ossan_2014 さんの感想・評価
4.4
物語 : 4.0
作画 : 4.0
声優 : 4.5
音楽 : 5.0
キャラ : 4.5
状態:観終わった
想い出はモノクローム
シングルファーザーのマンガ家と愛娘のコメディ。
度を越した溺愛が、当たり前の日常をギャグ空間に変貌させる。
ネット上の本作の紹介では、主人公の職業を「エロ漫画家」と記述したものを時折見かける。
しかし、一見すれば誰でも理解できるように、主人公は「シモネタ漫画家」であって、「エロ漫画家」ではない。
自分の目で視聴せずに誰かの誤った記述をそのままコピペするなら、わざわざ紹介などする必要はないだろうに。
久米田康治原作らしく、ギャグの背後に「何か」を予感させる物語だが、隠されたものは、なんとなく「別れ」ではないかと予期させるものがある。
「子供」とは、肯定的であれ否定的であれ、いつか親から離れてゆくものだから。
特に、主人公同様に娘を持つ父親であれば、無心で視聴することは難しいかもしれない。
出色なのはEDで、この名曲をこのように解釈したとは!
まして、カバーではなくオリジナルの大瀧詠一バージョンとは、もうオジサン世代をピンポイントで泣かせにきているとしか思えない。
久米田康治の絵柄に寄せたED映像は、大瀧のアルバム・イラストのテイストにもよく似ていて親和性が恐ろしく高く、このEDだけで本作を傑作と呼びたいくらいだ。
幼い子供は皆、大人からは愛くるしく愛おしいものだが、やがて大人の保護や手助けを疎んで離れてゆく。
それは「成長」と呼ばれるものではあるが、「成長」を、干渉からの自由や、束縛からの自由と捉えるのは、「子供目線」からの視点だ。
アニメでは、大人と若者=子供が入り混じる作品「世界」では、ほとんど全てが、子供目線=子供の立場で描かれ、「成長」は常に自由=自己決定=全能感といった(子供の立場での)欲望肯定的な側面からしか描かれることは無いし、「大人」は得てして邪魔=障害の役割を負わされている。
子供=若者が主要キャラのアニメで「大人」が肯定的に描かれるためには、子供の欲望を全肯定するか、「大人」に見せかけられた年だけ取った「子供」であるしかない。
理解不能な異物は排除=視界外へ追いやって疑問を持たないのが「子供」であるから、「子供目線」アニメの「世界」において、本質的な意味での「大人」には出番がないのは当然かもしれない。
そうした視点からは、「成長」とは「愛しい子供」がいずれ自分のもとを去る事だと承知しながら、それでもなお子供の「成長」を願うという、ある意味で極めてシリアスで現実的な大人目線の物語を描く本作が、必ずしもアニメ視聴者の中心層に爆発的にヒットするわけではないギャグ作品であることは、意味深長で興味深い。
「世界」は個々人の事情にお構いなく、非常に存在するだけだ。
世界の非情から子供を庇護して愛しみたいという「愛情」と、庇護を必要としないほどたくましく育ってほしいという「願い」と、二つの感情に引き裂かれていることが主人公の暴走ギャグを駆動する。
二つの感情を十分に統合しているのが「大人」ではあるが、齢だけとれば誰でも「大人」になれるわけではない。それは「成長」ではなく、「見識」の問題だ。
分裂して暴走する主人公もまた、「大人」として完成する途上にあると云えるのかもしれない。
「子供目線」を絶対視する若者「成長」アニメでは、こうしたギャグは成立する余地はない。
想い出がモノクロームであるのは、「成長」過程を終えて「子供時代」を振り返る「子」の視点だろう。
親の心象では、想い出の中の幼い我が子は、いつでも天然色で鮮やかに笑っているものだ。
モノクロームの想い出に色がつくとき、それは「親」と成長した「娘」の、新たな立場で関係が始まる時なのだろうか。