fuushin さんの感想・評価
3.6
物語 : 3.0
作画 : 3.5
声優 : 4.5
音楽 : 4.0
キャラ : 3.0
状態:観終わった
助演と3DCG
見終わった印象が4つあります。
1、ストーリーがちびっと平坦だったと感じられました。
2、助演の設定があったら、違っていたかなと思いました。
3、3DCGにおける身体と表情と心情の表現が気になりました。
4、アニメーションの意味です。
*長文です。お時間のある時にお読みくださいませ。ペコリ。
1、ストーリー設定について
タキタの成長、捕鯨ならぬ龍(オロチ)捕り、漁師メシ、クルーの人となり、組織と協働の実相、同業者との競合、恋バナ、龍との関わり方、etc.
いろいろな要素がてんこ盛りで面白かったのですが、特段、目新しさは見当たらなかったし、ストーリーに揺さぶられるほどの起承転結があったようには思われませんでした。
ここでは、二つ述べてみます。
オロチ捕りという仕事のモチーフが「捕鯨」にあったとしても、その仕事自体が、現実の生活には即していないので、想像することがちびっと難しいと感じました。
捕鯨文化を大切にしてきた日本であっても、世界の世論が反捕鯨に傾いている環境の中で、日本人自身の文化性、つまり個人の心情として「捕鯨の良さ」が自認できなくては、"空挺" にシンパシーを得ることはなかなか難しいのではないかと思います。
私は、文化性を実感する入り口として一番手っ取り早く理解できる方法は「食べること」だと思っています。
北海道の方は沖縄の物産を、九州の方は東北の物産を食べてみる。
各地の郷土の文化性はそのまま個別の食文化として現われています。
家庭料理、郷土料理、特産品の一品料理も同じです。
"空挺" では龍の肉を食するシーンが多々見受けられます。
また、「食べるために獲る。獲ったら食べる」と主張します。
でも何といっても龍は未知の食材です。
そんなわけで、描かれる調理方法、風味や味わいは、龍を食べたことのない私の食欲を刺激することは最後までありませんでした。
ところで、フランスの味覚の権威、ジャック・ピュイゼ博士が、子どもの味覚を育てる理論を開発しています。
それによると、味覚はさまざまな要素で構成されていて、舌(味蕾)はわずか5%を受け持ち、残りのほとんどを嗅覚が担当しているとのことです。
そのほかにも、温冷による温度感覚、彩りによる視覚、咀嚼時の音による聴覚、形状による口腔内の皮膚感覚、また立体感覚なども、味覚を構成する条件だそうです。
つまり「五感で味わう」ことが、味覚の正体と言えるでしょう。
例えば、醤油せんべいを食べるときは、まず、醤油の香ばしい香りが鼻から脳に入ってきます。
その後に、形状、色味、噛み応え、舌触り、味わい。
そんな複雑な要素をしっかりと咀嚼することで、満腹感が得られるのだとしたら、その日一日の幸せにダイレクトな実感としてつながっていく・・・。
では、軍手をして目を瞑って鼻をつまんで食べているときのせんべいの味はいかがでしょう。
これは「味蕾のみ」からの信号です。
いかがですか?違いが分かりますか。
この違いがわかるなら、人間の文化性とは、食べることと不離一体となっていることが理解できると思います。
文化を吸収する一番の方法。それは食べることから始まります。
それが飯テロアニメにおける譲れない最低ラインなんだろうと思います。
私が考えるのはこうです。
日本が商業捕鯨を中止したのは32年前、1988年です。
まるまる一世代分の時間の喪失によって、鯨肉を食べる機会そのものが世代間で共有できなくなりました。
共通となる話題も少なくなり、共有できる満腹感の歓びもなくなりました。
これは食文化としての「断絶」です。
鯨肉はいろんな部位があってそれぞれに味わい方があります。
これも食文化の多様性が失われていくことになります。
個別部位の個別の料理方法は個別の技術=個別の文化だからです。
また、このご時世ですから高値で買うにはちびっと勇気が必要です。
また、ジビエ料理の台頭もあって、鯨肉でなければならない意識そのものも薄れてきているように思えます。
鯨ですらそういう状況なのですから、龍の肉料理をどう文化として想像しながら受け入れればいいのか、私の脳には、戸惑いと苦痛と、ついには諦めが混じるファンタジー作品になってしまった。
そう捉えてしまいました。
おまけですが、食べることは地球生命との共存を考えざるを得ない時勢です。
日本の高度で緻密な漁業技術が、他国に遷移していくなかでの乱獲の問題も気になります。
それぞれの食文化が豊かになる中で、人類以外の生命体への脅威になっている事実を無視することはできなくなる日も近いのかもしれません。
二つめです。
食文化についての話題を横においても、全体として単体のお話が小ぶりすぎて、大きなエモーショナルが沸き上がらなかったこと。
これに尽きると思います。
そもそもテーマが分かりません。何を表現したかったのでしょうか。
ドラマには、主人公の気持ちををあと押ししたり、導いたりするキャラの存在とか、絡みとなるエピソード、通底となるバックボーン、屋台骨となるテーマなどがあると思います。
それを要素分解すると、例えば、出会いと別れ、勇気と忍耐、笑いと涙、成長と未来、平凡と非日常の不思議など、一つ一つわかりやすいストーリーが表現されます。
また、目には見えないけれど、心にシンパシーを響かせるエモーショナルなシナリオが欠かせません。
信義、友情、挑戦、命への尊厳、魂の救済、他種族との共生などの要素です。
"空挺" のシナリオには、これらの要素のいくつかが描かれていましたが、"たっぷりと描き込まれていたか" と言うと、ちびっと物足らなさを感じました。
ミカやタキタの体験や心情を通じて得られるシンパシーが弱かったのです。
私は、そこに以下の三つの要素(2、3、4)を考えてみました。
2、助演について
"空挺" の世界設定は、どことなくラピュタに似ていますね。
ラピュタの助演と言えば、欠かせない2人がいます。そう、
40秒で支度をさせた、海賊ドーラ。
人をゴミと言い捨てた、ムスカ大佐。
この圧倒的な存在感を放つ助演が "空挺" にはいなかったのです。
ドーラもムスカ大佐も、主役を喰うほどに魅力的なキャラでした。
もしもラピュタにこの2人がいなかったなら、気の抜けたナントカになっていたでしょう。
そのナントカが "空挺" ではぬぐえませんでした。それがとても気になりました。
ラピュタと酷似した設定のハイファンタジー枠でありながら、"空挺" は所謂お仕事アニメです。
ですからもちろんラピュタと同列に見るべきではないのです。
でも、ドーラやムスカ大佐のような助演がいない世界観で、どんなふうにして、お仕事アニメをハイファンタジーの "物語として回せるのか"、そこが気になりました。
もう一つの要素は、それを演じてくれるキャラの設定です。
物語は、主演、助演、エキストラで成り立ちます。彼ら彼女らの生きざま、振る舞い、表情、何よりも "言葉" が、彩りと花を添えてくれます。
"空挺" は、オロチ捕りというお仕事の職場紹介や、職能集団の群像劇に重きを置いていることはストレングス(強み)としては特長的です。
でも、職場物語としては、回したり止めたりする "女傑" がいなかったこと、またべったりと絡む "プロフェッサー" がいなかったこと、この棘もなく毒もなく、主役のバネとなるような助演が不在だったことで、あっさり感ばかりが目につきました。
つまり、全体として、人間ドラマとしての印象が薄いのです。
これが、主役を引き立てる強烈かつ異彩を放つ助演を登場させなかった "空挺" の "特徴" であり、"弱み" になってしまったのだと思います。
"空挺" は、ラピュタのようなダイナミックな世界設定を、お仕事群像アニメにアレンジメントしなおしたことで、その相似性から、かえって平坦にならざるを得ない宿命を抱えこむことになってしまった。
その原因の一つが、"助演の不在" だったのではないだろうか。
そう感じました。
3、ポリゴンの技術力と演出力について
"空挺" は、フル3DCG技術の妙。そう感じました。
モデラーの動きをアニメ用にデフォルメし、ミリ単位のアクションを加工する。
これは、名だたる作画陣(特に手書きを信条とするようなプロフェッショナル)との競演・競合ですね。
3DCGと実写映画との近似性は、奥行きの表現性、遠近感の再現性です。
でも3DCGはまだそこに課題を残していると思います。
言いかえれば、3DCGなのに全体として何故か "平面的に見えてしまう" のです。
ん~、言い方が矛盾していますね。
そうですね、ピント合わせする領域が "広すぎて" 脳が疲れてくる。
そんな感じでしょうか。
2次元の作品で、シーンの見せ方で重要な課題の一つが「奥行き感=空気感(=キャラの心情の描き方の妙)」だと思います。
3次元でしたら、演劇の舞台やスポーツの競技場など、奥行き感=空気感をたっぷりと堪能することができます。
また、モノクロームの時代では、光と影、明るさと闇、パンとズームなどに、ゆたかな表現性と情感を乗せる隙間を生みだしたり、たおやかな余韻を残したりすることが可能であることは、それを証明する名作が数多くあります。
名作と評される作品は、その主題を見せる時、監督は、さまざまな演出とカメラワークでシーンを構築し作品へと仕上げていきます。
ここぞという要素を抽出してフィルムに焼きつけ、不必要なものは極力排除します。それは時として、台詞、伴劇、演者の顔でさえもです。
『リズと青い鳥』のように、です。
映像を観ている側の脳が馴染み、シンクロし、想像し、そして誤解させられるからこそ、それぞれの脳に、それぞれの評価が生まれてきます。
3DCGの場合、技術的な手段として、認知できうる数値データ(捕龍船のサイズなど)の入力範囲における "再現性=A"と、覚知できない・しない数値データ(背景の遠近の距離の数値など)の "再現性=B" との "馴染ませ方=奥行きの創り方=C" が今後の技術的課題になるのではないかと思いました。
もう一つは、キャラの表情の造形です。
3DCGですからディテールとしての身体のアクションがリアルなのは確かです。それゆえにかえって "相対的に" ですが、表情のアンバランス感やのっぺり感が、より一層に貧相に見えてしまいました。
このチグハグさが "空挺" のハイファンタジーとしての魅力、特にキャラの魅力をスポイルしているように感じました。
声優さんの演技はとても良かったと思います。でも、キャラの全身のボディメカニクスと表情筋とのバランスも、大切な要素のはずです。
3DCGの場合、作画スタッフにとって、モデラーさんの動きに、"かくある表情" を乗せるための「物理的な問題」があるのでは?と思います。
時間が足らないとか、スタッフの人数が足らないとか、あるいは描画力の問題なのか。それらは知る由もありませんが。
現場のスタッフの方のご意見はいかがでしょうか。気になります。
というわけで、「このシーン、せっかく大道具や小道具さんがしっかり造り込んでいるのに、このキャラの演技・表情だとリテイクさせたくなっちゃう。」と、もどかしく思えることが多々ありました。
カメラワークは3DCGならではで、ダイナミックな視線移動などがきっちり楽しめました。
けれど、その瞬間のキャラの表情に視点を向けると、前述のとおり、3DCGのデータ処理と表情の動きとのバランスの問題で、どうにもチグハグな動画に見えてしまいます。
この影響で、キャラの心情が "強く" 伝わってこないのです。
いったんそう見えてしまうと、どのシーンも同じようなレベルで見えてしまうので、心がワクワクドキドキに移行することは最後までありませんでした。
3DCGの表現性は年々向上していると思いますので、"空挺" もその一環、発展途上の作品として捉えています。
モデリング、テクスチャー、マッピング、ボーン、リギング。
テクノロジーの進化って凄いと思います。
気になるのは、モデラーさんは、キャラの "心情" の理解や解釈はどのように勉強なさっていらっしゃるのでしょう。
多様で複雑な心的動機から生まれてくる個別で固有の身体表現はどのように稽古しているんだろう?
キャラに設定されたセンス(独自性)そのものはどのようにして学んでいるのだろう?
それが疑問点でした。
エモーション(感情表現)をわずかな動きに乗せることは、バレエダンサーほどには要求できないことは承知しているのですが・・・。
でも、手書き作画に命を懸ける方々には、そこは譲れないラインなのではないかとも思うのです。
そのほかにも気になるファクターはいろいろあって、例えば、マテリアルの素材、サイズ、重さ、手触り。
もっと拘れば、道具の重心の位置や、潤滑油の劣化具合からくる軋み音とか。
手摺さえないデッキとシューズのマッチング(滑りにくさ)とか。
そういうところの追及も、3DCGアニメには大切な要素で、これからの課題なんだろうと思いました。
4、アニメーション
映像技術。それだけに捉えられがちです。
でも、第一義は「生気」です。
次が「活気」、その次が「活発」。
そしてようやく「動画制作」です。
3DCGに「生気、活気、活発」を与えるのがアニメーション。
これを逆並べすると、課題が見えてくるように思えます。
活発。これは合格かな?
活気。これはどうだろう?
生気。これは・・・。
ですから、楽しみです。3DCGのこれからが。
長文を最後までお読みいただき、ありがとうございました。
本作が、皆さまに愛されますように。