子監督ならではの「ヒミツの二相系」が演出されているように思えてなりません。
静謐な空間のうちに自らを叱咤奮闘させ、北宇治マインドを熟成昇華させていく奏者・部員たちの目線の先には、全国があります。
"リズと青い鳥" を希美とみぞれに託し、新しいレジェンドを全員で創り出してほしい。
そう願わずにはいられません。
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心象スケッチは、せわしなく二転三転する白日夢のようです。
みぞれの「ブルー」は、水のうちからそとへとみじんに散らばり、収束し、一つの確信を得ます。
空の高みへ舞い上がったときの躊躇いと驚きは別の次元に。
水槽ガラスに映り込んだ思い做しの呪縛に気づいたときの素心に。
前後を歩んだ朋友との未来にも、爽気をアンブシュアできるカデンツァに。
感じたままのイメージをリードに吹き込めば、思い描いたストーリーが瞬時に、麗しい感性で彩られます。
誰をも震撼させたオーボエの音色。
ついに、心服から初立つ一歩を踏み出していく礼砲なのです。
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人間はいつまでも未完成であるがゆえに、煩悩はときとして修羅と化します。
阿修羅像の示す三面六臂は「幼少期、少年期、青年期」を表わすという「揺れ惑う三相系」。
表情に醸しだされるのは、慟哭に耐える苦悶と無音無声の伸吟です。
部活動における音楽性へのアプローチは人さまざまなもの。
たとえそれが自分の中では正しいものだとしても、それにとらわれ狭い心しか持てなくなることは良くないという仏道の教えがここにはあります。
阿修羅像の姿は、まさに人間の持つ紙一重の改心のさまです。
みぞれはみぞれの道に、希美は希美の道に、その意志と熱量を示していくのでしょう。
きっと様々な困難を乗り越えて、その人生を輝くものに創造していくことでしょう。
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{netabare}
第二楽章
《 bluesy 》
二人のステップは成熟へのプレリュード。
追従と放縦が絡み合う。
それぞれのマインドは未だ憂愁の翳(かげり)。
謦咳と緘黙が交錯する。
お互いの矜恃を懸けたソロとソリが、今、始まる。
無垢な交歓はやさしげな戯れ。
懊悩する逡巡は囚われのケージ。
独り善がりなのは偏愛なの?
勝手気ままなのは放漫なの?
蒼きリミナリティー。
未熟なる道化師たちです。
《 blue tone 》
希美の音調は、明るいアニマート。
みぞれへの負い目をいくらも感じていないから?
みぞれの音高は、平坦なビブラート。
希美への引け目をどこかに抱え込んでいるから?
ふたりの音歩は、まだ少しぎごちない。
それがなぜだか、今はまだ分からない。
心は、鈍色(にびいろ)の曇天。
みぞれも、あめゆじゅのまま。
《 Be quiet 》
2人だけの talkative.
戸惑いは隠せない。
フルートは明朗闊達。
(リズからは離れたくないのに)
オーボエは頑迷固陋。
(青い鳥を解放してあげたいのに)
中学3年生の府大会銀賞。
そこで時間は止まってしまったの?
それとも進んでしまっているの?
いったん交わした約束をどんなことがあっても固く守りたいのは、希美の責任感。
トラウマから抜け出しコンクールに喜びを見いだせたのは、みぞれの努力の証。
二人の五線譜には 𝄐(フェルマータ)が、不安げに浮き出している。
あるべき姿も、行くべき道も、二人の talkative.
どちらの頭上にも、蒼い空は広がっている。
《 blue note 》
flute に似つかわしいのは小鳥のさえずり?
oboe にふさわしいのはリズの呼びかけ?
いくどとなく懸けあわされる親近の呼応。
flat に見えていても、かすかに♭が聴こえていた。
半音ぶんの愁い。
何かのきっかけがあれば巣立てるのに。
まだ blue bird を手放せないみぞれ。
青い鳥こそ、天上へと羽ばたくに相応しい。
オーボエコンチェルトこそ、みぞれに相応しい。
《 blue hole 》
青春の移ろいは、深い痕を遺す。
修羅に身を任せれば、不安と背信が顔を覗かせる。
それは罪?
それとも罰?
命がけの気丈が、希美にも待っている。
《 blue sky 》
2つのベクトルを交錯させ、歩調を独立させる。
5年越しの going my way.
4つの瞳で見感 (みめ) でて、心で見合(みまぐあ)う。
6年間の矜持を分かち合うためのファイナルステージ。
北宇治の3年生たちは、ようやく一つ、大人になる。
蒼空を、それぞれに翔けていこう。
noiseは、残るのかもしれない。
それでも気持ちを、もう半音上げていこう。
きっと新しい わたしの青い鳥を見つけだせるはずだ。
さよなら。
さよなら、私の青い鳥 ―
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{netabare}
第三楽章
レヴューを書こうと思い立ったときに、とある本に目が留まりました。
「宮沢賢治の真実 修羅を生きた詩人」、今野勉著、新潮文庫(令和2年4月刊)です。
すぐにネットで注文して、届いたページをパラパラとめくっていると、22ページ目に ≪猥れて嘲笑めるはた寒き≫ という一文が飛び込んできました。
どう読むのだろう? どんな意味合いがあるのだろう? どんな背景を持っているのだろう?
そんな疑問を頼りにして、500ページを1週間ほどかけてじっくり読み込んでみました。
巻末の解説を首藤淳哉氏がされています。
その末語をこう締められておられます。
「繰り返そう。この本を手にしたあなたは、幸運である。」
心から、そう思いました。
賢治をこよなく愛するあなたに、この本を捧げます。
{/netabare}
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