ウェスタンガール さんの感想・評価
4.5
物語 : 4.5
作画 : 4.5
声優 : 4.5
音楽 : 4.5
キャラ : 4.5
状態:観終わった
それぞれの欲求、それぞれの存在
SFが持つ設定の幅広さは、人間に留まらず、怪物、人工知能、果ては霊的な存在に至るまで、数多くのIFを俎上に載せることを可能とし、エンターテインメントの衣に身を包み、この不安の世紀、究極の命題を我々に投げかけてくる。
フランケンシュタイン、メトロポリスを嚆矢として、自己の存在を問う多くの作品が作られてきた。
近年では、ブレードランナーやA.I.がその代表作と言ってよい。
エルゴプラクシーの造形が、これら先達をリスペクトして作られたことは明らかだ。
しかし、この世界観を把握し、ビンツ、リル、ピノと共に漂白の旅を楽しむには、若干の忍耐と、手強い言葉遊びに付き合う必要がある。
(キーワードとして)
“我思う、ゆえに我あり”
-コギト・エルゴ・スム-
ラテン語で、“考える”、“それゆえ”、“在る”、と言う意味だそうだ。
冒頭、主人公である“ビンセント・ロウ”が所属する組織の仕事、それは感染したオートレイヴの処理。
“良き市民”を守り導くはずのアンドロイドが “コギト” ウイルスに感染し、次々と自我に目覚めてゆく。
それと呼応するように現れた “エルゴ” プラクシーと言う存在とは何か?
永く安寧を保ってきたロムドと言う名のドームシティ、外界は死の世界であるとされ、ロムドこそが、人類唯一の拠り所、命をつなぐ“ゆりかご”とされてきた。
しかし、ロムドの崩壊は着実に進む。
それは仕組まれたものなのか。
創造主からロムドを託されし管理者、“桎梏(しっこく)”と呼ばれる老人。
彼の孫である“リル・メイヤー”は、自己の存在に疑問を抱き旅立つのである。
旅の仲間は、ビンツこと“ビンセント・ロウ”と感染オートレイヴ、愛玩型アンドロイドの“ピノ”。
そして現れる“モナド”プラクシーと言う存在。
{netabare}モナドとは現実存在の構成要素、それ以上分割できない単純な実体であるが、個別に属性を持つがゆえ内的な欲求を生む。
モナドは相互に独立しているがゆえ変化を生みだし、これが精神であり生命であるとされる。(ウィキより)
モナドこそが実存への推進剤と言って良いのであろうか。
訳も分からず、知ったようなことを書いている。
間違った解釈かもしれないので、そこはご容赦頂きたい。{/netabare}
ストーリーに身を任すのも良し、哲学的問答を楽しむも良しである。
どちらにしても、ラストに向かって全てのパーツが組み合わされ見事に謎が解かれてゆく。
1998年の“lain”以降、テーマを同じくする多くの作品が生まれた。
どれも面白い作品である。
2003年の“テクノライズ”を除いて、キーとなる魅力的な役を演じてきた矢島晶子さんに改めて注目したい。
1999年“THEビッグオー”のドロシー。
2002年“灰羽連盟”のクー。
2005年“エウレカセブン”のサクヤ。
2006年、今作のピノ。
2007年、“電脳コイル”、ヤサコの妹、ウンチの京子ちゃん。
そして、“神霊狩”の都ちゃん。
素晴らしい。